第9話 気の抜けた閻魔大王の素顔
虹色空間の向こう側では、玉座に座ったまま、歯磨きをする閻魔大王がいた。いきなり、正真の顔が現れるものだから、驚きを隠せず、口の中が泡まみれになる。
「ぐわ! な、急になんだ。今、歯磨き中だぞ。し、しかもなんだ、これ。洗顔フォームじゃないか、いや、髭剃りフォームだぞ。誰だ。歯ブラシにつけたやつは」
閻魔大王は歯磨き粉でないことに慌てて、小鬼たちにぶちぶちと文句を言う。初めから自分で歯ブラシに歯磨き粉をつければいいものを、小鬼にすべてあずけてしまうからだと正真は、腕組をして落ち着くのを待っていた。
「よし、それでいい。うがいも済んだし、これで歯もピカピカだ…それで? 何の用事だ。正真、そろそろ限界が来たか。他人を救うなんざ、お前には無理な話か。人助けなんて性に合わないだろ」
閻魔大王は、極悪人の正真にはきっと無理だろうとたかをくくっていた。だが、返答は全然違う。
「いーや、違うさ。俺は、これからどうするかの案を考えたんだ。とっておきのな」
「案だって? 粒あんの間違いじゃないよな」
「俺は、どちらかと言えば、こしあんだ! ……って、そういう話じゃないつーの。
話を戻すが、俺は、地獄からそのままの姿では現代の者に俺のことを気づかれたらまずいって話だ。何十年も前だが、子孫とか知っているかもしれないし。早急に罪人を見つける手立てとして、刑事に憑依するって言うのはどうかと思ってな。事件も解決するし、罪人は軽くなるというか減るだろう? 殺人未遂に終わるかもしれないからなぁ」
「ほー? わしは、罪を軽くしてほしいとは言っておらん。罪人を減らせと言っておるのだ。そもそも、わしの仕事は地獄のどこに行くかを審判する役割だ。罪人を減らさなければ、仕事は増える一方だぞ……だが、その話も何だか捨てがたいところだなぁ」
閻魔大王は顎に残るひげを指でぴっと抜いて考える。正真の話も悪くないのではと感じた。だが、元は罪人の身の正真が刑事をすることにいささか不安を覚える。
「いい話だと思ったけどなぁ。俺は悪いことしかして来てない。刑事になって更生するだろ、たぶん」
「……よし、正真。お前ひとりでは、心配だ。その話、認めるが、バディを組むのに、司録を送りこむ。二人で事件解決と罪人削減計画だ。よし、それでいこう!」
バベルをカンカンとたたきつけると、横にいた司録が、閻魔大王の腕に触れる。
「ちょっと待ってください。閻魔様。私めが行くのは構いませんが、その代わり、こ
の亡者の罪状を記憶する仕事が誰がするのですか?」
迂闊だったと感じた閻魔大王は自分の後頭部を左手でたたくが、すぐにひらめきを思いつく。
「いや、いや。そんなの、司命にやらせたらいいだろう。それくらいできる。大丈夫だ。司録、たまには書くことばかりしてないで外の世界で羽根伸ばしてこい。な!」
「そんな無鉄砲なこと。閻魔様!」
「私の仕事を増やすってことですか、閻魔様」
司命はまさかの業務が増えるとは思わずに怒り震える。なんて、勝手なことをするんだと沸々としていた。それでも閻魔大王の命令には逆らえない。ヤキモキする瞬間だった。
「ん? なんだ。司命、何か言いたいことはあるのか」
「え……」
表情を読み取られてしまったのかと焦って、手を着物の袖で隠し、さらに顔を隠す。
「いえいえ、閻魔様の仰せの通りに致します」
「だよなぁ、ガハハハ。これで、ここの空気も少しは変わるだろう。ゆったり過ご
せる日が楽しみだ」
未だに亡者の行列はできている。それでも、既に仕事を中断してしまっている閻魔大王は、どこに行くかふらふらと移動し始めた。司命は、出遅れながら小走りで後ろを着いていく。行列に並ぶ者たちは、ブーイングの嵐だ。そうは言っても閻魔大王には皆、勝てないと分かっている。行列をなしたまま、ブーブーいうだけで何もできなかった。しばし、待たなければいけないようだ。
「さっきから進んでいないよなぁ。次から次と行列をなしているのに……」
「さーてね。気まぐれ閻魔大王様次第だろ。つべこべ言わずに仕事しろ」
亡者を誘導する小鬼たちは、冷や汗をかきながら、皆を説得するのに必死だった。閻魔大王よりも下だと思ってか、小鬼たちの扱いはそれはひどいものだった。閻魔大王の王座の間は、いつも以上に亡者でひしめきあっていた。
「って、おい。俺の話は終わりなのか? 閻魔大王!」
もう既にそばにはいないようで、正真の声は届いていない。横にいた司録が絶望した顔をして、丸い窓に映る正真を睨んだ。
「何が悲しくてお前と一緒に過ごさなきゃならんのだ。寿命が縮む!」
司録は、ブツブツと呟きながら、左手指でパッチンと音を鳴らした。
「なーにを! 俺だって、好きでお前と過ごすんじゃねぇやい!」
司録は、現代に合う服装に一瞬で着替え、異次元空間の窓の外、正真がいる人間界に移動した。黒くて細長い口ひげは綺麗さっぱり無くなり、顔も幾分若返った。七十歳ほどのおじいちゃんが五十歳前後のおじさんに変身している。服装は緑色の着物からグレーのスーツにモーニングを着て、探偵のような恰好になっていた。
「元罪人とこうやって、過ごすことになるとは……私も早まったなぁ」
ネクタイをきゅっと整えて、警察署の会議室横の窓際で正真と話す司録だ。
「さてと、俺は、そろそろ、あいつに入らないといけないなぁ。ぼんやり眠っている刑事さんに」
「正真、私はこの世界は司録ではなく、鴇 甚録と名乗る。以後、間違うではないぞ。そして、私は警視庁からの推薦で来た者として、通じておく。お前とバディを組むと提案をして、殺人事件の捜査協力をさせてもらうぞ。いいな?」
司録は、スーツを改めてビシッと着こなした。これからは人間界で鴇 甚録だと自分に言い聞かせた。正真は、さっきとは違う風貌の司録に何だか落ち着かない様子だった。