第12話 無垢な幼少期
――――牧角 滉史の幼少期の過去にまで遡る。
噴水が石畳の広場に巻き散らばっていた。真夏の暑い時期に着ていた服をびしょ濡れにして、遊んでいた。知らない女の子とも一緒に盛り上がって水浴びを楽しんでいた。兎殺しの容疑者である牧角 滉史にもあどけなくて可愛い時期が存在した。
無垢でわんぱく。人を傷つけることなどもってのほか。誰がそんなことをしようものか。 滉史の母親はお友達のおもちゃを勝手に取っただけでしっかりとしかりつけ、人の物をとってはいけないと注意して、そういう時は違うおもちゃで遊ぶよう指示をした。まっとうな生き方をしていたはずだった。この公園で遊ぶことをしなければ、そのままの陽の当たる世界で生きられた。でも、取り戻せない過去だ。噴水に身体をつけて、プールに入っているように遊びまくった。近くにいた滉史の母は、生まれたばかりの弟の琉史を抱っこして、少し離れたところから眺めていた。
「滉史! 今、琉史のオムツ取り替えてくるから、遊んで待っててくれる? 大丈夫?」
オムツが濡れていたのもそう、お腹が空いてミルクが欲しい琉史は生後六か月。歩くこともできない。ずっと抱っこひもで母にべったりだ。
「うん。大丈夫! ほら、お友達もいるから」
3歳の滉史は、立って歩くし話すこともできる。母とべったりしなくても遊ぶこともできる。でも、この時ばかりは不安だった。着ていた洋服もびしょ濡れで、友達がいると言っても隣にいるのはまだお話ができない小さな女の子。きゃきゃっと噴水で喜んでいるだけ。滉史は、複雑な気持ちを隠して笑顔で母に答える。
「そっか。んじゃ、あそこのトイレでオムツ交換してくるから、遊んで待っててね」
「はーい」
元気に返事をする。母に心配をかけたくなかった。
ほんの一瞬の出来事だった。幸せな時間は次、いつやってくるのだろうか。一緒に遊んでいたとされる小さな女の子はパパとママと一緒にレジャーシートの上で新しい洋服に着替えていた。たった一人で噴水広場で遊ぶ。濡れるだけじゃだんだんつまらなくなってくる。ぼんやりと佇んでいると、黒いキャップ帽子をかぶった見たこともない知らない男が現れた。上下黒い服を着ている。白く大きなマスクと茶色のサングラス。ひょいっとびしょ濡れの滉史を抱えて、左肩付近で持ち上げた。神輿のようにわっしょいとどこかに連れていく。周りにそれを見ている人は誰もいなかった。一定の距離を進むと、お父さんを装って抱っこに切り替えた。アスファルトの通路で犬の散歩をする夫婦がいたからだ。滉史は怖すぎて叫ぶことができなかった。どうにか手足を振って、たたいたが、効果はなかった。心の中では
(お母さーん、助けて!)
何度も繰り返し叫んでいた。どうして、弟のことばかりで僕のことは見てくれないのか。一瞬の時間でも大事にして欲しかった。僕はここにいるよ。声が出ない。叫びたくてもできない。言わなきゃいけないってわかっているのに。
―――「滉史!! どこ行ったの?」
トイレから戻ってきた母は、噴水広場をあちこち探した。オムツを取り替えて、ミルクも飲んで満足した琉史はニコニコ笑顔だった。抱っこする母は、血相を変えて、見ず知らずの老夫婦に声をかける。知らない人に話すのは苦手な母だ。それでも息子を探すために勇気を出して声を出す。
「すいません! この辺に小さな男の子いませんでした? さっきまで噴水広場で
水浴びして遊んでたんですけど」
「……知らないねぇ。見てないよ。私たちはアスレチック広場からこちらに散歩に来てたんだよ」
「あ、ありがとうございます」
老夫婦は、小型犬の散歩に来ていた。周りなんて見向きもしないと言っている。大変な思いをしているのに助けてくれるわけじゃない。バックを持っていた手が震えた。自分は母親として失格なんじゃないかと落ち込んだ。一回しか聞いていない息子捜し質問も、心が折れてしまう。精神的な病を抱えていた母だった。
誘拐されたと思った滉史は、公園の管理事務所に保護されていた。さっきまで黒い 服を着ていた人は、通りがかりの強烈な花粉症持ちの男性だったのだ。たまたま散歩に来ていてたった一人で遊んでいたのを危ないなと感じて、急いで迷子の呼びかけしてもらおうとした。
「お疲れ様です。迷子ですね。放送で呼びかけてみますね」
公園管理事務所の職員は、黒い服の男性に事情を聴くと、しっかりと保護しますと約束して、びしょ濡れの体に毛布を一枚かけてくれた。
管理事務所のおじさんは優しかった。寒いと思って、温かいココアも準備してくれた。連れてきてくれた人もサングラスとマスクを外すとすごく優しい顔をしていた。それなのに、いくら放送で呼びかけてもいつまでも母は来なかった。連絡もない。どこに行ってしまったのか。管理事務所も午後5時で閉まってしまう。預かることはできないと、滉史は近くの交番に案内された。警察にお世話になってしまう。
滉史は猫と同じ扱いになってしまうのかと歌いたくなってきた。




