第六章 思い出してはいけない人
スマホの画面は、まだ床の上で光っていた。
暗い動画。
スーツ姿の男。
こちらを見つめている。
私はしばらく動けなかった。
呼吸が浅くなる。
胸の奥が、強く痛む。
「……違う」
小さく呟く。
違う。
そんなはずがない。
でも。
私は、ゆっくり写真を見る。
そこに立っている男。
スーツ。
少し猫背の姿。
そして、その顔。
ぼんやりしていた輪郭が、はっきりしている。
私は目を閉じた。
頭の奥に、何かが浮かぶ。
玄関。
夜。
大きな声。
言い争い。
涙。
私は、誰かに言った。
「あなたはお父さんと同じ」
胸が強く締めつけられる。
その言葉の続きも思い出す。
「親が親なら子も子よ」
私はゆっくり息を吸った。
そして、気づく。
この男を。
私は知っている。
この家にいた。
このリビングにいた。
このキッチンで、コップを使っていた。
この写真を撮ったのも――
この人だ。
私は震える声で呟く。
「……どうして」
言葉が続かない。
どうして忘れていたのか。
どうして思い出せなかったのか。
その時。
床に落ちたスマホの動画が止まった。
黒い画面。
その中に。
私の顔が映っている。
そして、その背後。
男が立っている。
私はゆっくり振り返る。
誰もいない。
静かなリビング。
でも。
背後に気配を感じる。
私はもう一度スマホを見る。
画面の中の男が、ゆっくり口を動かした。
声はない。
でも。
はっきり分かった。
「思い出した?」
その瞬間。
部屋の空気が、わずかに歪んだ。
私ははっとして顔を上げる。
リビングの壁。
写真立て。
海の写真。
そこに写る男。
もう。
完全に私の隣に立っている。
私は後ろへ下がった。
足が震えている。
その時。
男の顔が、ゆっくりこちらを向いた。
私は息を止める。
その顔を見た瞬間。
頭の奥で、記憶が一気に繋がった。
この人は。
この人は――
私の夫だった。
そして同時に、私は理解する。
思い出してしまった。
でも。
もう遅い。
男の口が、静かに動く。
「またどこかで」
その言葉を聞いた瞬間。
世界が、ゆっくりと暗くなっていった。




