賽はいつ投げられた? ―ジュリアス・シーザー異聞―
『戦記』と言えば『ガリヤ戦記』、
『ガリヤ戦記』と言えばジュリアス・シーザー。
そんなわけで今回のお話し。
シーザーによるローマ内戦の端緒となった、『ルビコン川渡河』の事件。
「『世界で一番』の手紙」以来の、世界史が題材の物語です。
1
「どうした?」
行列の歩みが止まったので、ユリウスは馬上から誰に問うでもなく尋ねた。
ユリウス――ガイウス・ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)は、長年に渡るガリア戦争に勝利し、ローマへの帰還の途にあった。従える兵士たちは絶大な戦果に酔いしれ、意気軒高である。少々の疲れで歩みを止めるとは思えない。
「申し訳ございません、閣下」
前方から精悍な顔つきの男が馬を走らせてやってくるなり声をあげた。今回の遠征で副官を務めたティトゥス・ラビエヌスだ。
「この先で乞食が我々の行進を妨げているのです」
ティトゥスはそう報告した。「すぐ斬り殺して道を開けさせます」
「まぁ、よせ」
ユリウスは戻ろうとするティトゥスを呼びとめた。「乞食であろうとローマの民ではないか?」
ティトゥスは馬を止めると振り返った。「ですが、すぐに退きそうにないのです」
「その乞食はなぜ、我らが進むのを阻む? 理由はあるのか?」
ユリウスの問いにティトゥスは首を振った。「いいえ。理由どころか、その乞食は自分がなぜ道の真ん中にいるのか理解できていないと思われます」
ティトゥスの声にはわずかだが侮蔑の響きがあった。「どうも物狂いでもあるようなのです」
「ならば、なおのこと、彼の者を殺めてはならん」
ユリウスはたづなを握り直した。「どれ、私がその乞食に道を開けるよう頼んでみよう」
ユリウスは馬を進ませる。ティトゥスは驚いて目を大きく見開いた。「本気ですか、閣下?」
「お前たちに任せたら、その乞食は殺されずとも道のはしに打ち捨てられるだけだろう?」
ユリウスはそう言いながらティトゥスのかたわらを駆け抜けた。ティトゥスはユリウスをぼんやりした表情で見送っていたが、我に返ると慌てて馬を走らせて後を追った。
ティトゥスが報告したとおり、道の真ん中にひとりの老人がぼろをまとって座り込んでいた。髪や髭は伸び放題で、日に焼けた真っ黒な顔に何本もの深いしわが刻まれている。まるで百年以上は生きていたようだ。
老人は、ただ座っているだけではないようだった。地面の一点を難しい表情で見つめている。その表情には、何か思案にふけっているように感じさせた。
もちろん、老人の事情でこのまま立ち止まったままにはいかない。数名の兵士が槍の穂先で老人を周囲からつついて立ち去らせようと試みていた。放っておくと兵士の誰かが老人を殺してしまうかもしれない。
ユリウスは兵士たちのそばまで馬を近づけると、片手をすっと挙げてみせた。規律の行き届いた兵士たちはそれを見るや槍を垂直に持ち替え、直立不動の姿勢になった。この程度のことであれば、ユリウスと兵士たちとの間に言葉はいらない。彼らはユリウスのわずかな指の動きでさえも指示を読み取って、統一された行動ができるのだ。
「ご老人、いかがされた?」
ユリウスは馬から降りると老人に話しかけた。かたわらで身をかがめ、老人が見つめる先を一緒に見つめる。
……賽子?
地面には賽子が3つ転がっていた。老人はじっとそれらの賽子を見つめ続けていたのだ。
「この賽をな……」
老人は低くしゃがれた声でユリウスの問いに応じた。耳をすまさなければ聞き取れないほど小さく、ざらざらした感覚をもたらす声だった。
「振るのが怖いのじゃ」
「怖い?」賽を振るのが怖い? ユリウスには理解できなかった。
「何を恐れている?」
老人は顔を上げた。しかし、かたわらのユリウスに顔を向けようとはしない。
「儂は、儂はずっと騙されて生きてきた。かつてはローマで裕福な暮らしをしてきたが、いつの間にか財産を奪われ、地位を奪われ、何もかも無くしてしまった。儂はひとを信じることができぬ。いや、儂自身も信じることができぬ。儂の判断が信じられぬ。儂を騙した者を信じたのは儂自身じゃ。儂が判断したことだ。以来、儂はすべての判断をこの賽子に委ねた。賽子の目のままに進む道を定めた。安らかに生きられる土地を探してさまよってきた。すべて賽子の目が示す道を歩いてな……」
生き馬の目を抜くように他人を出し抜くのがローマの『当たり前』だ。老人の身の上話はありきたりのものと言える。しかし、ユリウスは老人の話に耳を傾け続けた。
「ほうぼう歩いた。あちこち渡り歩いた。しかし、安住の地など未だ見つからぬ。儂はここで次にどちらへ進むべきか賽子を取り出したが、ふと思ったのだ。次に現れた賽子の目が指す先に何があるのかと。これまでと同じ苦しみに満ちた土地ではないか。儂は賽子にさえ裏切られているのではないか。そう思ったとたん、賽が振れなくなった。ただこうして、うずくまるほかなくなってしまったのじゃ……」
すべてが信じられなくなった人間の末路がこれか。
ユリウスは背筋にこわばるものを感じながら思った。この老人は自分の意志決定さえ放棄して賽子の目のままに生きてきたのだろう。
だが、賽子は決して幸運の女神でも、コーンセンテース・デイー(ローマ12神)の代弁者でもない。賽子が示すのは、どちらに向かうのかわからぬ不安定な未来だ。老人はそんなものに自分の行き先を決めさせていたのだ。
老人を愚かだと言うのは容易い。しかし、ユリウスは老人を馬鹿にする気持ちは湧いてこなかった。一瞬だが、自分のなかに老人と同じものがあると感じ、それで恐怖を覚えたからだ。自分もまた、周りに裏切られ、欺かれ続けてきた。この哀れな老人の姿は、未来の自身の姿かもしれないのだ。
「ご老人。提案がある」
ユリウスは老人の肩に手を置いた。
「私にこの賽子を振らせてもらえないか」
老人はぼんやりした表情でユリウスに視線を向けた。初めてユリウスの存在に気づいたようだ。
「ご老人はどちらに進もうと悩まれておられた? 北か南か、なのか?」
老人の返事を待たず、ユリウスは話し続ける。「北か南か」と尋ねたのは、この街道が南北を通るものだからだ。進む道を悩むのに東と西は考えにくい。東は見渡す限りの平原で、その先にあるのはアドリア海である。逆に、西へ広がるのはうっそうとした森で、森を抜けた先にあるのは険しいアペニン山脈だ。俗世から離れることはできるが、老人の足で進むにはどちらも厳しい。この街道沿いであれば、北にも村や町はあるし、南に進めばアリミヌムの街がある。どちらも近いとは言えないが、東や西へ進むことに比べればよほど安全であろう。
老人が何も答えないので、ユリウスは賽子を拾い上げながら「では、奇数であれば北。偶数であれば南でどうだ? 私に賽子の目を操る術などない。私が振っても、ご老人が振るのと変わりはないぞ」と語りかけた。老人に反応はやはり見られない。
ユリウスは賽子を振った。おそらく象牙で造られた賽子は、手垢で茶色に変色していた。賽子は薄汚れた体で転がりながら、すぐに止まった。6が3つ。合計18。偶数だ。
「ご老人。賽子は南へ進めと言っているようだ。最大数6のゾロ目だ。きっと、この先に安住の地があるに違いないぞ」
ユリウスはそう笑いかけながら老人の肩を叩いたが、老人の表情に動きはなかった。じっと地面の賽子を見つめていたが、急にすっと立ち上がった。
どうしたのかと見つめていると、老人は森に向かって歩き出す。ユリウスは老人に声をかけた。
「どこへ行く? 賽子の目は南を指したのだぞ。そっちは西だ」
歩き出した老人は数歩進んだところで立ち止まり、顔だけをユリウスに向けた。
「その賽子はもう、儂の目を出さぬ。だから、賽子の目が示す方角とはまったく違う道を進むのじゃ」
老人の答えに、ユリウスは眉をひそめた。「賽子の目は私の道を指していると?」
老人はその問いに答えることはなかった。向きを変え、そのまま歩き出す。やがて、老人は森に入って姿が見えなくなった。
ユリウスは、どこか置き去りにされた感慨を抱きながら地面を見下ろした。そこには、持ち主に拾われることなく転がったままの賽子がある。6が3つ。もし、賭け事であれば、勝ちの目だ。
「これが私の目。道だと……?」
ユリウスはひとりごちた。
2
このころのユリウスはかなり危険な状態にあった。
ガリア戦争において、ユリウスは完全制圧という最大の結果を出した。ローマの民はその報せに歓喜し、彼を讃えた。
この状況をポンペイウスが危険視した。かつてはポンペイウスとユリウスにクラッススを加えた三頭政治で、元老院とのバランスがとられていた。しかし、カルラエの戦いでクラッススが戦死したことで三頭政治は崩壊。また、ポンペイウスの妻ユリアの死がポンペイウスとユリウスとの距離を広げることになる。ユリアはユリウスの娘で、ふたりを結ぶ象徴でもあったのだ。
これを好機と見たのか、ポンペイウスにカトやルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスが接近した。ふたりはユリウスにとって「敵」のひと言以外に表しようのない人物で、ことあるごとにぶつかった相手でもある。
ユリウスはガリヤ属州総督の立場にあり、ローマにいなかった。彼不在の間に、ローマではユリウス排斥の動きが活発になり、元老院はついに『元老院最終勧告』を発令してしまう。これに反対したユリウス派のマルクス・アントニウスらが追放され、ユリウスには「戦うか、屈するか」の二択しか残っていなかった。
元老院の最終勧告は、ユリウスに軍を解散させてローマへ戻ること、そして、最高執政官の立候補を断念することを要求していた。ユリウス個人に対する降伏勧告だったのだ。これを受け入れれば、ユリウスは完全に権力を失う。元老院の政治に抗ってきたユリウスに対する元老院派の憎悪は激しく、生命の危険もあった。
ユリウスはともにガリヤで戦った兵士たちを連れてルビコン川の近くまで迫っていた。ローマの法では、軍隊を率いてルビコン川を越えることはローマに対する反逆とみなされ、指揮した者はもちろん、それに従った者も死刑とされた。このまま軍を解散させずに川を渡るのは大変な危険を伴うことだった。
このような状況にあって、ユリウスが何を考えていたのか。その正確な記録は残っていない。ただ、ここでユリウスが同志と呼んでいいほどの兵士たちを前に演説を始めたのは、兵士たちを自分の争いに巻き込んでいいものか、あるいは、彼らが従ってくれるか、葛藤や不安があったのではないか。ルビコン川からそれほど離れていない、丘の上でのことである。
「諸君には、これまで多くの苦難に耐えた記憶があろう」
ユリウスは大勢の兵士たちに自分の姿がよく見えるよう、一段と高い位置から大声をあげた。彼の声はよく通り、遠くの兵の耳まで届いた。これまでも、この声の力で周りを説得し、あるいは威圧した。彼は自分の声に自信を持っていた。
「この試練に耐えたことで、ガリヤの地は我らローマのものとなった。諸君らのおかげだ!」
兵士たちから歓声があがった。こぶしを高く上げる者もいる。
ユリウスは歓声が収まるのを待つと、やや暗い表情で続けた。
「だが、ローマから諸君を讃える声は聞こえてこない。ただ、この場で武装を解き、ただのローマの民として帰還するよう伝えるのみだ」
この言葉に対する兵たちの反応はわかりやすかった。誰もが不満そうに顔をしかめ、沈黙したのだ。
「元老院は、私がこの戦果をもって最高執政官に立候補するのを望まない。私はただ、諸君らのこれまでの労苦に報い、報酬を得られるようにしたいだけだ。同時に、ガリヤから得られる富をローマの民と分かち合いたいだけだ。なぜ、元老院はそれを拒もうとする?」
ユリウスはさらに声を張り上げた。
「それは、元老院が腐敗しているからだ! 彼らは我らに苦難だけを押し付け、何もしていないのに我らが得たものを奪おうとしている。どうやって? 法の力でだ。法は、我らが武装したままルビコン川を渡ることを許さない。もし、それを破れば、我らはローマの敵として殺されることになる。元老院が決めた、この悪しき法によって!」
今度は、兵たちから怒号があがる。彼らは本気で怒っていた。ユリウスの言葉に嘘があると、誰も考えなかった。ガリヤ戦争では、ユリウスは兵たちに対して誠実で、部下が危機に陥ったときは見捨てることなく助けに来た。兵たちのユリウスに対する信頼は絶対的であり、また、ユリウスが元老院から疎まれているのは、彼らもうすうす感じていることであった。そのため、誰もユリウスを疑わなかったのだ。
「ローマの秩序のために、法は守られなければならない。しかし、法を扱う者が、私欲のために都合よく利用すれば、法は秩序を維持するものでなくなる。私と、諸君らの不安定な状況は、この法によるものだ。どうだ、諸君? これが秩序を保つための法と言えるだろうか?」
「違う!」
どこからか声があがった。「俺たちを苦しめるものが本当の法であるはずがない。これは偽物の法だ!」
すると、あちこちから「そうだ!」、「元老院が勝手に決めたことだ!」と、呼応する声があがる。
「私は、これから重大な決断を下す。私は、ガリヤを制した諸君らとともにローマへ入る。元老院に彼らの過ちを認めさせ、誰がローマのために血を流し、尽くしてきたかをわからせる。法を盾に、我らを恫喝する奴らに思い知らせるのだ!」
ユリウスがこぶしを高くつきあげると、怒号は歓声に変わり、皆も同じようにこぶしをつきあげた。
――完璧な反応だ。
ユリウスは手ごたえを感じた。これで、ひとりの離反者もなくローマに進められる――。ユリウスがそう考えた瞬間だった。
「いけません、閣下! どうか、お考え直しを!」
兵たちの歓声に負けないほどの大声が丘の上に響き渡った。
「なりません。それだけは!」
そう言いながら進み出てきたのは、蒼ざめた顔のティトゥスだった。
3
「閣下。差し出がましい態度をとることを、どうかお許しください」
ティトゥスは胸に手を当てた格好で話し続けた。そして、後ろを振り返り、兵たちに向かって大声をあげる。
「どうか、諸君らも聞いてほしい!」
「奴を斬ります」
クィントゥス・ホルテンシウスが剣の柄に手をかけて進み出ようとする。ユリウスは手をあげてそれを制した。「よせ、クィントゥス」
ユリウスはティトゥスに視線を向けた。「話すがいい」
ティトゥスはユリウスに向かって頭を下げると、再び兵たちに顔を向けた。
「私は、これまでずっと閣下のおそばで働いてきた。命の危険など、数え切れないほどともにした。だから、元老院の仕打ちがひどいこともわかっている。諸君らの労苦に元老院が充分に応えていないのもわかっている。それでも、それでも武装したまま川を越えてはならない!
どんな法であっても、やはり法なのだ。法を守るからこそ、我らは誇りあるローマ人として認められるのだ。それに、武装したままルビコン川を越えてはならないと定められたのは、閣下が元老院と対立する前からのことだ。それが、ローマの秩序を保つために必要であったからだ。
もし、我らがその法を破り、川を越えて進軍することになれば、ローマの法が力を失ってしまう。法は人間の理性が生み出した、人間が人間たらしめる理だ。我らがその理を砕いてもよいのか? 我らの先達者が築き上げた人間世界を崩壊させてもよいのか?」
ティトゥスの演説に応える者はいなかった。ただ無言で彼を睨むばかりである。
ティトゥスはこの状況にひるまなかった。さらに大声をあげる。
「もし、閣下に従って川を越えると、諸君らも罪人として死刑が宣告される。元老院は罪人に遠慮などしない。法を、秩序を守るための討伐軍が編成され、諸君らは討たれることになる。ローマで諸君らの帰りを待つ家族は、諸君らの遺体と面会することになるぞ!
だが、ここで法を守り、武装を解除すれば、諸君らは罪人にならないのだ。法を守る者をローマは断罪しない。それが、これまでのローマだ!」
「だが、その法が閣下を断罪しようとしているぞ!」
どこからか反論の声があがった。
「まだ、川を越えていない閣下を!」
「たしかに、『元老院最終勧告』はやり過ぎだ」
ティトゥスは認めた。
「しかし、あれもきちんと手続きに則って発令されている。法を守って進められているのだ。私はそこに閣下が救われる道があると信じている。
つまり、閣下には武装を解除してローマへ帰還し、自分に非がないことを訴えていただくのだ。そうすれば、ローマの民はきっと、閣下を支持してくれる。今回のガリヤ平定で、誰が一番の功労者なのか、ローマの民は充分知っているからだ。
民から圧倒的に支持される者を、元老院もどうにかすることはできないだろう」
――なるほど。
ユリウスはティトゥスの言葉に、心の内でうなずいた。そうだ。君は正しい。もし、元老院に巣くうのが、君と同じ者であれば、私もそう考え行動しただろう。
――しかし……。
ティトゥスは大きな考え違いをしている。
もし、ユリウスがティトゥスの言うとおりに行動しても、その先にあるのは破滅しかないのだ。
ポンペイウスに近づいたルキウスは、かつて実の兄をポンペイウスに殺されている。つまり、仇に取り入ってまでユリウスを排そうとしているのだ。この、なりふり構わずの姿勢がユリウスに確信させる。ルキウスは何が何でも自分を殺すつもりなのだと。
元老院派にどこまで法を守る意思があるのか。丸腰でローマへ戻れば、自分は適当な理由で拘束され、人知れず牢の奥で殺されるだけだ。
それをティトゥスに説明してもわかってくれるだろうか。ユリウスが確信していることを、ティトゥスも同じように理解できるだろうか。
――おそらく、無理だろう。
ティトゥスはまっすぐな男だ。それに、他人の悪意を信じないところがある。よく言えば誠実。悪く言えばとんだお人よしなのだ。
そんな性格だからこそ、今、ここでユリウスの考えに異を唱えている。それに、ティトゥスを論破でもすれば大勢の前で恥をかかせることになり、彼は態度を硬化させるだろう。
今後のことを考えれば、クィントゥスが言ったようにティトゥスを殺したほうがよい。しかし、ユリウスは彼を殺したくなかった。ユリウスと対立する立場をとっても、それでもティトゥスはユリウスに誠実であり続けるからだ。
「ティトゥス。君の考えはよくわかった。私も今すぐ行動に移すわけではない。今日はここで野営し、心を落ち着かせようと思う。君はどうする?」
ユリウスはティトゥスに優しい声で話しかけた。
ティトゥスは周囲を見渡し、自分の演説が思ったほど賛意を得られなかったことを感じた。彼は納得したように大きくうなずくと、腰に差した剣を鞘ごと地面に降ろした。
「私は自ら武装を解き、ローマへ戻ります」
すっかり武装を落とし、ティトゥスはユリウスに背を向けて歩き出した。
「通してやれ」
ティトゥスの前に立ちはだかろうとする兵たちにユリウスは短く命令した。ティトゥスはユリウスに礼を言うこともなく、そのまま丘を下っていった。丘を下った先にある小さな橋に向かっているのだろう。その橋が架かっているのがルビコン川だ。
「よろしいのですか?」
クィントゥスはユリウスのかたわらへ寄ると囁いた。もし、ユリウスが「ティトゥスを殺せ」と命じれば、ためらうことなく行動に移すだろう。
しかし、ユリウスは小さく首を振った。「ティトゥスのことは些事だ。それより、もっと大切なことを君に頼みたい」
クィントゥスは意外そうな表情を浮かべた。「大切なこと……?」
「君には軍を率いて川沿いを東に向かってほしい。ここより1里先にも橋が架かっていたはずだ」
「はぁ、たしかに」
「君はそのまま橋を渡り、アリミヌムを押さえてほしいのだ」
クィントゥスの顔つきが変わった。「私が先陣を務めるのですか?」
「ティトゥスの言ったことは部分的に正しい。もし、ローマへの進軍に時間をかければ間違いなく我々は罪人としてローマから処断される。そうするだけの時間的余裕を与えてしまうからだ。しかし、元老院が我らを罪人として糾弾する間もなくローマを制圧すれば……」
「我らは元老院の腐敗を正す、正義の軍となる……ですね?」
クィントゥスは目を輝かせる。ユリウスは小さくうなずいた。「まぁ、そんなところだ」
ティトゥスは自ら武装を捨てた。当然、馬にも乗らず、徒歩でローマへ向かうはずだ。つまり、ティトゥスの先回りをしてアリミヌムを押さえ、さらに軍を進めてしまえば、ティトゥスにローマへ急を報せる手立てがなくなる。ユリウスの行動を元老院が知ったときには、すべてが決着していることだろう。
クィントゥスは大きくうなずき、「ただちに作戦へ移ります」と駆け出した。
ユリウスはクィントゥスの背中を見つめていたが、ふと胸の違和感に気づいて甲冑の奥に手を差し入れた。
ふところから取り出されたのは3つの賽子だった。それは、あのとき老人が放置したものをユリウスが拾っておいたものだった。
4
朝もやが立ち込めている。
あたりは完全にまっ白な状態だ。
1月を過ぎているというのに、寒さはまったく感じない。
ユリウスはそれを自分が高揚しているからだと解釈した。
先行したクィントゥスの軍は予定通りアリミヌムを押さえた。ひと晩休養をとった本隊が川を越え、ローマへ進軍するときが来たのだ。
「進め!」
大音声で命じたのはデキムス・ブルトゥスだ。アレシアの戦いなど重要な作戦の指揮を任された、ユリウスがもっとも信頼する腹心のひとりである。
兵たちはざくざくと地面を踏みしめ、続々と橋を渡っていく。丘の上ではもやのせいでまったく様子がわからない。ユリウスは本陣である丘の上から馬を進ませ、自らも橋を渡ることにした。
「余裕ですな」
いつの間にかデキムスがユリウスのかたわらから声をかけていた。何の不安もない表情が頼もしい。
「我らの行動を知れば、ポンペイウスはどうするだろう?」
ユリウスの問いに、デキムスは首を振った。
「ローマでは軍の編成が行えません。奴らはなすすべなく我らに蹂躙されるだけでしょうな」
デキムスがそう言って笑いかけた瞬間である。
どこからか飛んできた一本の矢がデキムスの胸を貫いた。
「何だと!」
ユリウスはたづなを引いて馬の歩みを止めた。デキムスは驚愕の表情を顔に張り付けたまま馬からずり落ちてしまった。
「敵襲!」
誰かの叫び声が聞こえる。
――敵襲? 敵襲だと!
疑問の声がユリウスの頭のなかで響く。いったい、どうやって敵が襲ってきているのか。いや、そもそも敵とは誰だ?
ユリウスの周囲は一瞬にして戦場と化していた。
兵たちは槍を突き出し、剣を振り回して姿なき敵と戦っているが、次々と倒されていく。
……ああ……。手塩にかけて鍛え上げた第10軍団が……。
ユリウスはなすすべなく倒れていく兵を見つめながら悲痛の表情を浮かべた。
……誰だ? 誰がここで待ち伏せていた?
ユリウスがどう動くべきか迷っているところへ、「閣下!」と叫びながら一頭の馬を駆ってくる者がいる。もやでわかりにくかったが、近づいてくるとそれがガイウス・クリオだとわかった。
「閣下、ご無事で!」
「君か。いったい、これはどうしたというのだ。敵は誰だ?」
「ポンペイウスです! 奴の幟を見ました!」
「ポンペイウスだと? 馬鹿な!」
――そんなはずはない!
「奴ら、川向うの茂みに身を隠して我らを待ち受けていました。この朝もやのせいで気づくのが遅れたのです!」
――奴らは油断していたはずだ。ティトゥスの警報が間に合ったはずもない!
「完全に裏をとられました。第10軍団は壊滅です。どうか、閣下だけでもお逃げください!」
「何を言う! 私だけ味方を置いて逃げろだと!」
そこへ、ひゅうという音とともに、もやから一本の矢が現れた。矢は正確にガイウスの背中を貫き、ガイウスはそのまま地面へと落ちていった。
「なんてことだ、ガイウス!」
ユリウスは絶叫した。
そう。なんてことだ。ポンペイウスにこれほどの知略があったとは。彼は、ユリウスの行動を予想し、あらかじめルビコン川のそばで軍を隠していたのだ。
ローマで軍を編成するには時間がかかる。つまり、ポンペイウスは『元老院最終勧告』の発令とともに行動に移していたということだ。そこまでこちらの行動を読んでいたとは……。
さらに一本の矢が現れ、今度はユリウスの胸を貫いた。ユリウスは自分の胸に刺さった矢を呆然と見つめた。
……不思議だ。全然、痛みがない。いや、痛みすら感じられぬほど私は打ちのめされたのだ。さすがだよ、ポンペイウス。君がこれほど優れているとは、私は本当に君を見誤っていた……。
呆然としている間に矢は次々と現れ、ユリウスの胸を貫いていく。
……そうか……。これが私の運命なのか……。
ユリウスは天を仰いで両手を大きく広げた。彼がすべてを受け入れた瞬間、額めがけて一本の矢が飛んできて……。
5
がくんと頭が揺れる感覚とともに、ユリウスは目を開いた。
ぼんやりした頭であたりを見渡す。
そこはルビコン川の橋の上ではなく、司令部とした天幕のなかだった。彼は簡易机の上に広げられた地図を前に座っていたのだ。どうやら、作戦を考えている途中で眠り込んでしまったらしい。
「あれは夢だったのか……」
ほっとすると同時に寒気に襲われる。彼は身震いしながら両肩を抱きかかえた。1月の寒気は天幕のなかも冷やしきっていたのだ。
「閣下、こちらにおられたのですか」
デキムスが天幕をめくって顔をのぞかせた。「昨夜からずっとここに?」
「まあな……」ユリウスはあいまいにうなずいた。
「かがり火もない寒いところで……」
デキムスはそう言いながら天幕に入ってきたが、ふと立ち止まった。
「閣下、どうされました?」
「どう、とは?」訳もわからず、ユリウスは聞き返した。
デキムスは少し言いにくそうな表情だが、小さくため息をつくと口を開いた。
「いえ、閣下が私の顔をじろじろ見ているので……。私の顔がどうかしたのかと……」
「気にすることはない」
ユリウスは立ち上がりながら答えた。「私は君の元気な顔が見られてほっとしたところなのだ」
「それはありがとうございます」
デキムスはそう応じたが、『しかし、なぜ?』と問いたげな様子だ。
ユリウスはそれに答えず、天幕から外へ出た。
1月の外気が頬をピリピリと刺す。今朝は一段と冷え込んだようだ。あまりの寒さに、あの冷え切った天幕のなかでさえ暖かかったのだとユリウスは思った。
天幕はユリウスが演説した丘の上に据えられていたので、外の景色がよく見渡せた。眼下にはルビコン川が流れている。あたりは見渡す限りの平原で、近くに伏兵が忍ぶことのできる場所はない。いや、そもそも、この周囲にはユリウスの第10軍団以外にひとの姿はまったく見られなかった。
ユリウスに続いて天幕から出たデキウスは、ユリウスの笑う声に目を丸くした。ユリウスはこれまで見たこともないほど笑っていたのである。
……あの夢は、私の不安が見させたものか。私の策の裏をかくには先制攻撃以外ないからな。万が一、私の行動が読まれて先手を打たれていれば、精強な第10軍団であっても苦戦は必至だった。いや、夢のように壊滅していたかも……。
――だが……。
ルビコン川に元老院派の兵の姿はまるでなかった。もちろん、ポンペイウスの兵も。
彼らは、ユリウスが馬鹿みたいに軍団を解散させ、丸腰でローマへ戻るのを今か今かと待ちかまえているだけなのだ。
――勝った……。
まだ戦いが始まったわけでもないのに、ユリウスは自分の勝利を確信した。自覚していなかった懸念が、これほどわかりやすく払拭されているのだ。勝てないわけがない。
「クィントゥスから報せは届いているか?」
勝利を確信しながらも、ユリウスは戦況の確認をした。行動は大胆だが思考は慎重。ユリウスには、こんな矛盾するような性質があった。しかし、この性質によって敵と味方が入り乱れ、状況判断の難しいガリヤ戦争を勝ち抜いたのである。これからローマへ進軍するときにおいても、それは変わらなかった。
「は。クィントゥスの部隊からはアリミヌムを制圧したと報告が来ております。アリミヌムからローマへ報せようとする者も逃していません。元老院は、まだ我々の動きをつかんでいないはずです」
デキムスは用意していたようにすらすらと答えた。もともと、この報せを届けるべくユリウスを探していたのだ。
「うむ。上々!」
ユリウスはこぶしを高く掲げた。「出立する!」
******************************
ユリウス率いる第10軍団は、紀元前49年1月10日、ルビコン川を渡ったとされる。そのとき、ユリウスが兵たちに檄を飛ばした言葉を、スエトニウスが『ローマ皇帝伝』で次のように伝えている。
――ここを渡れば人間世界の破滅、渡らなければ私の破滅。神々の待つところ、我々を侮辱した敵の待つところへ進もう。賽は投げられた……!
ユリウスがはたして、賽の目が示す運命を意識していたのだろうか? それを知るすべはない。しかし、知ったところで意味はないだろう。どのような運命が待ち受けていようと、ユリウスは進むことをためらわなかったからだ。
ユリウスはローマへ向かう途中、コルフィニウムを包囲。一週間足らずで陥落させた。ユリウスの動きを知った元老院側の者たちは慌てふためいたが、もはや手の打ちようがなかった。討伐軍を編成するには、あまりにも時間が足りなかったのである。
ユリウス軍が間近に迫るなか、ポンペイウスは兵団を組織できないローマをあきらめ、ギリシャへ逃れた。そのとき、元老院派の議員たちも同様にローマを去った。
間もなくユリウスは敵のいなくなったローマへ到着し、その支配を決定づけた。それから4年の歳月をかけ、この内戦を終結させたのである。
蛇足だが、ユリウスが手にした賽子がどうなったか、その記録は残されていない。
実は、アイデアそのものはこの「なろう企画」のひとつ、「分水嶺」で考えたものです。
当時はアイデアをまとめられず、一行も書けないうちに時間切れになってしまいました(このときはまるで違う話を投稿しましたが)。
『戦記』をテーマにひとつ、と考えたとき、冒頭の老人にまつわるエピソードを思いつき、全体のストーリーがまとまりました。
それまで、これを形にしようとすら考えてなかったので、きっかけというのは不思議なものだと思っています。




