第七章 忘却
気がつくと、私は床に座り込んでいた。
リビングは静かだった。
さっきまで感じていた気配も、
動画の光も、すべて消えている。
ただ。
胸の奥に、ひとつだけ残っていた。
思い出してしまった記憶。
「……あの人」
私はゆっくり呟く。
その名前を呼ぼうとする。
でも。
声が出ない。
喉の奥で言葉が止まる。
私は立ち上がった。
部屋の中を見回す。
キッチン。
テーブル。
コップ。
あのコップ。
男が使っていたコップ。
私はそれを手に取る。
冷たい。
でも。
なぜか、少し懐かしい気がした。
その時。
玄関のドアが開く音がした。
「ママー」
子供の声。
私ははっとして振り返る。
子供がランドセルを背負って立っている。
学校から帰ってきたのだろう。
「おかえり」
私は言う。
でも。
子供は動かない。
不思議そうな顔をして、こちらを見ている。
「……どうしたの?」
私は笑おうとする。
子供はゆっくり聞いた。
「だれ?」
私は一瞬、意味が分からなかった。
「ママだよ」
そう言う。
でも。
子供の顔は変わらない。
困ったような表情。
「ちがう」
子供は首を振った。
「ママじゃない」
胸の奥が、冷たくなる。
私は一歩近づく。
「何言ってるの」
子供は後ろに下がった。
怖がっている。
その目は、完全に――
知らない人を見る目だった。
「……だれ?」
もう一度、子供が言う。
その言葉を聞いた瞬間。
私は理解した。
これを。
私は、知っている。
この現象を。
この呪いを。
あの人に起きたことと――
同じだ。
胸の奥で、何かが崩れる。
私は小さく笑った。
涙が出ているのかもしれない。
でももう、分からなかった。
「……そう」
私は呟く。
「やっと分かった」
その時だった。
視界が、ゆっくり暗くなる。
部屋の色が薄れていく。
壁。
床。
天井。
すべてが遠くなる。
子供の姿も、少しずつぼやけていく。
最後に見えたのは。
玄関に立つ、子供の姿。
困った顔。
そして、その言葉。
「……だれ?」
その瞬間。
世界が完全に暗くなった。




