第五章 顔
私はしばらく動けなかった。
テーブルの上。
伏せたままの写真。
スマホの画面。
どちらも見たくないのに、視線が離れない。
胸の奥がざわついている。
まるで、何かが起こるのを待っているみたいだった。
私はゆっくり手を伸ばす。
写真を裏返す。
男の影は、まだそこにいる。
そして。
やっぱり近い。
さっきより、少し。
確実に。
私の背中に触れそうな距離に立っている。
私は息を止めた。
「……ありえない」
小さく呟く。
でも。
目を離すことができない。
男の顔を見る。
今まで、ぼやけていたはずの顔。
でも。
少しずつ、輪郭が見えてきている。
目。
鼻。
口。
まだはっきりとは分からない。
でも。
誰かに似ている。
胸の奥が強く締めつけられる。
私は思わず写真から目をそらした。
頭の中に、何かが浮かびかけている。
でも。
それを思い出してはいけない気がした。
その時だった。
スマホの画面が、勝手に光る。
私はびくっと肩を震わせる。
通知ではない。
動画が、勝手に再生されていた。
暗い画面。
ぼんやりした影。
そして、ゆっくりカメラが近づく。
私は目を見開いた。
その影。
スーツ姿の男。
少し猫背の背中。
それは――
写真の男と同じだった。
動画の中で、男がゆっくり振り返る。
私は息を止める。
顔が見える。
ぼやけている。
でも。
その瞬間。
頭の奥で、何かが弾けた。
記憶。
声。
玄関の音。
言い争い。
涙。
誰かの言葉。
「あなたはお父さんと同じ」
私はスマホを落とした。
床にぶつかる音。
動画は止まらない。
床に落ちた画面の中で、男がこちらを見ている。
そして。
ゆっくり口を動かす。
声は聞こえない。
でも。
その言葉だけは、はっきり分かった。
「やっと見つけた」
私は震えながら写真を見る。
男の顔。
もう、ぼやけていない。
その顔を見た瞬間。
胸の奥の何かが崩れた。
私は、ようやく理解する。
この男を。
私は――
知っている。
でも。
その名前だけが、どうしても思い出せなかった。




