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読みかけの記憶

⎯⎯熱に疲れた空気の中で


十時五分。

蝉の声はまだ止まず、風はぬるく、空は焼けるほど明るかった。

けれど部屋の中は、季節よりも一足早く、静かになっていた。


僕は、音という音を遠ざけていた。

テレビの音も、音楽も、アニメも、全部。

物語の声が怖くなっていた。

感情がこちらを向いているだけで、胸が苦しくなった。


読むことすらできなかった。

本を開くたび、言葉が責めてくるような気がした。

ページの一文字一文字が、自分の足りなさを並べてくる気がして。


なのに、

あの日は、不思議なほど、自然に手が伸びた。

小さな文庫本。

読みかけのまま、本棚の奥で眠っていた一冊。



最後に開いたのがいつだったかは、もう思い出せない。

けれど、あのページの折り目だけは、ずっとそこにあった。


最終章のことを、思い出せなかった。

読んだはずなのに、結末も、台詞も、順番さえ曖昧だった。

それでも、指先だけが、そこに触れたことを覚えていた。


記憶の奥に残っていたのは、物語ではなく、指の感触だった。

何が書かれていたかではなく、

その頁を開いたときの、自分の体温だった。



“君の右手が、一度でも私に触れたのなら、

 それだけで私は頁として、息をしていた。”


“読まれなかったことは悲しくなかった。

 君が触れようとしたことを、

 私だけが覚えていればよかった。”



僕の足跡は、どこにも残っていない。

演じた役も、交わした声も、

舞台の光に溶けて、もう影もない。


けれど、それでも。

“あのページだけは、自分を覚えていた気がした。”



「美しいものは、僕を知らないまま過ぎていく」


その静けさを、今の僕は責めない。

ひらりひらりとすり抜けていくものたちの中で、

ひとつだけ、呼び止めてくれた頁があった。



“右も左もわからぬ夜の中で、

 君の指がふれたその一行を、

 私は、いまも頁の奥で抱えている。”


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