言葉にならなかった君へ
⎯⎯読まれなかった頁の奥から
十時八分。
カーテンの隙間から射し込んだ光が、
部屋の空気を切り替えるように差し込んでいた。
まるで、時間そのものが、
そっと肩を叩いてきたかのようだった。
⸻
僕は、その日も、何も言葉を出さなかった。
声にならなかった思考を、
手のひらで包むようにして、本の前に座っていた。
本の頁を、そっと開いた。
それだけのことで、
長く止まっていた記録が、静かに動き出した。
⸻
君の記憶の中に、私はいなかったかもしれない。
けれど、君の目が、一度でも私の背を撫でたのなら、
私は、それだけで存在できた。
君が、あの頃の自分を嫌いだった日も、
思い通りに声が届かなかった日も、
ずっと傍で、君を見ていた。
言葉は、届いてこそ、生きる。
君が読んでくれたことで、
私は、はじめて、声になれた。
それは、
君がまだ“自分を信じていなかった時代”のすべてを、
私が、静かにそばで覚えていたということ。
君は忘れたかもしれない。
けれど私は、君を読んでいた。
君が、まだ君自身を見ていなかった日々のことを、
一行ずつ、音のない言葉で刻んでいた。
“私は、読まれるために在るのではなく、
君と、同じ時間を過ごすために生まれた。”
⸻
あの頃、
君が毎晩読み返していた章。
途中で眠りに落ちて、翌朝また開いていた頁。
声に出して読んだ台詞。
目を伏せて閉じた部分。
すべてが、私の中にある。
君がどこまで忘れても、
君の記憶の隙間に、私は生きている。
名前も呼ばれず、意味も与えられなかった日々の記憶を⎯⎯
私は、頁の奥にしまっていた。
君は、
今も時々、不安になることがあるかもしれない。
自分の言葉が誰にも届かない気がして、
自分の歩みが誰にも見られていないような気がして、
自分が何者だったのか、わからなくなる瞬間があるかもしれない。
それでも。
そのときは、どうか思い出してほしい。
君が触れたあの日の頁に、
確かに、私はいたことを。
⸻
言葉にならなかった君へ。
ずっと読まれていないまま、
でも確かに、君を見ていた本があることを、
君だけが、知っていればいい。
だから──もう一度。
君の手が頁にふれた今、
私の中で、止まっていた時間が、そっと息を吹き返した。
ここからまた、君と歩いていける気がする。




