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空を超えて、愛は還る

十六歳の誕生日の夜、アメリア・ロセリンは奇妙な夢を見た。


空を飛んでいた。柔らかな風に乗り、石畳の町並みを見下ろしながら、滑るように舞っていた。隣には、白銀の羽を持つもう一羽の鳥。彼とは言葉を交わしたこともない。けれど、いつもそばにいた。パンくずを探して飛び回り、夕暮れには教会の尖塔に並んで羽をたたみ、夜が寒ければ羽を寄せ合って眠った。


その銀色の羽が、彼の愛情のすべてだった。


目が覚めたとき、アメリアはしばらく天井を見つめていた。高い天井には王国貴族らしい彫刻と、夜風に揺れるカーテンの影。けれどそれらは遠く、ぼんやりとして現実感がなかった。


「……ハト?」


そう、夢ではない。確かな記憶だった。彼女は前世、ハトだったのだ。


その事実はなぜか不思議と納得できてしまった。幼い頃から「羽ばたく」夢を何度も見た。木の枝や尖塔の上に立って、見下ろす景色に懐かしさを覚えた。誰にも言えずにいたが、それが前世の記憶だったとしたら、すべてつじつまが合う。


そして、彼――銀の羽を持つ彼の存在も。


「……あれは……ユーリ様?」


思い浮かべたのは、つい昨日、庭園の噴水のそばですれ違った公爵家の令息、ユーリ・ディアナスの姿。肩まで流れる銀髪、切れ長の紫の瞳、近づきがたいほど気高い雰囲気。なのに、なぜかその瞳は、まるで何かを懐かしむように彼女を見つめた。


あれは、目の錯覚ではない。


「まさか、彼も……?」


胸がざわつく。


アメリアは子爵家の娘に過ぎない。公爵家とは格が違う。彼に近づくことは許されず、ただ同じ空気を吸うだけで十分とされる世界。


それでも、前世では確かに、並んで飛んでいた。彼とともに、朝を迎え、夜を越えた。


「だめ……今さら、何を考えてるの」


彼に知られてはいけない。ハトだったなどと知られたら、気味悪がられるに決まっている。まして、彼が人として生まれ変わった今、アメリアの存在など……もう、必要ないかもしれない。


だが、あの瞳が確かに自分を“見つけた”と告げていたことも、また否定できなかった。


「逃げなくちゃ……見つかる前に」


彼女はベッドを出て、夜風の吹き込む窓を閉めた。月明かりが照らすその手は、微かに震えていた。


けれど、心の奥にあったのは恐怖だけではなかった。


再び、あの羽ばたきに出会えるかもしれないという――淡い、痛いほど切ない、希望だった。


ーーーーーーーーーーーーーーーー




「公爵令息のユーリ様が、また庭園にお出ましですって。あんなに毎日いらっしゃるなんて、珍しいことですわね」


「ええ。しかも、なぜかいつも子爵家の区画の近くを……」


女中たちの噂話が廊下に漂っていた。アメリアは息を潜めるように背を向け、自室へと戻る途中だった。スカートの裾が廊下の床をすれる音さえ、耳につく。


心当たりは、ある。いや、ありすぎるほどだ。


ユーリ・ディアナス。王国最上位の公爵家に生まれ、魔法学でも剣術でも名を上げる完璧な青年貴族。彼の出現は、どこにいても注目の的だった。


だが最近の彼の動きは、奇妙だった。


何かを探すように、アメリアのまわりを歩き回る。無言のまま視線を向ける。まるで、彼女が何者かを確かめるように。


まさか――彼も、思い出しているのでは?


あの記憶を。あの羽ばたきを。あの、夜の温もりを。


心臓が跳ねる。思い上がりかもしれない。だが、彼の視線は確かに“知っている”目をしていた。


耐えられず、アメリアは庭園を避けるようになった。代わりに、使用人の通路を抜けて回り道をするなど、不自然な行動ばかり重ねていた。


それでも、その日は避けられなかった。


午後の日差しが傾きはじめた頃、王城の温室近くの小道で、彼と、鉢合わせたのだ。


「……ロセリン嬢」


低く落ち着いた声が、後ろから響いた。


咄嗟に振り返ると、そこに立っていたのは間違いなく――ユーリ・ディアナスだった。風に銀髪が揺れる。冷たい色の瞳が、まっすぐこちらを見ている。


「……はい、ユーリ様」


逃げ出したい心を抑え、ぎこちなく頭を下げる。


彼は一歩、距離を詰めた。


「あなた、変わりましたね。去年の春とは、まるで別人のようだ」


言葉の意味に、アメリアの背中がぴんと固くなる。


「……いえ、私はただ……」


「初めて会った気がしない。いや、初めてだったのかどうかすら、わからない」


彼の声は穏やかだった。しかしその目は、どこか苦しげで、懐かしげだった。


アメリアは息を飲む。


それはまるで、“言葉のない愛”を交わしていた頃の彼の目そのものだった。


だめだ――もう、確信してしまう。


彼は、覚えている。前世の記憶を、あの時間を、すべてを。


そして、彼もまた“探していた”のだ。

言葉も名前もなかったあの頃の、ただ羽を寄せて眠っていたあの相手を。


けれど、それを認めてはいけない。


「……失礼します、ユーリ様。あまり、長く立ち話をするのは……」


アメリアは無理やり微笑んで頭を下げ、その場を離れた。


背中に視線を感じながら、それでも振り返ることはしなかった。


まだだ。まだ、伝えてはいけない。

だって、彼は公爵家の未来を担う者。私は、ただの子爵令嬢。


それにこれは、ハトだったふたりの、名前のない記憶なのだから。



ーーーーーーーーーーー



「アメリア様、本当にそのお召し物でよろしいのですか?」


侍女のベルが、心配そうにリボンの結び目を整える。鏡の前に立つアメリアは、深く息を吐いた。


今日、彼女は初めて王都の大舞踏会に出る。社交界において最も注目される舞台、貴族令嬢たちの“競演”の場だった。


「子爵家にしては、上出来ですわね」

「でもあのドレス、去年の流行では?」

「まあ、家柄が家柄ですものね……」


会場の片隅に立っただけで、噂はすぐに彼女の耳に届いた。まるでその場に風が吹き抜けるかのように、冷たく、鋭く。


アメリアは知っている。社交界とは、言葉を刃に変えて互いを斬る場所だ。誰もが優雅な笑顔の下に野心を隠し、誰よりも高く飛び立とうと羽ばたいている。


そこに、ユーリ・ディアナスという名の“王家に最も近い男”がいれば、なおさらだった。


彼が現れた瞬間、場の空気が一変する。

美しい銀髪、整った顔立ち、貴族としての振る舞い、すべてが完璧で、すべてが周囲を黙らせた。


「ユーリ様! こちらにお席がございます」

「今宵の踊りを、ぜひご一緒に!」


令嬢たちは笑顔を貼り付け、次々と声をかけていく。


その中で、アメリアは壁の花であることを選んだ。目立たぬように、静かに、影に溶けるようにしていた。


──それでいい。私は彼の過去を知っている。でも今は、彼の未来にはふさわしくない。


それでも。


「ロセリン嬢、踊っていただけますか?」


その声が届いたとき、会場が静まり返ったような錯覚がした。


まさか、ユーリ様が、私を――?


アメリアが顔を上げると、すぐそばに彼がいた。すでに彼の手は差し出され、拒むには遅すぎる空気が周囲に広がっていた。


「……恐れ多いことです。ですが、私などでよろしければ」


わずかに震える声でそう返すと、彼は静かに微笑んだ。


ダンスフロアの中央で、彼女は初めて彼と手を取り合った。ステップの一つひとつが、まるで風を受けた羽ばたきのようだった。


──この距離、この温度、この感覚。


忘れるはずがない。かつて、羽根を重ねて眠った夜。ミミズを差し出してくれた、あの不器用な愛情。


「やっぱり……君だったんだね」


踊りながら、彼は誰にも聞こえない声でそうささやいた。


アメリアは息を呑んだ。


彼は確信している。やはり、前世を覚えているのだ。


「……いけません。忘れてください。私は、あなたの未来を縛る存在にはなれません」


「君がいなきゃ、何を未来と呼べばいい」


彼の声には、あの頃の優しさがあった。だが、同時に重すぎる。


私はただの子爵令嬢。あなたと同じ高さに飛ぶことは、できない。


舞踏が終わり、彼の手からそっと身を引いた瞬間――


「あらあら、公爵様。子爵家の令嬢とは、随分お寛大なご趣味ですこと」


背後から、冷たい声がかかった。


振り向けば、金の髪を結い上げた華やかな美貌の令嬢が立っていた。エヴァ・ルシル。伯爵家の嫡女で、ユーリの婚約候補の一人と言われている人物だ。


その目は笑っていた。けれど、猫がネズミを嬲るような、それは残酷な笑みだった。


「私、子爵令嬢の方って初めてお目にかかりましたの。素朴でいらして……まあ、庶民的と申しますか?」


周囲の令嬢たちがくすくすと笑い声を漏らす。


アメリアは何も言わなかった。ただ一礼し、沈黙を守る。ここで抗えば、自分が小物になるだけ。


だが、彼女の背後から伸びた手が、その嘲笑を切り裂いた。


「その“庶民的”な方としか踊る気にならなかった僕の感性を、君は嘆くのかい?」


静かな声だった。だが、会場の空気が凍るほどの圧があった。


エヴァは微笑みを崩さなかったが、その目にわずかな苛立ちが浮かんだ。


「いえ、まさか。ただ……少し、もったいないと思いましたの」


「それは、君の価値観だろう」


ユーリはそう返すと、アメリアに視線を戻す。


「もう少し、お話ししたい。よければ、外のテラスへ」


まるで逃げ道を作ってくれるように。

まるで、「僕が守る」と言うかのように。


アメリアは、わずかに首を横に振った。


「ごめんなさい、ユーリ様。私、疲れてしまいました」


逃げるように頭を下げ、その場を後にする。背中に感じる視線の熱さが、どこか苦しかった。


あの頃と違う。もう、ただ羽を寄せ合うだけでは、幸せにはなれない。


彼と私の距離は、思っているよりずっと遠い。


そして――

社交界という戦場では、その距離すら“攻撃材料”になるのだと、彼女はこの夜、知ったのだった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーー



舞踏会の翌日、アメリアは朝から吐き気を覚えていた。


昨日の視線が、声が、笑いが、頭の奥でぐるぐると渦を巻いて離れない。

自分が何をしても、どんなに礼儀正しくしても、“子爵家の娘”という事実は、他の令嬢たちにとって笑いの種でしかなかった。


「アメリア様、お加減が悪いのですか?」


侍女のベルが心配そうに顔を覗き込む。

彼女の優しさが、余計に胸に痛い。


「……少し、疲れが出ただけよ。平気」


笑顔をつくって言いながら、アメリアは鏡の前に立つ。

そこに映るのは、特別ではない少女。美貌でも、才気でも抜きん出ていない。羽を持たない、ただの人間。


「……なんて弱いのかしら、私」


誰にも気づかれないようにつぶやいた。


こんなことでくじけていたら、彼の隣に立てるわけがない。


そう自分に言い聞かせ、アメリアはドアを開けた。


だが――その日の午後、さらなる現実が彼女を襲った。


王都の学び舎で行われる貴族子女の魔法講義。アメリアは風系統の魔法適性を持ち、成績も悪くなかった。


なのに。


「まあ、ロセリン嬢。昨日は素敵でしたわね。公爵令息とのご舞踏、まるで童話のようで」


エヴァ・ルシルが、芝居がかった声で近づいてきた。

数人の取り巻きを引き連れ、にこにこと笑いながら、教室の空気を支配する。


「でも……あれは、夢でしょう? 本気で選ばれるなんて思っていらしたら、少し可哀想でしてよ」


「ええ、ロセリン嬢に罪はありませんわ。夢を見たくなるお年頃ですものね」


アメリアは黙ってノートを開いた。相手にするだけ時間の無駄――そう思っていた。


だが、その日の実技演習の最中、事件は起きた。


風刃ウィンド・カッター!」


アメリアが放った魔法が、突然暴走し、講師のローブの裾を裂いたのだ。


「ロセリン嬢、これは……!」


「申し訳ありません! そんなつもりは……!」


だが講師の顔は険しく、周囲の目は冷たい。


魔法に細工がされたと気づいたのは、ずっと後になってからだった。

杖に塗られていた極小の“魔力歪曲粉”――それを扱える貴族は限られている。


そして何より、直後に聞こえた、くすくすと笑う声。

エヴァとその取り巻きが、口元を隠して笑っていた。


「まあ、魔法って恐いですわね。誰にでも、暴走はあるものです」


その笑顔は、毒にまみれていた。


悔しさと、情けなさと、どうしようもない無力感が胸に広がる。

だが、誰にも言えなかった。


証拠はない。告発すれば、“子爵家が嫉妬した”と逆に笑われる。

それが社交界。生まれたときから勝敗が決まる、血と家名の世界。


アメリアは自室に戻り、扉を閉めると、膝を抱えてうずくまった。


「……私、あの頃の方が……幸せだった」


羽を寄せ合って眠っていたあの夜。パンくずとミミズを分け合っていた、ことばなき日々。


人間になって得たものは、こんな苦しさなのか。


それでも――それでも、私は逃げたくない。


彼の隣に立てるような自分になると、あの日、決めたのだから。


その夜、アメリアは誰もいない屋上の風見塔に登った。

月の光を浴びて、風を感じる。


この風に、あの銀の羽が舞い降りてきたなら――


でも、そこに彼はいなかった。


それでも彼女は立っていた。凍るような風の中で、涙を見せずに。


弱さを誤魔化すための、精一杯の“羽ばたき”だった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーー





「お嬢様、せめてお顔色が戻られるまで……!」


ベルの声を背に、アメリアは馬車の扉を閉めた。

行き先は――王都の北、かつて幼少期を過ごした森の近く。子爵領にほど近いその地は、ハトだった頃、無数の記憶を残した場所でもある。


「ごめんね、ベル。少しだけ、風に当たりたいの」


ベルにはそう告げたが、本当の理由は違った。


もう限界だったのだ。

何をしても見下され、貶され、足を引かれる。

人として生まれ変わって得た世界が、これほどまでに冷たいなんて。


そして――彼、ユーリのまなざしすら、今の自分にはまぶしすぎた。


私は彼の“羽”じゃない。ただの少女。


だから、せめて、あの頃を思い出したかった。

ただ空を飛んで、風にのって、彼のそばにいられたあのころを。


森の中、木々の葉が柔らかく揺れ、鳥のさえずりが微かに響く。

アメリアは馬車を降り、古い礼拝堂の跡地に足を踏み入れた。


そこは、前世の記憶で幾度も羽を休めた場所だった。


苔むした石の階段、割れた屋根から差し込む光。

すべてが懐かしく、心に沁みた。


「ここなら……誰にも見つからない」


そうつぶやいて、床にそっと腰を下ろす。

心が静まっていく。そう思った、その時だった。


「やっぱり、ここだったんだな」


低く、優しい声。


アメリアは息を呑んで立ち上がる。振り返った先に――

銀の髪が揺れていた。紫の瞳が、まっすぐに彼女を見ていた。


「ユーリ様……どうして……」


「探したよ。君が姿を消したって聞いて……なぜか分かってた。君なら、きっとここに来るって」


彼はゆっくりと礼拝堂の中へ歩み寄ってきた。


「……君も、覚えてるんだろう? あの空を。あの塔を。あの枝の上を」


アメリアは答えられなかった。声が震えて、出てこなかった。


彼は静かに彼女の前で膝をつく。

まるで昔、枝の上で寄り添っていた頃のように、目線を合わせて。


「言葉がなかったあの頃。君は何も言わなかった。でも、毎晩そばにいてくれた。

寒い夜は、君が羽で僕を包んでくれた。

あれが、愛じゃなかったら……何なんだろう?」


アメリアの目に、涙が浮かぶ。


「……でも、私は……子爵家の娘で、あなたは……」


「身分なんて、今の世界が勝手に決めた線引きだ。前世の僕らは、そんなもの知らなかっただろう?」


そう。ハトだったふたりは、何も持たなかった。ただ、そばにいた。


「君は、今も僕の羽だ。僕の心を、守ってくれる存在だ」


彼の手が、そっとアメリアの頬に触れる。

そのぬくもりは、まさにあの夜、羽を寄せたときの温かさだった。


「……でも、私はあなたを守れなかった。あなたの評判を下げて、巻き込んで……もう、怖いの」


「怖くなんかない。君を守ることが、僕の生まれ変わった意味なんだ」


彼の瞳に、確かな決意があった。アメリアは目を伏せたまま、小さくつぶやく。


「……ずるいわ、そんなふうに言われたら」


「君が逃げても、追いかける。羽が折れても、君のもとに飛んでいく」


ふたりの間に沈黙が流れる。


だが、それはもう痛みではなかった。

そっと手を重ねたとき、アメリアは気づいていた。


やっぱり、私はこの人といたい。羽がなくても、人の姿でも、何度生まれ変わっても――


この時間こそが、ひとときの逃避行。

けれど、確かな真実でもあった。


「……もう少しだけ、ここにいてもいい?」


アメリアがそうつぶやくと、ユーリは頷いた。


「夜まで、ずっとでもいい」


そうしてふたりは並んで座った。崩れた礼拝堂の床に、かつてと同じように寄り添って。


──この人となら、もう一度、飛べるかもしれない。

たとえ空が険しくても。



ーーーーーーーーーーーーーーーーー



森の礼拝堂で過ごした静かな時間は、まるで魔法にかかったようだった。


風の音、木々の揺れる音、そして彼の呼吸のリズム――

すべてが、かつて枝の上で寄り添っていたあの夜と重なっていた。


アメリアは、初めて“今の姿”で彼に心を開いた気がした。


けれど――


帰り道の馬車の中。空が赤く染まりはじめた頃、ユーリは唐突に切り出した。


「……アメリア。君と、婚約したい」


一瞬、時が止まった。


「……え?」


彼の瞳は冗談ではない。まっすぐに、決意を帯びていた。


「もう、周りがどうとか、立場がどうとか、どうでもいい。君がいるなら、それでいいんだ」


その言葉に、胸が高鳴る。夢見た未来が、突然、現実に手を差し伸べてくれたようだった。


でも。


「だめ……だめよ、そんなの……!」


アメリアはとっさに叫んでいた。


ユーリの瞳が揺れる。


「どうして?」


「あなたは、公爵家の後継。王家とも深く関わる人。そんな人が、子爵家の娘と……しかも、過去にハトだった女と婚約なんてしたら、王都中の笑いものよ!」


彼はなにも言わない。だが、その表情には確かに、傷ついた色が浮かんでいた。


「私は、あなたを縛りたくない。……私は、あなたの自由な羽を奪うようなこと、できない」


アメリアの声は震えていた。


それは本音だった。彼を想うがゆえに、身を引くしかないという苦しい選択。

まるで、自分の羽根を一本ずつ抜いていくような痛みだった。


「前世は、何もなかったからよかったの。言葉も、立場も、過去も未来もなかったから、ただ一緒にいられた。でも今は違う。人間になった以上、私たちは……」


「それでも、僕は君を選ぶ」


彼の声は、静かだった。


「君は、僕を信じていないのか?」


アメリアは答えられなかった。


彼を信じていないわけじゃない。むしろ信じているからこそ、自分が重荷になってしまう未来が怖かった。


沈黙が馬車の中に落ちる。


やがて、王都の明かりが見えてきた。

ふたりの間の距離は、窓から見える星よりも遠く感じられた。


馬車が止まり、御者が扉を開ける。


アメリアは、ドレスの裾を揺らして降り立つと、ユーリに向き直った。


「……あなたの気持ちは、嬉しかった。本当に。でも、今は……ごめんなさい」


小さく一礼して、そのまま背を向けた。


後ろから彼が何かを言う気配がした。けれど、アメリアはその声を聞かずに、足早に夜の道を歩いていった。


胸の奥で、もう一人の自分が叫んでいた。


違う、違う、嘘よ。本当は一緒にいたいのに。彼のそばにいたいのに――!


でも、それは口に出せなかった。


それを言ってしまえば、自分はもう戻れなくなると思ったから。


遠ざかる馬車の音。沈むように静まり返る王都の夜。


アメリアは一人、振り返ることなく歩き続けた。


その涙は、風にさらわれて、誰にも気づかれなかった。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーー




アメリアは自分で選んだはずだった。

身を引くことで、ユーリの未来を守れると――そう信じていた。


けれど、それは甘かった。


舞踏会での注目、ユーリとのダンス、そして逃げるように姿を消した一件。


すべては、炎に油を注ぐようなものだった。


王都に戻ったアメリアを待っていたのは、かつてよりも一段と冷たい視線と、嘲笑だった。


「まあまあ、またお会いしましたわね、ロセリン嬢」

「最近はお姿をお見かけしませんでしたが……まさか、公爵令息との密会でも?」


いつものように仕掛けてくるのは、エヴァ・ルシル。そしてその取り巻きの令嬢たち。


アメリアは丁寧に頭を下げる。


「お心遣い、ありがとうございます」


それ以上、何も言わない。言っても無駄だ。相手は最初から言葉で傷つけるつもりなのだから。


だがその日、彼女たちは“さらに一歩”踏み込んできた。


午後の茶会――魔法学園の貴族専用サロンでのこと。


アメリアが勧められるままに口にした紅茶は、ほんのり甘く、香り高いものだった。


けれど、すぐに、体の奥が軋むような違和感に襲われた。


手の震え、眩暈、そして魔力の不調。


「アメリア様!? 顔色が……!」


ベルの悲鳴とともに、アメリアはテーブルの上に手をつき、崩れそうな体を必死に支えた。


取り巻きの一人が、ひそひそと声を漏らす。


「まあ、魔力量が足りないんじゃなくて、ただの虚弱体質だったのね」

「きっと、あの方に似合わないって、体も言ってるのよ」


笑い声が広がる。

アメリアは反論できなかった。身体が、反応しない。


そのとき。


「君たち――それ以上、口を開くな」


空気が、凍った。


振り返ると、サロンの入り口に立っていたのは――ユーリ・ディアナスだった。


銀の髪が日差しに煌めき、彼の周囲だけが異質なほど静かだった。


彼はゆっくりとアメリアに歩み寄り、傷ついた彼女の背に手を添えた。


「大丈夫か? すぐに医師を――」


「……来ないで……」


アメリアは、か細い声でそう言った。


ユーリの手が止まる。


「来ないで……私は、あなたの……足を引っ張りたくないの……」


涙が零れた。


こんな姿、見せたくなかった。強くなりたいと願ったのに、何ひとつ守れない。

自分自身すら、守れない。


だが。


「アメリア」


彼は、優しく彼女の名を呼んだ。


「君が弱ってるときに手を伸ばすのが、どうして“足を引っ張る”ってことになるんだ」


その言葉は、まっすぐ胸に届いた。


「君が立てないなら、僕が支える。

飛べないなら、僕が背に乗せて、どこまでも飛ぶ。

君がそれを望むなら、僕は何度でも――君の元に戻る」


アメリアは、彼の手の中で、顔を覆った。

涙が止まらなかった。


そのとき、エヴァが一歩前に出た。


「ユーリ様、それは……ご自身の立場を危うくなさいます。子爵家と関われば、帝国との縁談の話も……」


彼は振り向き、鋭く言い放った。


「僕の“縁談”を決めるのは、僕自身だ」


サロンに静寂が走った。


その場にいたすべての者が理解した。

公爵令息が本気で、子爵令嬢を選ぶ覚悟を持っているということを。


アメリアの肩に彼のコートがそっとかけられる。


「今は、休め」


その言葉に、アメリアは小さく頷いた。


もう、逃げない。

傷ついても、怖くても、それでも――

彼の想いを信じてみたいと思った。


その瞬間から、アメリアの中にある“風”が、静かに、けれど確かに動き始めていた。


それは、次の羽ばたきのための風だった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


窓の外、風が高く吹いている。


その音を聞きながら、アメリアはゆっくりと立ち上がった。


サロンで倒れた日から三日。

体調は徐々に戻りつつあったが、心の方は――もっとゆっくりと、でも確かに変わりはじめていた。


ユーリは毎日、短くも丁寧な手紙を寄こした。

政治的な配慮や礼儀ではなく、たったひと言、「君の風がまた吹く日を待っている」と添えられたそれは、何よりも彼女を癒やした。


風。


それは彼女の魔法の属性であり、同時に、かつて空を共に舞った“存在”の象徴でもある。


「私は……もう一度、飛ぶの」


鏡の前でそっとつぶやく。


もう、逃げるだけの自分ではいられない。

誰かに守られるばかりの少女でいるわけにはいかない。


あの夜、礼拝堂で感じたぬくもり。

あの言葉のない愛の記憶。

そして――いま、彼が差し伸べてくれた手。


「私は、この羽で……未来をつかむ」


アメリアは自室のクローゼットを開き、古びた革の杖を手に取った。


それは、かつて子爵領で使っていた修行用の杖。魔力の伝導効率は悪いが、手にしっくりとなじむ。


そして彼女は決めた。

学び舎で行われる次の魔法実技試験――公開演習で、堂々と自分の魔法を見せると。


「風刃」でもなく、「突風」でもなく。

もっと彼女らしい、優雅で、自由な風を。


試験の日。


観覧席には教師たちに加え、多くの貴族たちが並んでいた。


その中に、銀の髪が揺れる姿を見つけたとき、アメリアの胸が熱くなった。


ユーリ。

彼は、遠くから黙ってアメリアを見ていた。


演習場の中央に立つと、ざわめきが起こる。

例の「紅茶事件」以降、アメリアはすっかり“笑いの対象”になっていた。


「まあ、また何か失敗でもするんじゃなくて?」

「子爵家の娘にしては、根性はあるのね」


だが、アメリアは静かに目を閉じた。


耳を澄ませば、風の音が聞こえる。

あの枝の上。あの空の中。

羽ばたく風の中に、自分がいる。


そして、杖を振りかざし、宣言した。


「風よ、舞え――《空渡の風輪スカイ・リング》!」


彼女の周囲に、淡い光と共に風の輪がいくつも現れる。


それは攻撃でも防御でもない。

空を舞うための風、そして見る者の心を打つ“舞い”のような魔法だった。


風輪は彼女の周囲を優雅に回転し、足元に小さな浮遊を与える。

彼女のスカートが舞い、髪が揺れるたびに、風が観覧席を吹き抜けた。


まるで、空を飛んでいるかのような錯覚。


それは、ハトだった頃の記憶を魔法に変えた、彼女だけの“羽ばたき”だった。


観覧席が静まり返る。


誰もが、彼女の風の美しさに息を呑んでいた。


一瞬の静寂の後、拍手が鳴り響く。

それは教師たちのものでも、貴族たちのものでもなかった。


――ユーリだった。


彼が誰よりも先に、力強く拍手を送っていた。

その顔に浮かんでいたのは、誇り、尊敬、そして何よりも――愛。


アメリアはそっと、彼に微笑んだ。


もう、怖くない。

私は私の風で、私の道を飛ぶ。


たとえ誰が笑おうとも。

たとえこの空がどんなに高くても。


――私は、この翼で、未来を掴みにいく。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




初夏の夜、月は満ち、空は澄み渡っていた。

王都の郊外、教会の跡地――かつてふたりが羽根を寄せ合っていた森の礼拝堂に、灯りがともる。


アメリアは、風に揺れるスカートの裾をそっと押さえて立っていた。

淡い緑と白のドレス。花の香りをまとったそれは、どこか野に咲く風の精のようで、豪華さよりも、彼女らしさを大切に仕立てられていた。


「……来てくれるなんて、本当にあなたらしいわね」


目の前に立つ彼――ユーリは、式典のときにも着ないような深い藍色の正装に身を包んでいた。


「この日だけは、君の前でだけは、きちんとした姿でいたいからね」


彼は微笑みながら手を差し出す。


「アメリア・ロセリン。君と、正式な魔法の契約を結びたい。

ただの婚約ではなく――心と魔力を交わす、深い絆の契りを」


その言葉に、アメリアの心臓が高鳴る。


魔法の契約――それは、婚約以上に重い意味を持つ誓い。

互いの魔力を繋ぎ、未来永劫、心の奥に相手の気配が宿り続ける。


一度結べば、破棄はできない。

片方が死ぬと、もう一方の魔力も深く傷つくと言われるほどの、強い結びつき。


「……あなた、そんなことして、いいの? 本当に」


「僕は、君を選ぶ。何度生まれ変わっても、何の姿になっても、僕は――君を選ぶ」


その瞳に、一片の迷いもなかった。


アメリアは震える指で、そっとその手を取った。


ふたりの手の間に、小さな風が舞う。

それは魔法でも、儀式でもない。彼女の魔力が、彼に応えるようにふわりと動いたのだ。


「契約の言葉を」


ユーリが小さくつぶやく。


アメリアは頷き、目を閉じた。


「私、アメリア・ロセリンは、風の魔力に誓い、ユーリ・ディアナスと心を交わします。

どのような姿であれ、どのような世界にあっても――私は、あなたの隣に在ることを望みます」


彼も続ける。


「我、銀の羽にて空を渡りし者。

かつて羽根を重ねし記憶を抱き、今再び君と在ることを誓う。

その魔力、その心、その命――共に飛ぶことを、我は望む」


ふたりの手元が淡く光り、契約の証となる紋章が浮かび上がる。

アメリアの手の甲に舞う風の紋。ユーリの手には、かつての羽根を模した銀の輪が刻まれた。


契約は、成立した。


誰もいない夜の礼拝堂で、ふたりは見つめ合い、静かに笑った。


「これで、逃げられないわよ?」


「逃げる気なんて、最初からなかった」


アメリアはそっと、彼の胸に額を預ける。

彼の鼓動はあたたかく、懐かしく、そして確かだった。


あの頃、言葉も名前もなかったふたり。

羽を寄せ合っていたただのハトだったふたりが、

いま、人として、心を交わした。


――これは、新たなはじまり。


風が吹く。

その風は、ふたりを祝福するように高く舞い上がった。


そして、月明かりの下、アメリアはそっとつぶやいた。


「次は、ちゃんと名前で呼んで。もう、“君”じゃなくて」


ユーリは優しく微笑むと、彼女の耳元で囁いた。


「……アメリア。僕の羽」


その声は、風よりもやわらかく、あたたかかった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




「おめでとうございます、アメリア様!」


「ご婚約、本当におめでとうございます!」


屋敷の庭に響く祝福の声に、アメリアは少し頬を赤らめながら微笑んだ。


それは夢のような光景だった。


公爵家と子爵家の正式な婚約発表から一ヶ月。王都は一時、噂と動揺に満ちたが、ユーリの毅然とした態度と、アメリアの公開演習での鮮やかな魔法の実績が、少しずつ人々の心を変えていった。


風のようにしなやかで、まっすぐな彼女の意志は、次第に尊敬の対象になり、かつて嘲笑していた令嬢たちも今は、憧れの視線を向けている。


エヴァ・ルシルは、式典への招待に「どうかしていたのは、私の方でしたわ」と手紙を寄こしてきた。

皮肉とも、悔いともつかないその文面に、アメリアはただ静かに笑った。


勝ったのではない。

戦いを、終わらせたのだ。


風に乗って、争いではなく、自分の意思で飛びたかった――あの頃の自分に、ようやく胸を張れた気がした。


そして今夜。ふたりの“魔法契約”を記念したささやかな晩餐会が、公爵邸で行われている。


月が高く昇り、庭園には灯が揺れる。

花々の香りの中、アメリアはふと、彼の姿を探した。


……いた。

中央の噴水のそば、銀の髪を風に揺らしながら、彼が待っていた。


「……相変わらず、風を読むのが上手ね」


アメリアが近づくと、ユーリはいたずらっぽく笑う。


「君が来るときの風だけは、すぐにわかる。いつも、やわらかくて、あたたかいから」


ふたりは並んで、噴水に映る月を見上げた。


「思えば、不思議な話よね。前世は、名前も言葉もなかったのに。今は、こうして話せる」


「でも、気持ちは変わってない。たとえミミズを贈るしかできなかったとしても、僕は君を想っていた」


アメリアは吹き出しそうになって、肩をすくめた。


「……あれ、けっこう嫌だったのよ?」


「えっ」


「でも、嬉しかった。あの頃のあなたも、今のあなたも」


風がふわりと吹いて、ふたりの間を通り抜ける。


ユーリがポケットから小さな箱を取り出す。


「アメリア。君の指に、この指輪を通させて」


開かれた箱の中には、小さな銀の羽根を模した指輪がひとつ。


アメリアは、しばし言葉を失って、そっと手を差し出した。


指輪がはまった瞬間、指先から、かつてのあたたかさが戻ってくる。


あの夜、枝の上で感じた体温。

ただ静かに、羽を重ねて眠った、やさしい夜。


「これからも、隣にいてくれる?」


「……ええ。何度生まれ変わっても、私はあなたの羽」


そっと唇が重なる。


それは約束。

言葉では足りなかった前世の続きとしての、誓いのキスだった。


空を見上げれば、今宵の月は丸く、ふたりの未来を照らしていた。


そしてその夜。


遠く、森の中の礼拝堂跡に、ふたつの白い羽が落ちていたという。

誰も見ていなかったが、確かにふたりは、空を舞ったのだ。


今度こそ、人の姿で。

心を交わし、言葉を贈り合い、名前を呼び合いながら。


永遠に――共に飛ぶために。


  完





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