第1話
「幸運値66……息子さんは重度の「不幸病」です」
白衣の検査員がそう言った。
母は顔を覆って涙を流し、父はそんな母を抱きしめた。
白衣の検査員もどこか僕を哀れむような目で見た。
かくいう僕はむしろ、納得という気分であった。
この白くて冷たい検査室の中では最も冷静な心理状態であったと思う。
この世界では小学校に入学したら全生徒が一斉に健康診断と同時に「幸運値」を測定する。
そこで測定された「幸運値」は一応高度なプライバーということになっており本人と保護者、担任教師にしか通知されない。
無理に「幸運値」を聞き出すことは法に反するが、履歴書に「幸運値」をこれみよがしに記載する人もたくさんいるし、高い「幸運値」は財力や体力、知力や美しい容姿に負けないくらいのアピールになる(もちろん「幸運値」が高い人は多くの場合において金持ちだし賢いし健康で美しい)
小学1年生の春。僕は学校での幸運値検査にて異常値が観測されたということで、専門の検査機関での再検査を受けるように教師から個別に指示を受けた。
そして今に至る。
検査員が僕の両親が落ち着くのを待ってから、言う。
「ご存じかとは思いますが我が国における「幸運値」の平均値は102です。「幸運値」が80を下回る場合は国から「不運病者手帳」が交付されます。手帳の申請は後ほど当院のソーシャルワーカーが案内いたしますので……」
その口調に僕や僕の両親を心底不憫に思っているのだろうニュアンスが端々から伝わってくる。
良い人なんだろうなと思うと同時に、自分の置かれた状況がどんなに絶望的なのかと思い知らされた。
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その検査の日から13年。僕は18歳の大学生1年生になっていた。
日本における僕と同程度の「幸運値」を持つ男性の平均寿命は15歳だ。それゆえになんとなく15で死ぬと思っていた。
だから今の自分の人生は余生のようなものだと思い毎日を過ごしている。
何も求めず期待せず、たまに不幸に見舞われながらただ日々が過ぎてゆくのを感じるだけ。
が、とはゆえ食わねば腹が減る。今日はバイトの日だ。
11年前に両親は交通事故で他界しており、血のつながらない叔父から「大学へは行ったほうが良い」と言われ、学費の援助を受けている。
つまるところ学費はあっても生活費は自分で稼がねばならないということだ。
人生初のアルバイトであるため多少の緊張が無いと言えば嘘になるが、まぁ大体の不幸にも失敗にも理不尽にも慣れている。
僕は地元ではそれなりに有名な家庭教師塾の「三田塾」にアルバイトとして採用されている。
「三田塾」はポリコレやダイバーシティやSDGsやらを重視する意識の高い校風の学習塾で、採用に関しても「幸運値」を理由に断ることはない。
塾長と面接をした時はどうにも胡散臭さと鼻につく雰囲気を感じたが…僕のような弱者はこういう人たちの「善意」に縋って生きてゆくしかないのだ。
今日はその「三田塾」から指定されたとある家庭へスマホの地図アプリを見ながら訪れている。
ここQ市はいわゆる高級住宅街。その中でも特に豪華絢爛な豪邸の立ち並ぶエリアに僕は来ていた。それはもう煌びやかで、住む世界が違うとはまさにこのことだと実感を持って理解させられた。
地図アプリによると、この豪邸らしい。和風な豪邸で、見た感じこの大きな門から本邸までも広い庭が広がりそこそこの距離があるようだ。
気後れしてしまう部分はあるがあまり緊張しすぎても仕方ないと観念しインターホンを押す。すると落ち着いた女性の声で「はい」と返ってきたので、言う。
「ごめんください。『三田塾』より派遣されました家庭教師の者です」
そう言うとインターホンはプツリと切れてしまった。あれ。家を間違えたか?と疑問に思い表札を確かめる。
「毒葉」
と、一度聞いたら忘れることのない名前が書かれてある。ここであっている。僕は毒葉さんのお宅の息子さんの家庭教師として雇われているのだ。
数秒後、大きな門がまるで『ジョジョの奇妙な冒険』で頻出する効果音のように「ゴゴゴゴ」と音を立てて開いた。そして僕が門を潜ると開く時とは打って変わって門はスムーズに閉まった。
それにしても大豪邸だ。日本庭園風の庭は外から見るよりも大きいし、本邸までも思っていたよりも距離がある。
砂利道を歩きながら庭池に泳ぐ錦鯉を横目で見ると、僕の頭にある疑問がふと浮かんだ。
お金ならいくらでもあるだろうに、なぜプロの家庭教師ではなく学生アルバイトの家庭教師を雇うのだろうか…と。
不運を経験をしすぎたせいか、僕は瞬時にいくつもの悪い未来を想像できてしまう。とは言えそれに怯えることはない。なぜなら今は余生なのだから。殺されようが喰われようが別に構わない。
本邸にたどり着いた。古風だが作りの良さを感じる豪邸だ。玄関のステップを登り、インターホンを鳴らす。
誰も出ないのでもう一度押すべきか悩んでいたら扉が開かれた。
扉の中には地元では有名な中高一貫女子校の上品なセーラー服に身を包んだ小柄な少女がいた。
腰の下あたりまである長く美しい黒髪。東洋の陶磁器のような美しい白い肌。
そしてどこか哀れみをたたえた深みのある瞳をしていた。
美しい、よりも先に、怖い、と感じた。
「えっと、毒葉さんのお宅ですよね?僕は三田塾の……」
急ぎ自己紹介を済ませようとしていると、少女はそれを遮るように言う。
「入って」
少女の声は先ほどのインターホンから聞こえた女性の声とおそらく同じだろうと思った。
少女に導かれ家へ上がる。大理石を基調とした見たことのないほど広い玄関であった。少女は靴を脱ぎ、先に部屋へと上がった。僕も靴を脱ぎ、それを揃えながらこの玄関には少女と自分の物しか靴が無いことに気がついた。
シンプルな廊下を少女の後ろに付いて歩くと、少女は立ち止まり右側の扉を開けた。
後ろから覗くと、図書館のような雰囲気の部屋であった。
「この部屋にいて」
少女は僕を部屋に通し、扉から出ていった。
テーブルとセットになったアンティークな大きな赤いソファーがあるが、それに腰掛けて良いものか分からず僕はただ立って時間を過ごした。
本棚を見る。木製でかなり年季を感じる。窓の前にも本棚がびっしりと詰め込まれているため、日光が差しこまずかなり暗めな部屋だ。
蔵書はタイトルがはっきりとは見えないが、コミックや文庫本は見当たらず全集や画集、資料などが多いように感じた。部屋のアンティークな雰囲気のせいで、どうもそれらが魔術書のような気がしてくる。
そうしていると少女が戻ってきた。アンティークなティーセットをトレーに乗せて持っている。
「そこ、座っていいんだよ」
「あ、はい…失礼します」
赤いソファーに腰をかける。少女はティーセットをテーブルに置き、自身は僕の隣に座った。
恐怖とも情欲とも異なる、これまで感じたことのない感情に襲われる。なんなんだ、この子は。
少女は上品な所作で紅茶を入れた。シナモンの甘ったるい香が鼻腔をくすぐる。
「飲んでいいよ」
少女はそう言って、少し座り直した。その際に僕の方へ寄ったような気がしたのは僕の気のせいだろうか。
「…お気遣いありがとうございます。えっと、毒葉さん家のご長男の家庭教師としてお伺いしたのですが…妹さん、ですか?ご両親は…?」
「あれは嘘。私に血縁者はいない」
少女は短くそれだけ言うと、艶やかな黒髪を耳にかけて、優雅な仕草で紅茶を飲む。
嘘?何が?血縁者がいない?家族とは関係が悪いという意味か?説明不足にも程がある。
しかし、僕の脳の悪い未来を予想する癖がここぞとばかりに活性化した。
「もしかしてイタズラですか…?」
家庭教師をイタズラで雇い、その戸惑う様子を隠し撮りして後で動画サイトにアップする気だろうか。
でもなんとなく、そんな低俗なことをするタイプにも感じられない。いや…それは彼女の美しい外見に僕が惑わされているだけだ。どんな美しい人間であっても下品で低俗な敵意を隠し持っていることだってある。
僕がそんなふうに不安を巡らせていると、少女は僕の瞳をじっと見つめて言う。
「あなたの「幸運値」、66ってほんとう?」
少女のまつ毛の一本一本が目視できるほどの距離。でも、そんなことよりも、僕は少女の質問内容に驚いた。
僕は昔から「幸運値」絡みで差別や偏見も受けてきた。ひどいイジメを受けたこともある。だから、いくらそういった扱いに慣れたとは言え、「幸運値」の話題が出るたびにフラッシュバックして心臓が跳ね上がってしまうのだ。
そもそもなぜ高度な個人情報であるはずの「幸運値」が見ず知らずのこの少女に漏れているのかとも思ったが、Q市の大豪邸に住めるくらいの資産があればどうにでもなるのだろう。
この少女は自分の周囲には高い「幸運値」保持者しかおらず、100以下、ましてや66など見たことも無いのだろう。それで塾に嘘を吐いてまで僕という「ピエロ」を呼び寄せたのかもしれない。
先述の通り昔から見せ物にされたり揶揄されることは多々あったが、このような手の込んだやり方は初めてであった。
「…それはプライバシーなのでお答えできない決まりなんです」
過去のトラウマ、そしてこれから起こるかもしれない不安と戦い必死に口を動かし、研修で教えられたマニュアル通りの対応をする。
「そう」
少女はそう言って姿勢をこちらへ向け、僕の顔をまじまじと見た。
そのあまりに美しい顔と、何をしたいのか分からない不気味な行動に僕の平静は揺らぐ。
バカにしているんだろう。僕が焦って怒り出すのを待っているんだろう。
早く帰りたい。この地獄から解放されたら、家に帰って布団の中で幼少期から繰り返し読んでいる中島敦の『山月記』を読みながら、明治の板チョコレートを食べるんだ。安心の時間を過ごそう。そうしたら今日のことは忘れられる。
しかし、少女のペースに乗せられず平静を保つための必死の抵抗も虚しく、僕は感情の制御を失ってしまった。
「僕は…あなたたちの見せ物じゃない。興味本位でこういったことをされると、僕も人間なので悲しいです」
言ってから後悔した。自分は何をムキになっているんだと。こんな金持ちの世間知らずな少女に対して。こんな張り合う意味の無い社会に対して。ムキになる価値なんてない自分の余生に対して。
そんな気持ちがぐるぐると心の中で渦巻く。
感情を表出することに慣れていなかったせいだろうか。心が驚いてしまったのか、自然と止めることのできない涙が溢れた。
それを袖で拭おうとしたとき、少女は僕の方へさらに身を寄せて自身の指で僕の頬を撫で涙を拭き取った。
「泣かせてしまってごめんね」
「な、なにするんですか…っ」
僕は少女の手を跳ね除けた。そして自分の袖で涙を拭い、腕で両目を隠した。
そして少し落ち着いて来たので言う。
「勉強を見てほしいわけじゃないのなら…帰ります。そもそもうちの塾は同性の生徒のところにしか講師を派遣しない」
少女を睨みつける度胸はなく目を腕で隠しながら言った。我ながら弱々しいなとも思うが、これが今の自分の限界であったのだ。
しかし少女は僕の腕を掴み、降ろさせた。そして僕の目を見ながら言う。
「ごめんね」
謝罪しながら少女は覆い被さるようにして僕を抱きしめた。
その抱擁に束縛は感じず、あくまで「優しさ」を感じるものであった。
「落ち着いた?」
少女は僕の顔を確認しながら言う。僕は少女の唇の位置を確認する。触れてしまいそうな距離。しかし僕はこれ以上うしろへ移動することはできない。
「だいじょうぶ。しないから。警戒しないで?」
そのままの状態で時が過ぎる。室内の古時計が時を刻む音だけが聞こえていた。僕はどうして良いか分からなかったが、人間とはどんな環境でも慣れてくるものらしい。見ず知らずの少女に顔を見つめられながら、密着して抱擁されているこの状況に慣れてきた。
「あの…どうかもう少しだけ説明してくれませんか」
「何が知りたいの」
少女の体温を感じながら、僕は聞くべきことを吟味した。熟考した割には無難な質問しか出てこなかった。
「あなたは誰ですか…?」
「毒葉 紫乃」
なんとなく、この恐ろしくて美しいこの少女に似合う名前だと思った。
少女は次の質問を待つかのように、僕のことをじっと見つめる。
このまま質問をやめるとこの美しき魔物にここで喰われてしまいそうな気がして急いで質問を絞り出す。
「なぜ嘘を吐いてまで僕を呼びつけたのですか…」
「美術館で会った時に、欲しいなって思ったから」
「美術館…?」
「『ビアズリー展』へ先月の第2木曜日、来ていたでしょ」
ビアズリーは25歳でこの世を去った天才画家。オスカーワイルドによる戯曲『サロメ』の挿絵師としても有名だ。その平面的で闇を感じる作風には熱狂的なファンも多い。
僕もそのファンの1人であった。そして確かに少女の言う日に『ビアズリー展』を観に行った。
「毒葉さんも来られていて…そこで僕を見かけたということですか…?」
「そう」
「どうやって…僕を特定したのですか」
「あの美術館は私のものだから」
この子のもの?あの美術館が…?
確かあの美術館は国内最大手財閥の「毒葉グループ」の所持する美術館であったはず。
だとすると名前の一致は偶然ではなく、彼女は「毒葉グループ」の経営者一族であるということだろうか。
なんとなく、話の全貌が見えてきた。
「つまり…美術品と同じように、重度の「不幸病」である僕のこともコレクションしようということですか…?」
また、心に悲しみと羞恥、怒りと恐れが湧いてくる。
どうして自分ばかりがこのように惨めな思いをせねばならないのか。
金持ちの道楽で狩尽くされた絶滅動物のように、高い「幸運値」を持つ人間たちから永遠に搾取され続けるのか。
「また、泣いてしまうの?」
少女がその両手で僕の両頬を包むようにピタリと触れながら言った。見た目の印象通り、体温が低いようで頬に冷たさを感じる。
泣いてはいけない。こんな少女にいいようにされて、惨めに泣いてはいけない。
「な、泣かない…泣かないけど、なんで、こんなことするんですか…?」
「絵を見るあなたがかわいかったから」
少女は意味のわからないことを言い、また自身の唇を僕の唇に近付ける。
腕力では余裕で勝てるはずなのに、少女が僕を手に入れようとするその欲望の力に勝つことができない。
「ん……っ」
少女は僕の唇に口付けをする。僕はあまりに惨めで、我慢していた涙を流すことしかできない。
少女は自身の舌で僕の唇を貪りながら、指でその涙を拭ってくれた。
「ぷはぁっ…はぁ、さ、さっき、しないって言ったのに…ッ」
長い長いキスが終わったとき、僕は酸欠と脳を支配する少女の香のせいでまともに喋ることさえ難しかった。
「無理やりしてごめんね?こわかったよね?」
少女はそう言って僕のことを抱きしめ、頭を撫でる。僕の脳の容量を超える刺激。
無理やりこんなことをするくせに、すぐに謝ったり、優しく抱きしめて撫でてきたり。
「今日からここに住まない?」
少女は僕を抱きしめながら、脈略の無い提案をしてきた。僕が頷くわけなんて無いのに少女は信じているのだ。
僕が自分のものになることを。
「嫌です…無理に決まってますよ、そんなの」
「頷いてくれたら褒めてあげるよ」
僕はほんの一瞬。ここで頷いてこの美しい獣に喰われて終わるのも良いかと思ってしまった。
しかし寸前で思いとどまり、拒絶の意思を伝える。
「本当に…無理です。警察に言ったりしませんから…だから、お願いだから帰らせてください…ッ」
必死の思いで勇気を振り絞って言う。少女がどんな反応をするのかを確かめるのが恐ろしい。
しかし僕の心配とは裏腹に少女は僕を抱きしめるのをて終えて言った。
「嫌われちゃうのは1番いやだから、きょうは帰ってもいいよ」
きょうは…などと言うが、二度とここへくることはないだろうと僕は心に誓う。
少女は僕から離れ、ソファーから立ち上がる。
長い黒髪もセーラー服も一糸乱れず、あれだけ僕を激しく貪ったとは思えないくらい凛として美しい立ち姿に驚く。美しい人間は何をしても永遠に美しいのだろう。そう運命に決定されているのだ。
「玄関まで送らせてね」
断ることよりも早くここを出ることを優先した僕は頷く。少女は玄関まで僕についてくる。
そして靴を履き扉を開けようとしたその時、最後に少女は思い出したように言う。
「私の「幸運値」を教えてあげるね」
なんだいきなり…?自分の「幸運値」を教えないとフェアじゃないと思ったのか?
それか先ほどのことに対する罪悪感が急に湧いてきたのか?
不気味に思ったが、知的好奇心に勝てず僕はそれを知りたいと思ってしまった。
「149、だよ」
日本一「幸運値」の高い学生が集う慶應義塾大学の平均「幸運値」が確か「120」だ。そして人類で最も「幸運値」が高いとギネスブックに記載されているドイツの慈善活動家が確か…「141」だったはず。それを上回ると言うのか?
真意は分からないが、どうにも彼女の表情から真実なのだろうなと僕は直感的に思った。
「ご自慢なのですね。では、僕はこれで。もう会うことも無いと思います」
今は少女への恐怖よりも、怒りの方がウェイトが大きくなってきていた。
僕はまた大人気ない捨て台詞を吐いて下品な豪邸を後にした。
そして僕はこの少女…毒葉紫乃がなぜ自身の「幸運値」を最後に告げたのか、その理由を知ることになる。
電車に乗り最寄り駅まで帰り、ドラッグストアで明治の板チョコを2枚も買って家路を急ぐ。
そしてもうすぐ家が見えてくるはずだと安堵しかけた時、違和感に気がつく。
両親が僕に残してくれた家が、僕の全ての財産と思い出の詰まった家が……
燃えていた。




