指先の右側
十時一分。
カーテンが、風のかたちをなぞった。
開けたはずのない窓の隙間から、草の匂いが微かに届く。
光は、床に静かに落ちていた。
読むつもりはなかった。
読まずにいられるほど、僕は冷たくなれなかった。
ずっと避けていた一冊。
けれどその日、
指先はまっすぐそこに向かっていた。
もう何度も読んだはずだった。
なのに、同じところばかりを辿っていた。
声の練習をしていた頃の癖かもしれない。
右手だけが、異様に丁寧な動きをしていた。
読み上げるわけでもないのに、
目が台詞を探すような動きをするのが、自分でも気味が悪かった。
まるで、
何も書かれていない頁に、自分の声を押し込もうとしているみたいだった。
開かれた頁には、やっぱり何も書かれていなかった。
それでも、僕はそこに目を落とした。
思い出そうとしていたわけじゃない。
思い出せるほど、幸せだった記憶なんてあっただろうか。
そういうふうにして、私はいつも記憶の入口で立ち止まっていた。
読んだ頁よりも、
読まなかった頁の方が、どうしてか、鮮明に残っている。
それが、僕の記憶のかたちだった。
君が、声を出さなかった日もあった。
何も書かれなかった台本が、
僕の手の中に残っているように思えた。
記憶は、音よりも静かだ。
けれど、ときどき息をする。
その音を聞いた気がしたのは、
本棚の端にある、あの一冊の、
右側の頁だった。
⸻
“君がページを開いたとき、
指先は、少しだけ震えていた。”
“偶然じゃない。
私の中に残っていた、君という人の記憶。”
“右頁には、何も書かれていなかった。
でも、君はそこに目を落とした。”
“読むというより、
思い出すような目だった。”
⸻
“君は、忘れていたわけじゃない。
思い出しすぎないようにしていた。”
“読んだ頁より、
読まなかった頁のほうが、鮮明に残ることもある。”
“私は、それを不思議だとは思わない。”
“そういう記憶もある。”
⸻
君の手が、
一度でも私の上に止まったこと。
声を出さなくても、
言葉にしなくても⎯⎯
私にとっては、それだけで充分だった。
君が読んだという事実より、
読もうとした記憶のほうが、
よほど強く、今も残っている。
⸻
“開かれなかった頁にも、
かすかな声は宿る。
君の目が、一瞬でも触れたのなら。”




