第2話
地元住民の通報により間も無く消防隊による鎮火活動が開始された。家は全焼してしまったものの近隣への被害は一切なかった。
消防隊員に取り調べで聞いた話によると通行人の煙草のポイ捨てが原因だった…とのこと。
火災保険もあるしそのポイ捨てをした人間に損害賠償を請求することもできるからお金の心配は無い。
そして何より留守中の火事だったのだ。僕自身は怪我をせずに済んだ。
「幸運値」が66しかない僕にしては、できすぎているほどに不幸中の幸いな状況であった。
とは言え一旦どこかへ身を寄せなくてはならない。叔父の家は神奈川だから通学との両立ができないし今の時間からでは間に合わない。
そんなことを考えていると一瞬、少女の顔を思い出してしまった。
毒葉紫乃
いや、さすがにそれだけはありえない。
あんなことをされたのに。それに、帰り際に僕は彼女にひどいことを言ってしまった。
今にして思うと、世間知らずなだけで決して悪気のあったわけでは無いであろう彼女のことを傷つけてしまった。
今からホテルを予約する気にもなれず、僕は近所の公園のブランコに座り込む。キコキコと切ない音が鳴った。
気がつけば辺りはかなり暗かった。公園の時計は23時を指している。
誰もいない静かな公園で僕はリュックから板チョコを取り出す。そしてスマートフォンで青空文庫にアクセスし、中島敦の『山月記』を読みながら食べた。
涙が溢れた。
どうして…今日はこんな日なんだろう。どうして不幸なことってこんなに連続するんだろう。
どうして不幸って、誰か特定の人間のところにばかり集中するのだろう。
それはきっと世界に存在する幸せの総数が決まっているからだ。誰かが幸せになるためには誰かが不幸になる必要があるんだ。
そして僕は誰かの幸せの代わりに不幸になるという役割を世界から与えられているのだ。
悔しい。いや、悔しいはずなのに心底悔しいと思うことすら恐れてしまう自分が惨めすぎて辛い。
今日何度目の涙だろう…そんなことを思った時に
「どうして泣いているの?」
そう言う声が聞こえて僕は振り返った。
そこには毒葉紫乃がいた。
僕は幻覚でも見ているのかと思った。しかし、目を擦っても彼女は間違いなくそこに存在している。
そして彼女はこちらへ歩いてくる。ブランコに座る僕の目の前に立った。
「何かあったの?悲しいこと」
「どうして…ここにいるんですか」
「散歩へ行かなくちゃいけない気がして。普段こんなところまで来ないんだけどね」
少女はまた意味のわからないことを言った。
苛立ちや恐怖心が無かったかと言うと嘘になる。しかし、僕は先ほどの自分の中の繊細すぎる思考に引っ張られてしまった。
「さっき帰る時…酷いことを言ってしまって、ごめんない」
「ううん」
彼女は露ほども気にしていないような返事をしたが、僕はかえってそれが不安に感じた。
そのせいで、まるで権威に媚びるかのように会話を続けてしまった。
「というかもう23時ですよ…こんな時間に散歩だなんて毒葉さんはおいくつですか?」
「中学3年生で14歳だよ」
なんとなく高校生だと思い込んでいたので、思ったより若くて驚いた。
むしろ若いと言うより幼いのではないか?僕はこんな子供に無理やりされて……いや、あの感触を思い出すとまたペースが乱れてしまう。
そんなふうに脳内で葛藤を繰り広げていると、彼女は当然のように僕の右手を掴んだ。
「あなたのお家まで送ってあげるね」
年上の男子である僕が言うべきセリフを彼女が言った。
まぁ…それ以前に送ってもらう家も先ほど無くなったわけだけれど。
「いや…家がさっき火事にあったみたいです、燃えてしまったんです。全部」
僕は彼女に握られた手を握り返すことも跳ね除けることもせず、ただそのまま自嘲的に言った。
彼女は僕の手をさらに力強く握り引っ張る。僕は彼女の力のままにブランコから立ち上がる。
そして彼女はまた僕を抱きしめた。
お互いに立っているせいで、先ほどとは違って身長差をはっきりと感じる。まだこの子は僕よりかなり小さい。
小さいのに、なぜこうも強いのだろう。僕なんてただ余生を生きるだけの塵なのに、この強い少女はまるで大樹か火柱か、もしくは打ち寄せる津波か…自然法則そのものにさえ思えた。
「私のお家においで」
「はい……」
僕はついに頷いてしまった。
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僕は毒葉さんに手を引かれて夜の街を歩く。街灯がスポットライトのように孤独な僕たちを照らしている。
話すべきこと、聞かなくちゃいけないことはたくさんあるはずなのに言葉が出てこない。
この手に引かれていれば、何も聞かなくて良いのだという諦めのような気持ちが僕の心に確かに存在した。
毒葉さんは急に立ち止まった。
僕は我に帰り周辺を見渡すと、ここらへんでは唯一深夜まで営業している個人経営の古書店「星月夜」があった。
毒葉さんは店の扉を開き、店内へ僕を連れ込んだ。
「星月夜」の店内は古書店特有の紙とインクの匂いが充満していた。僕はこの匂いが好きであった。
店主はいつもと同じく奥で何か文庫を読んでいる。僕たちのことを認識していないのかと思うほどの無反応だ。
毒葉さんは言う。
「燃えてしまった本で必要なものがあればここで揃えて帰ってね」
僕はなぜこんな時に古書店へ来るのかと疑問であったが、毒葉さんの意図がようやくわかった。
しかし、僕が本好きであることはいつ知ったのだろうか?あぁ、そういえば「三田塾」への応募の際に履歴書に書いたっけ。
「ありがとう、ございます…」
僕は奥の本棚へ行くために毒葉さんの手を離そうとした。しかし毒葉さんはそれを阻止するように強く握って離すことは無かった。僕は少し困って彼女の顔を見る。
「このままで探して」
「…わかりました」
僕はまず『李陵・山月記』を手に取った。すると毒葉さんは言う。
「何冊でもいいよ」
「ありがとうございます」
当たり前だけど14歳の女の子に手を繋がれたまま深夜に古書を選ぶのは初めての経験であった。
不自由だとは思ったが、その異様なシチュエーションをすんなりと受け入れて次の本を探す自分の姿を我ながらシュールだと思った。
太宰治 『斜陽』
三島由紀夫 『金閣寺』
川端康成 『みずうみ』
夢野久作 『ドグラ・マグラ』 上下巻
ヘルマン・ヘッセ 『デミアン』
アンドレ・ジッド 『狭き門』
イワン・ツルゲーネフ 『はつ恋』
を、手に取った。他にも欲しい作品はあるが、ここには在庫が無いようだ。
計9冊を店主の元に持って行く。店主は本の最終ページに貼られた値札を確認し、「1700円」と無愛想に言った。
僕がバッグから財布を出そうとする前に毒葉さんが、夏目漱石の描かれた旧1000円札を2枚店主に渡した。
店主からお釣りを受け取り、それを僕に渡す。僕は少し困惑したが毒葉さんの真っ直ぐな瞳に負けてそれを受け取りポケットに入れた。
毒葉さんに連れられて店から出ると、すぐ前の道にタクシーが停車していた。
あまりのタイミングの良さに毒葉さんが呼んだのかと思ったが、運転手と毒葉さんの会話を聞くにそうでは無いようであった。
15分ほど無言の車内で揺られ、昼に見たこの豪邸にまた帰ってきた。
大きな門を抜け、本邸まで歩く。
毒葉さんは制服のポケットから鍵を取り出して本邸の扉を開けた。
「今日からここが私とあなたのお家だよ」
毒葉さんは室内の電気をつけた。間接照明なのでそこまで明るくはないはずだが、すっと暗闇を歩いてきたせいか僕には明るすぎるように感じた。
「今夜はさっきの書庫でねる?」
毒葉さんが聞いてくる。確かにあの赤いアンティークソファーはベッドとして使うこともできるくらいの大きさであった。
「はい……そうしたいです」
「鍵はないけど、寝てる間に入ったりしないからね。安心して寝ていいんだよ」
「…はい」
毒葉さんは約束を守らない人だ。だけど、これに関しては嘘ではないと思った。
それと同時に、今はまだなだけでいつかは「そういった関係」を求められてしまうのだろうか…と思った。
でも先の不安を考える余裕が無いくらい眠たい。僕は毒葉さんにトイレやお風呂、キッチンの場所などの軽い案内を受け書庫に戻った。
本当であればお風呂に入りたいところであった。しかし他人の家…それも毒葉さんの家で全裸になることに強い抵抗感がある。そして何より疲れていた。
僕は赤いソファーに倒れ込む。昼の記憶がうっすらと蘇りそうになるが、その前に眠りに落ちた。
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目が覚める。夢は見なかった。基本的に僕は夢を見ない(見ているのかもしれないけど覚えていない)のだが、昨日はあれだけ奇妙な経験をしたのだ。夢のひとつくらい見たって不思議じゃないと思っていた。
本棚と本棚の隙間から少しだけ朝日が差し込んでいた。僕は部屋の電気をつけた。
目が明るさに慣れてきたので、お手洗いへ行こうかと部屋を出た。
お手洗いへ行くためにはリビングを経由しなくてはならない。リビングへ向かうと既に電気がついていた。
「よく眠れた?」
セーラー服姿の毒葉さんがそう問いかけてきた。そうか…毒葉さんはこの後は中学校へ行くんだ。僕も大学へ行きたいけど…行かせてくれのだろうか。
「はい…おかげさまで」
「あなたがお手洗いへ行ったら、朝ごはんにしようね」
大きな一枚板のテーブルを見ると、豪華な洋風の朝食が用意されていた。
メニューはスクランブルエッグ、ハム、トースト、トマトサラダ、ヨーグルト、グレープフルーツ、コーヒーだ。2人分がきっちりとプレースマットの上に配膳されている。
「これは…毒葉さんが作ったんですか?」
「うん。美味しいよ」
本当になんでもできるんだな…と驚いた。
毒葉さんが「こっち」と行ってお手洗いへ行くように催促したので、待たせないように早めに済ませてリビングへ戻った。
「あの…僕のためにご飯まで作ってもらっちゃって、すみません」
「毎日作ってあげるね。ほら、座って。いただきますを一緒に言うよ」
「え、毎日…?」
「ほら、一緒に。いただきます」
「い、いただき、ます…」
僕はトマトサラダから手をつける。これまで味わったことないドレッシングであった。きっと高価なものだろう。
「その…今日は毒葉さんは学校へ行くんですか?」
「うん。一緒に行こうね」
「え?どういう意味ですか」
「学校の中にあなたは入れないから、校門までだけど」
「お見送りをしろ…という意味でしょうか?」
「一緒に行くの」
毒葉さんは淡々とトーストにバターを塗りながら言った。
「僕、大学があって…」
「大学の1時間目は9時からでしょ?だから私の中学校から向かっても間に合うよ」
「じゃあその…行っても良いと言うことでしょうか…?」
弱々しく聞いた後に思った。僕はなぜそんな許可を取ろうとしているのだろうか。
毒葉さんになんて言われようが、自分の意思で大学へ行くことは自由のはずだ。許可なんていらないのに。
「いいよ。でも18時までにお家に帰ってね。晩ごはん、一緒に作ろう」
「あ、ありがとう、ございます」
「本当はね、帰りも一緒がいいんだけど。でもあなたを束縛しすぎたら良くないからね」
「すみません…気を利かせてもらっちゃって」
いや…なぜ僕が謝っているのだ。確かに寝食を提供してもらってはいるが、全て毒葉さんの提案である。
それにお見送りをすることだけでも充分以上の譲歩のはずなのに…どう考えても僕は下手に出すぎている。
そんなことを考えながらも毒葉さんの作った朝食を頂いている。僕は、自分がさもしい人間で仕方ないような罪悪感に苛まれた。
「食べ終わった?」
「あ、はい…ご馳走様でした。とてもおいしかったです…あの、片付けは僕にさせてくれませんか?」
「しなくていいよ」
毒葉さんによると、僕たちが外出した後にお手伝いさんが来て食器の片付けや掃除、洗濯、食材の補充などをやっておいてくれるらしい。中学生の女の子が1人で住んでいるとは思えないほど清潔感のある室内だったが、その理由が判明した。
僕の代えの洋服もお手伝いさんが補充してくれるとのことで、今日だけ我慢してね…と毒葉さんは言った。
「準備ができたら行こう」
毒葉さんに促され、僕はリュックを背負い玄関を出る。
「すみません毒葉さん、お待たせしました」
「紫乃と呼んでね」
毒葉紫乃…それが彼女のフルネームであることを思い出す。
毒葉さんは僕の瞳をじっと見つめる。僕が了承しないと玄関先から動くつもりは無いようだ…彼女の他人に物を主張する時に放つ圧力に勝てる気がせず、毎回どうしても思い通りになってしまう。女性を下の名前で呼ぶことに抵抗はあったが、従うことにした。
「し、紫乃…さん」
「うん。ちゃんと言うこと聞けて偉いね」
紫乃さんは少しだけ上機嫌な様子を見せながら、僕の手を引いて玄関を出て門をくぐった。
道を歩く。僕たちと同じように通勤、通学をしている人々がいる。
僕は当然、公道へ出たら手は離すものと思っていたので少し手を緩めるような動作をしてみたが、紫乃さんは手を離すどころかより強く握ってきた。
「紫乃さん…手…みんな見てます」
「見てるね」
紫乃さんはそれでも僕の手を離そうとしない。
僕たちは今、周辺住民からどう見られているのだろうか。
紫乃さんはご近所さんからどんな目で見られても良いというのだろうか?
僕は羞恥に身悶えながら紫乃さんの4分の1歩足ろを付いて歩く。人々は僕たちを一瞥するも、見てはいけないものを見たかのように目を逸らす。
「ちょっと、ねぇ、紫乃さん!どんどん学校に近づいてます。同級生や先生に見られちゃいますよ…」
僕が懇願するようにそう訴えると紫乃さんはむしろ手を絡ませるようにして、いわゆる「恋人繋ぎ」で繋ぎなおした。
角を曲がったとき、ついに紫乃さんと同じ制服に身を包む複数の少女の後ろ姿が目に入った。
振り返る度胸は無かったが、後方にも登校する少女たちがいるのだろうと察する。
僕たちを、僕を……どんな目で見ているのだろうか。もしかしたら写真を撮られてしまっているかもしれない。
不安と焦燥感と羞恥に僕の脳は支配される。
「昨日の夜はいい子に繋げてたのに、どうしてもじもじしちゃうの?」
紫乃さんはそう問いながら自身の指で僕の手の内側をチロチロとくすぐった。
その蠱惑的な指仕草が生み出す痺れるほどの快楽は僕の手から腕を伝わり心臓へ、脳へ、そして全身を駆け巡った。
「あっ…だ、だめです、それ…」
僕は情けない声を出すと同時に全身の力が抜けてしゃがみ込んでしまう。登校する紫乃さんの同級生たちが僕らの方を見る。
僕はあまりの恥ずかしさに必死に腕を振って毒葉さんの手から逃れようと試みた。小さな女の子の手とは思えない力。逃れることは決してできない。
中学生の女の子に公衆の面前で辱められ、逃げることもできずにただしゃがみ込む。そんな自分があまりに情けなく、どうしようもなくまた涙が零れ落ちコンクリートを濡らす。
「みんなの前で泣かせちゃってごめんね」
紫乃さんは僕と繋いでいない方の手で僕の頭を撫でた。
相変わらず涙は止まらないが、周囲に見られている不安や恐怖よりも、なぜか安心の気持ちの方が上回ってくる。
年下の子供に全ての面で完全に敗北し飼い慣らされ、それを周囲に見られている。本当なら今こそ逃げ出さねばならないのに、あろうことか僕は紫乃さんに撫でられることに喜びを感じるようになってしまっていた。
そして手を引かれて再び立ち上がり、結局、紫乃さんの学校の校門の前まで手を繋いだまま登校してしまった。
お嬢様学校の校門前で女子中学生に手を引かれた大学生…あまりにシュールで危険な光景のため周囲の学生たちの視線はこれでもかと感じるが、揶揄ったり写真を撮ったりする者が現れないのは紫乃さんが学校内で恐れられる存在だからではないだろうか…という推測に僕を至らせた。
紫乃さんは少し名残惜しそうに手を離して言った。
「お家を出る前にも言ったけど、一緒に晩ごはんを作るから18時には帰ってきてね。それと帰りに買い出しをお願い。これ、お金とメモだよ」
紫乃さんはスカートのポケットから渋沢栄一の描かれた一万円札と折り畳まれたメモ紙を取り出し、僕に握らせた。
これは同居人からの買い出しのお願いに他ならないはず。しかし手を繋いで登校し、辱められ、撫でられて、最後にお金を渡される…次々と校門をくぐり僕たちを見る学生たちの目に、どのように映っているのだろうか。そんなことを考えているうちに紫乃さんは校舎の中へ消えて行った。
しばらく棒立ちになっていると、紫乃さんに酔わされた脳が徐々に覚めてくる。校門前に長く居座るわけにはいなかい。早く大学へ行かないと…
早足で駅へ向かいながら、この一万円札を無くさないように財布に入れておくべきだと思い立った。そのついでにふと気になって渡されたメモ紙を確認してみる。
避妊具
肉でも野菜でも調味料でもなく、ただ、それだけが美しい筆跡で書かれていた。




