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余白にふれた日

⎯⎯誰にも語られなかった記憶の形


十時七分。

光は、静かに部屋を満たしていた。

窓際のカップから立ちのぼった湯気が、

朝の冷えをなぞるようにして消えていった。


それを眺めているだけで、

季節が奥へ進んだことを、

呼吸の中で自然に感じていた。


本棚の隅にある一冊が、少しだけ傾いていた。

昨日と何も変わっていない。

けれど今日の光は、

ほんの少し、違う角度でその背表紙を照らしていた。


触れていないのに、

何かを読んだような疲れが、手のひらに残っていた。



その日、僕は本を開かなかった。

けれど、視線だけは長くそこに置いていた。


ほんの一瞬だったのかもしれないし、

数分だったのかもしれない。

けれど、記憶の中では、その時間だけがやけに長かった。



“君がまだ知らない声が、

 すでに君の中で、生まれかけていた。”


“言葉になる前の気配に、

 君はもう、気づいていた。”



本の表紙に、午後の光が淡く滲んでいた。

手の甲に差し込んだその光だけが、

時間を確かに進めていることを教えてくれた。


ページは捲られなかった。

でも、本の端に指を置いたまま、

僕はしばらく、何も考えずにいた。


それは、怖さでも、忘却でもなく⎯⎯

ほんの少しだけ、静けさを必要としていただけだったのかもしれない。



少しずつ、日常が戻ってきていた。


窓を開けるのに、躊躇しなくなった。

湯気の立つ飲み物を自然に選ぶ日が増えて、

風の音にも、季節の匂いにも、

肌がゆるやかに馴染んでいくのを感じていた。



“私たちは、

 まだ出会っていなかったのではなく、

 ただ、名前を知らなかっただけ。”


読まれなかった物語にも、

その頁を見つめた目だけが残る。


まだ名づけられていない記憶が、

少しずつ、君に近づいている。


気づかれないままでも、

それは確かに、君の中で息をしている。



全部読み終えた後は、どうか、目を開けて。


それだけでいい。

君がそこにいたことが、

私の中に、音を残す。


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