よんでいたのは誰?
少しグロテスクな表現があります。
古びた喫茶店の奥は、珈琲と紙の匂いが絡み合っていた。
外のざわめきは扉一枚で遠のき、店内には穏やかな静けさが沈んでいる。
低い照明に照らされた木の壁は長い歳月を吸い込み、どこか湿ったような香りを漂わせていた。
仕事の合間、ほんの気まぐれで立ち寄った。
時間調整と休憩を兼ねて、ただ温かい飲み物が欲しかっただけのはずだった。
カウンターから漂う深煎りの香りに誘われながら、ふと奥の本棚へ視線が吸い寄せられる。
革張りの一冊が、他の埃を被った背表紙の中で妙に浮き上がって見えた。
取り上げると、ざらりとした革の感触が掌に残る。
表紙には題名も著者名もなく、ただ使い込まれた古さだけが刻まれている。
ページを開けば、紙は乾ききって薄く、指先で破れてしまいそうだ。
――勇者は神託を受け、幼馴染の聖女と共に旅立った。
それはどこにでもある冒険譚の書き出し。
だが、読み進めた瞬間、文字は脳裏で鮮烈な映像へと変わった。
剣を握る感触、燃え盛る松明の熱、滴る血の匂い。
自分がその場に立っているかのような錯覚に、思わず喉が鳴る。
本なんて学生の頃以来手に取ることもなかった。
落ち着こうと、運ばれてきた珈琲を一口含む。
舌に広がる苦みと香りが、物語の色彩をさらに濃くする。
炎はより熱を帯び、剣の重みは肩に食い込み、血の臭気が鼻腔を焼いた。
ページに没頭していた彼は、唐突に鳴り響いたアラームに現実へ引き戻された。
眼前の文字がかすみ、血の匂いや炎の熱が霧のように遠のいていく。
思わず息を吐き、背もたれに深くもたれる。心臓はまだ物語の戦場に置き去りにされたままだった。
慌ただしく荷物をまとめ、カウンターへ向かう。
店主は静かにカップを片づけながら、目だけを彼に向けた。
「……随分と夢中になっていましたね」
「ええ、まあ……久しぶりに本なんか読んで、つい」
自分でも気恥ずかしい答えを返す。
どうしてあんなに引き込まれたのか、言葉にしようとすると余計に不自然に思えた。
会計を済ませようと財布を取り出したとき、店主が微笑んだ。
「気に入ったのなら、その本を持ち帰ってもいいですよ」
「……え?」
思わず顔を上げる。
「ここに置いておくより、あなたのように読んでくれる人の手にあるほうがいい」
「でも……いいんですか? 古そうですし」
「構いません。ただし――常連になってくれるのなら」
その声音は穏やかで、押しつけがましさはなかった。
しかし、口元に浮かんだ笑みは意味を測りかねる。
彼は返事の代わりに曖昧に笑い、本を鞄に収めた。背中に冷たい汗が伝う。
だが、帰宅してページを開いた途端、奇妙な違和感に気づいた。
活字はかすみ、目を滑っていく。
意味は頭に入らず、目だけが虚しく文字を追い続ける。
こめかみが鈍く疼き、文字が拒絶しているようにさえ思えた。
部屋には珈琲の匂いもなく、ページの上で文字は乾いた殻のようにひび割れて見えた。
苛立ちが込み上げる。
どうしてだ。
あれほど鮮烈だった物語が、なぜ今はただの黒い線にしか見えないのか。
続きを知りたい。あの戦場の熱気を、あの声を、もう一度味わいたい。
だが同時に思う。
このままではただの無駄だ。
本を返してしまったほうがいいのではないか、と。
読めもしないものを抱え込む理由などない。
読みたい衝動と、諦めて返すべきだという理性が胸の奥でせめぎ合う。
その夜は眠れず、布団の中で何度も本を開いては閉じた。
翌朝。
鞄に本を入れたまま家を出ていた。
返すためか、続きを読むためか、自分でもはっきりしていなかった。
ただ、気がつけば足は自然とあの喫茶店へ向かっていた。
カウンターに腰を下ろし、本を開いた瞬間――文字は再び鮮明さを取り戻す。
血の匂い、剣戟の響き、祈りの声。すべてが昨日の続きから蘇る。
「……ここでしか読めないのか?」
思わず漏れた独り言に、店主は答えなかった。
ただ唇の端をわずかに持ち上げ、静かに新しい珈琲を置いただけだった。
何度目かの来店だった。
仕事終わりに、昼休憩に、休日にも――気づけばこの喫茶店に足を運ぶことがすっかり日課になっていた。
頼むのはいつもホット珈琲。
カップを口に含むたび、紙面の色が濃くなり、輪郭が肉声のように脳裏へ迫ってくる。
逆に一口も飲まぬうちは、文字はじっとりと滲んだまま沈黙していた。
時々、サンドイッチやナポリタンを添えることもある。
味は記憶に残らない。
ただ、珈琲を口にしてこそ本の文字が鮮明に蘇るのだ、と彼は知っていた。
物語は陰を濃くしながら進んでいた。
勇者たちが訪れた村で、村長が魔物に襲われ、無惨に命を落とす。
その場面を読み終えた直後、スマートフォンが震えた。
「取引先の社長が事故死したらしい」
短いメッセージに息を呑む。奇妙な一致――だが遠い存在だ。偶然にすぎないと自分に言い聞かせた。
数日後。
物語では、呪われた青年が祈りも剣も届かず血を吐いて絶命する。
ページを閉じようとした瞬間、またも通知が届いた。
「同僚の弟が病死した」
背筋に冷たいものが走る。だがまだ偶然だと思えた。
さらに数日。
物語は一層重苦しさを増し、勇者の仲間が次々と散っていく。
剣士は黒い槍に胸を貫かれ、倒れる。
その瞬間、スマートフォンが震えた。
「従兄が事故死した」
彼の手が凍りつく。
紙面を見返すと、剣士の名がじわりと滲み、従兄の名に変わっていった。
まばたきをしても、目を擦っても、そこにあるのは従兄の名だ。
――最初からそう書かれていたのか?
思考がぐらつく。
珈琲の香りが鼻腔を満たし、恐怖を曖昧に塗りつぶしていく。
そして、炎の中で魔術師が命を落とす場面に差しかかった。
皮膚が焼け、絶叫が煙に呑まれて消えていく描写を読み進める。
再びスマートフォンが震えた。
「学生時代の友人が急逝した」
顔から血の気が引く。
紙面を覗くと、魔術師の名が滲み、友人の名へと変わっていた。
昨日までの記憶と明らかに食い違っているのに、今はもう最初からそうだったようにしか思えない。
偶然――そうは言えなくなっていた。
物語の死は、現実の死。
その等式を認めたくはないのに、彼は本を閉じられなかった。
指は抗えず、次のページへと滑っていく。
そしてその日はやって来た。
従兄や友人の葬儀で、ここしばらく忙しい日々が続いていた。
本を読むどころか、喫茶店にも足を運べずにいた。
むしろ、その距離が救いだったのかもしれない。
――もう、この本は返してしまおう。
そう決心して、彼は久しぶりに喫茶店の扉を開けた。
低い照明、木の壁の匂い、漂う珈琲の香り。
そのすべてが胸の奥をざわつかせる。
まっすぐカウンターに本を差し出せばいいだけなのに、気づけばいつもの席に腰を下ろし、注文を口にしていた。
「ホット珈琲を」
運ばれてきた湯気を前に、本を開くな、と自分に言い聞かせる。
だが指は勝手にページをめくっていた。
慌てて閉じようとすると、腕が痺れ、筋肉が硬直して動かない。
視線を逸らそうとすれば、眼球が焼けるように痛む。
逃げ場はどこにもなかった。
活字が、網膜に焼きつく。
脳裏に音と匂いと感触が流れ込み、現実を押しのけていく。
ふと気配を感じて顔を上げると、カウンターの奥に店主が立っていた。
何も言わず、ただこちらを見ている。
その表情には笑みとも無関心ともつかぬ影が張り付いていて、背筋が冷える。
気づけば、机の端に新しい珈琲が置かれていた。
注がれる瞬間を見た覚えはない。
ただ湯気だけが立ちのぼり、店主の無言の視線とともに、そこにあった。喉が勝手に鳴る。
彼はもう、本から目を離せなかった。
物語はいよいよ佳境へと差しかかっていた。
勇者と聖女は、魔王の居城の最奥に立っている。
「理性ある魔族の王」と伝えられてきた存在。
だがページに現れたその姿は、理性などかけらもない。
それは肉と影が際限なく増殖した果ての怪物だった。
膨れ上がる肉塊の表面からは皮膚が裂け、幾つもの顔が芽吹いては呻きを漏らす。
巨大な裂け目のような口が開くたび、腐敗と鉄の匂いが吐き出され、石の床を泡立たせる。
舌のような触手が幾重にも伸び、壁や天井を舐め溶かす湿った音が響き渡った。
聖女は両手を組み、必死に祈りを紡いだ。
神の名を呼び、祝福を求め、勇者を守ろうとする。
祈りの語尾は咀嚼音に変換され、文法が胃液に溶けていく。
言葉が響くたび、怪物は嘲笑するように全身を蠢かせ、その声を絡め取った。
勇者の横をすり抜けた幾筋もの粘つく触手が聖女の腕を捕らえ、その身を自身の下へ引き寄せる。
剣が届かぬ高さまで掲げられると、聖女の胴が強く締め上げられた。
骨が悲鳴を上げ、白い衣は裂ける音を立てて崩れ落ちた。
あらわになった肌をぬるりと這う触手が粘液を染み込ませ、冷たい液体が毛穴の奥へ侵入していく。
皮膚が泡立ち、祈りの声の下で歯が鳴る。
指にも舌にも似た感触が、彼女の反応を味わうように身体中を這い回る。
声帯の震えに触手が触れ、祈りの周波数を模倣した。彼女は自分の声で沈められていく。
その光景を、怪物の体から生えた無数の顔が嗤いながら見下ろしていた。
「やめろ!」
勇者が叫び、剣を振るう。
だが一本を断つたび、傷口からは二本、三本と新たな触手が芽吹き、彼を遠ざけた。
剣閃の光は、暗い肉塊の笑みにすぐさま呑み込まれていく。
宙に吊られた聖女は必死に祈り続けた。
けれどその声は震え、断片に引き裂かれていく。
「光よ……」
「救いを……」
「どうか……」
触手が喉に巻きつき、口の奥へ粘液が流れ込む。
祈りの言葉は泡混じりの呻きとなり、息すら奪われていく。
その瞬間、魔王の無数の口々が同時に開き、彼女の祈りを模倣した。
「ヒカリヨ……スクイヲ……ドウカ……」
低く、高く、無数の声が嘲笑のように重なり、空間を満たす。
聖女の信仰は、怪物自身の嗤い声にねじ曲げられて返されていた。
勇者は剣を振るい続けた。
だが聖女の体は粘液にまみれ、無力にねじり上げられ、尊厳を一枚ずつ剥ぎ取られていく。
祈りは嗤いに、涙は粘液に、尊厳は絶望に溶かされて。
聖女はまだ生きていた。
だがその姿は、神の加護を示す象徴ではなく、ただ怪物に弄ばれる「声なき供物」へと変わり果てていた。
祈りは嘲笑にかき消され、身体は尊厳ごと粘液にまみれていく。
その時だった。
彼の足元に、置きっぱなしにしていたスマートフォンが振動した。
画面には、恋人の名前。
ロックを解除する間もなく、画面に文字が次々と押し寄せてくる。
助けて
痛い
暗い
どこにいるの
こわい
その文字の一つ一つが、祈りの断片のように思えた。
だが、彼の指は動かない。
ページの上で硬直した手は、まるで本そのものに取り込まれたように――動こうとしない。
視界の端で、聖女がさらに吊り上げられていく。
粘液が喉元まで満ち、目元を覆い、髪が濡れた海藻のように垂れ下がる。
皮膚が白から紫に変色し始め、生命の色が剥ぎ取られていく。
それでも彼は、目を逸らせない。
スマートフォンの着信音が鳴り始める。
恋人の名。
だが指は、ページをめくった。
音は悲鳴に変わり、本の中の聖女の声と重なった。
彼の鼓膜に、現実と物語が“重なった一つの叫び”として流れ込む。
着信が切れる。
直後、ページの文字がにじみ、新たな一文が浮かぶ。
《聖女は魔王に喰われ、存在を失った》
血が滲んだような活字が、ページの奥から彼を見返す。
恐る恐るスマートフォンを覗き込んだ。
そこにあったはずの彼女からのメッセージ、履歴、写真――すべてが消えていた。
彼女の名前すら、最初から登録されていなかったように。
まるで“存在そのもの”が、はじめからなかったかのように。
本の中で、勇者が剣を取り落とし、音もなく膝をついていた。
もう、誰も救えなかった。
本を閉じようとした――
はずだった。
だが、視線が離れない。
ページの活字が脈を打ち、黒々と蠢いている。
眼球が、ゆっくりと引き寄せられていく。
読んでいるのではない。
ページの奥に引きずり込まれている。
活字が網膜に焼き付き、
紙の繊維が皮膚の内側へ、
一文字ずつが指紋へ、神経へと沈み込んでいく。
「やめろ」と思考が叫ぶたび、
鼻腔を満たすのは――珈琲の香り。
空気に滲んでいくのは、紙と古木、そして血のにおい。
着信音が濁り、やがてそれは悲鳴へと変わっていった。
骨の砕ける音が耳の奥にへばりつき、視界は黒い文字に埋め尽くされていく。
カウンターの向こう。
暗がりの中、そこに“在った”ものの輪郭だけが揺れていた。
そして――
席には、湯気の立つ珈琲と、古びた皮張りの本だけが残っていた。
カウンターの奥。
店主がそっと立ち上がる。
本を両手で抱え上げ、まるで遺体を扱うような慎重さで指紋を拭い、棚の隙間へと滑らせる。
本は音もなく、そこに戻った。
湯気は静かに揺れ、珈琲と紙と血の匂いが、空気にゆるやかに溶けていく。
そして――入口の鈴が、小さく一度だけ、音を立てた。
店内に、誰かの影が入ってくる。
人影はふらりと歩み寄り、本棚の前で立ち止まる。
伸ばされた手は、迷うことなく――その一冊を引き抜いた。
湯気が、静かに揺れた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。