傷ついた恋人にマニュアルを叩きつけ、それを愛と信じて疑わない男が、今日もため息をつきながら窓の外を見ている。
窓の外は、どんよりとした雲が低く垂れ込み、蒸し暑さをさらに鬱陶しいものにしている。
それをジッと見ていた同僚の西川は、さっきから力のないため息を立て続けについている。
また始まったかと、鬱陶しさを増長しているその様子に嫌気がさしている俺は、ボソリと呟く。
「鬱陶しいやつめ。空気が濁るから、いい加減やめろ」
その言葉に対しても何の反応もなく、西川は再びため息をついた。
ここは、虎ノ門の高層ビルの上層階。総勢四〇名の弁護士が所属する大規模法律事務所。
俺・東郷シンと、西川やじろうは、同期の弁護士として、この事務所に既に十数年勤務している同僚だ。
同期と言っても、司法試験合格が同年というだけで、俺は一度サラリーマンを経験し、その後合格までに五年を費やし苦労して合格したが、西川は、東都大学在学中に合格し、世間を全く知らないまま弁護士になってしまった人物だ。
法曹の世界の中で司法試験合格者は、法律を扱う職業のカーストの頂点にあり、人にもよるが、例えば裁判所の廷吏や、パラリーガルなど、人間として見ていない。司法書士なども代書屋という言葉を使って蔑んでいる者もいる。
弁護士自身、歳を重ねる毎に傲慢さを増して行く。まぁ、職種柄だろうが、そういう者が多いということだ。
西川は、その典型的な男だった。
大学在学中に司法試験に合格してしまっていることから、世間を全く知らず、極端に言えば人間関係の機微を全く学習しないまま、弁護士という絶対的で排他的な権力を手に入れてしまった人物だ。
法曹の仕事は、単に法律の解釈をする仕事ではない。人が日々生きていく環境の中で、法律という規範を適用していく仕事だ。
そこには、法律の難解な文言を文言通りに定義して解釈するのではなく、人間にとって、いかに血の通った文言として解釈するかが仕事のはずだ。
弁護士の中には、法律を絶対視し、人間の営みは法律によって規定されており、この為、法律の文言を文字通り解釈することは、人間の営み自体を形成するものだ。などと勘違いしている者もいる。
西川の弁護士として優秀な頭脳は、一般常識という名の「マジョリティの甘え」を一切許さなかった。
それ故、他者のミスが許せず、仕事に対するモチベーションの希薄さには極めて辛辣な言葉で相手を攻撃する。
その為、周囲と協調することができず、仕事やプライベイトでも常に孤独で、それを良しとしていた。
事務所内で響く西川の冷徹な声に、周囲の者達はいつも蛇に睨まれた蛙のように硬直し、白か黒か、合理的か不合理かで問題を解決するその思考を嫌う者も少なくなかった。
そんな西川に、初めて彼女ができたらしいという噂が流れた。
周囲の者達は、冗談だろ、ほんとだったら面白いなどと噂しあい、中にはいつまで保つかという予想を賭けにする者も出てきた。大方の予想は二ヶ月で破局というのが、事務所内の通説となった。
そして、その予想は驚くほど正確に当たることになる。
交際開始からわずか二ヶ月が過ぎた頃、ぼんやりと窓から曇天の雲を見ていた西川は、
「わかれた」
ポツリと俺に呟いた。
その噂も、あっという間に事務所に広がり、中には、あたりまえだろう!と日頃の西川に復讐したような勝ち誇った顔をしている者も出てきた。
数日後、仕事が終わらず、俺と西川だけが事務所に残っていた時、俺は思い切って、「わかれた」の意味を聞いてみた。
「これを破綻っていう言葉にしていいのか、正直わからんが、まぁ、破綻なんだろうなと思う」
「お前、彼女に対して、俺たちと接する様な態度とってたんじゃないか?」
「いや、彼女に対して怒ったことは一度もない。むしろ他人の失敗を笑って許せる、温かい心の持ち主だった彼女を尊敬していたくらいだ」
「じゃあ、なんで別れたんだ」
「彼女は大手広告代理店でクリエーターをしていた。ある時、彼女が仕事のミスで常連客のイベントに大穴をあけそうになった。彼女は毎日泣きながら仕事をしていた。そんなの見て見ないふりできないだろう。だから僕は、弁護士として、パートナーとして、完璧な解決策を提示したんだ」
「弁護士としての解決策・・・」
「そうだ。代替案で必要となる物販を最短で確保するための法的・論理的ルートの構築。ミスを犯した市場の業者への毅然とした責任追及。今後二度と同じミスを起こさないための、業務フローの徹底的な効率化。これらを提案書とマニュアルに落とし込んで、彼女に渡した」
「・・・・・」
俺は、まじめにそう語る西川をまじまじと見つめた。
「お前、彼女が望んでいたのは、そういうことだと本当に思ってたのか?」
「わかっている」
西川は冷静にそう言い放つ。
「一般論として、女性がそういう場面で共感を求める傾向にあることも理解している」
「だったらどうして?」
それを遮るように、西川は話を続ける。
「気にしなくて大丈夫だよ、誰にでもあることさと声をかけることは簡単だ。だけど、それは僕にとって『偽善』を吐くことになる。僕は他人のモチベーションの低さや、注意不足によるミスが大嫌いだ。それは依頼者にとって不利益になるからじゃない。俺自身の矜持が許さないからだ」
「・・・・」
「あの時、僕が世間一般の『優しい彼氏』を演じて彼女を慰めていたら、彼女は僕のその偽りの優しさに依存しただろう。そしていつか必ず、僕の『正論絶対主義』に直面し、今以上の深い絶望と傷を負うことになる。僕の歪んだ人間性は、彼女のような純粋な人間を、いつか必ず内側から蝕み、壊してしまう」
「そうかなぁ・・・」
「彼女の未来を守るため、僕は僕のままで彼女を突き放すしかなかった。僕は提案書とマニュアルを彼女に渡しながら言ったんだ。『君のその詰めの甘さと、感情に流される態度は、僕の人生のノイズになる。これ以上、君の非合理性に付き合うつもりはない』」
「・・・・・」
「彼女は大粒の涙を流して、僕の元を去っていった」
「お前、それで良いわけ?」
「良いわけないだろ!」
西川は、キッ!と俺を睨んだ。
西川のこの言い分は、一見すると、彼なりの不器用なやさしさの裏返しとも受け取れる。あえてヒールを演じて彼女を正しい世界へ送り返した、という自己犠牲のロジックだ。
しかし、俺は目の前で憤る同期の顔を見て、強烈な冷や水を浴びせられたような気分になっていた。
こいつが必死に「優しさ」だと思い込んでいることは、実際は、世間の常識を著しく逸脱したただの「非常識」だ。傷ついている恋人に業務命令のようなマニュアルを叩きつけ、人格を否定するような言葉を放つ。それが愛情の裏返しでも何でもないただの暴挙であることに、こいつは全く気づいていない。
そして、その異常性がわからないこと自体が、周囲の連中から「二ヶ月で破局する」と揶揄され、その通りに動いた「予想通りの男」として馬鹿にされている原因なのだ。
結局、西川は何も分かっていない。人間が持つ本当の愛情や、相手を心から想う温かい気持ちというものは、こいつが得意な法律や契約書のように、ロジックだけで定義できるものではない。そんな当然のことにすら、こいつは気づかないままだ。
「お前、本当に世間知らずの、予想通りの男だな……」
俺の口から漏れた言葉は、西川には届かなかった。冷徹な正論という殻に閉じこもり、己の非常識さを気高き孤独と勘違いしている西川は、再びどんよりとした窓の外へ、無意味なため息を吐き出すだけだった。




