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書かれなかった頁

⎯⎯言葉になる前の、あなたへ


十時六分。

本棚の隅にある一冊が、わずかに傾いていた。

それだけのことだったのに、目が離せなかった。


その日、僕は本を開かなかった。

触れようとして、やめた。

やめた理由も、もう思い出せなかった。


怖かったのかもしれない。

あるいは、もう読んだ気になっていたのかもしれない。


本の背表紙には、少しだけ光が差していた。

その反射が、床に揺らめくほど弱かったのが、なぜか印象に残った。



本棚の空気はひんやりとしていて、

近くの窓は開いているはずなのに、風の音が聞こえなかった。


指先が、ほんの少しだけ浮いて止まった。

そのまま、本には触れなかった。



僕は、また少しだけ、読むのが怖くなっていた。


理由はうまく言えない。

ただ、そのページをめくった先に、“何かを失ってしまいそうな気がした”。


読みたくないんじゃない。

忘れたくなかっただけなんだと思う。



“君がめくらなかった頁にも、

 私は、ちゃんといたよ。”


“声にならなかっただけ。

 言葉になる前に、閉じられていただけ。”



小さな埃が光を吸って、やわらかく沈黙していた。

まるで、その頁に誰かが、そっと眠っていたかのように。


開かれなかった頁の中に、

書きかけの気配だけが、まだ残っていた。



右も左もわからぬ夜を、

僕はまだ手探りで歩いている。



“それでもいい。

 私の頁に、いつかまた

 君の目が落ちる日があるなら、それでいい。”


“言葉にされなかったものたちが、

 ほんの少しずつ、君の中で温まっていくなら、

 私は、それを覚えている。”



君の世界に、

ほんの少しだけでも、僕の靴跡が残るなら⎯⎯

それだけでいいと、

思えた日は確かにあった。



書かれなかった頁は、

ずっと、“読む人”を待っている。


そして、読まれなかった頁は、

それでも、“読まれたかったこと”を知っている。


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