Cafe Shelly なんのために
五月病。この季節にな mると、無気力になる。夜眠れなくて、昼間眠気がやってくる。食欲もわかないし、とにかくやる気がなくなる。
大学に入って、私はこの病気にかかってしまった。一生懸命勉強して、せっかく入学した学校。これから楽しいキャンパスライフが待っている。さらに、あこがれていた一人暮らし。親の目から離れて、自由に暮らすことができる。なのに、何もやる気が起こらない。
「あ、学校行かなきゃ」
気がつけばもうそんな時間。学校を休むほどひどいわけじゃないし、なんとか体を動かすことはできる。始まってそうそう、出席点を落とすわけにもいかない。それに、せっかくできた友達には会いたい。
ダラダラと着替えをして外に出る。五月の日差しがやたらと眩しい。まだ気温はそんなに高くはない。けれど、今の私にはなんだか酷な感じがする。
「サキ、おはよう」
「あ、ミサ、おはよう」
友達から声をかけられる。ミサは学校で初めてできた友達。出席番号が隣だったってこともあるけど、なんか気が合うタイプだった。
「サキ、なんか元気なさそうだけど。どうしたの?」
「あ、うん。ちょっと眠れなくて」
「大丈夫?なんかフラフラしてるけど。元気だして行かなきゃ!」
ミサは私の背中をおもいっきりはたいて、スキップをしながら足早に教室へと向かっていった。私はそのテンションについていけず、周りのスピードからするとかなり遅く、ノロノロとした足取りで前に進んでいく。
それにしても、どうやったら五月病って治るのかしら。この時期が過ぎれば、勝手に元気になれちゃうのかな。でも、今の私の気持ちから考えると、とても治るとは思えない。このままズルズルと引きこもりになっちゃうのかなぁ。
考えれば考えるほど、悪い方向にしか向かっていかない。気持ちが前向きになれない。
この日の授業も、まったく頭に入らずに一日が終わってしまった。さいわい、ノートはミサがとってくれている。あとでコピーをもらわなきゃ。
「サキ、このあとどうするの?アルバイト、一緒に探しに行こうって言ってたけど。なんか調子悪そうだから、また今度にする?」
「あ、うん」
そうだ、アルバイトしなきゃ。じゃないと仕送りだけじゃお金が足りないからなぁ。本当は四月中に探すつもりだったけど、新入生歓迎イベントとかいろんな行事があったから、まだ見つけていない。
なんかめんどくさいけど、お金がないのも困るし。何か見つけにいかないといけないな。
「あのさ、アルバイトするのにちょっと良さそうなところ見つけたんだけど。これから一緒に行ってみない?」
ミサは興奮気味に私にそう言う。
「それ、どこ?」
「喫茶店なんだけど。アルバイト募集の張り紙をみつけたんだ。でも、一人で中に入るにはちょっと勇気がいるかなって感じだったから。私って田舎者だから、まだ喫茶店に一人で入る勇気がないのよねー」
喫茶店に入る勇気って、どんなのよ。それに入る勇気もないのに喫茶店でアルバイトだなんて。まぁいいや、一人で引きこもるよりはミサに付き合ったほうが気持ちも前向きになれるかもしれないし。
「わかった。じゃぁ行こうか」
「サキ、ありがとー」
その喫茶店、大学からはそれほど遠くないところにある。喫茶店というよりもファミレスをおしゃれにしたような感じのお店。ちょっと大きめで、ウェイトレスが何人か必要だなっていう印象を持った。
「こういうところでコーヒー飲むなんて初めて。いつもマックかスタバばっかりだったもんなー」
「ミサのところにはスタバなんてあったんだ。私のところにはそんなのもなかったな。私のほうが田舎者じゃない」
なんか落ち込むな。やっぱり都会の水に慣れていないのかな。
足取りも重たく、ミサがバイトを希望している喫茶店に到着。しゃれたつくりで、私にはなんだか合わない。けれどミサは一人で興奮している。
「ね、ここの制服ってかわいくない?それにお客さんも上品そうな人が多いし」
確かにウェイトレスの制服はかわいい。それに若くてきれいな人ばかりだ。お客さんもどこかのマダムといった感じの人ばかり。私達のような学生が来るようなところではない。メニューも横文字ばかりでとても覚えられないようなものがずらりと並んでいる。
「いらっしゃいませ。ご注文がお決まりになりましたらおよびください」
お冷をもってきてくれたウェイトレスさん。とても丁寧で好感が持てる感じ。最後にニコッとした笑顔がとても印象的だった。
「ね、なににする?」
ミサの興奮はおさまらないみたい。
「私、コーヒーでいいよ」
「コーヒーもいっぱい種類があるよ。えっと、オリジナルのブレンドだけで七種類もあるわ。それにキリマンジャロとかモカとか。ね、どれにする?」
「えーっ、どれ飲んでも結局コーヒーでしょ。一番安いのでいいよ」
私は半分投げやりな態度でそう答えた。別に、高いコーヒーを飲もうとは思わない。やっぱり来るんじゃなかったな。
結局、ふところ事情も考えてミサも私も一番安いコーヒーを注文。その間にあらためて店内を見回す。すると、壁に毛筆でこんな事が書かれてあるのを見つけた。
『一杯の珈琲で笑みが溢れる』
コーヒーで笑いを取ろうってこと?ここ、お笑い芸人でもいるのかな?
「サキ、どうしたの?」
「うん、あれってどういうことだろう?」
私が見つけた毛筆で書かれた文字を指差す。
「たぶん、ここの店主の思いじゃないかな。コーヒーで笑顔をつくっていきたいって、そういう意味だと思う。あぁ、なんか素敵だな。ますますこのお店気に入っちゃった」
「ふぅん、そうなんだ」
コーヒーで笑顔ねぇ。でも、たかがコーヒーを飲んだくらいで笑顔になれるものなのかしら。そんな便利なコーヒーがあったらお目にかかりたいものだわ。そうしたら、今の私の沈んだ気持ちも晴れやかになれるのに。
「決めた。私、ここのアルバイトに募集する。ねぇ、ミサも一緒にどう?」
「私?私はいいわよ。なんかこんな高級そうな空気、合わないから」
「そんなに高級そうに思えますか?」
突然、私達の会話に初老の女性が割り込んできた。
「あ、えっ、えっと…」
だれなの、この人は。さすがにちょっとびっくりしたわ。
「ごめんなさいね、驚かしちゃったかしら。私はこの店のオーナーなの。私もできるだけお店に出て、こうやってコーヒーを運んでいるの。お客様とふれあいたくてね」
そう言って笑顔でコーヒーを私達の目の前に置いていく。
「アルバイトの話をしていたわよね。ぜひあなた達のような若い女性にこのお店で働いてほしいわ。私のようなおばあちゃんよりも、あなた達のような若い女性の笑顔のほうがお客様は喜ぶから。うふふ」
そうは言っているが、私の目から見てこのオーナーの女性の笑顔は私にとっては安らぎを与えてくれる。さっきのウェイトレスの笑顔も悪くないけれど、私はこの人の笑顔のほうがしっくりくる。
「コーヒーは私の夫が淹れてくれているの。夫はコーヒー馬鹿っていうのかしら。とにかくこだわりがあってね。私はコーヒーの味はよくわからないのよ。でもね、夫の淹れたコーヒーでみんなが笑顔になってくれればって、そういう思いでこのお店をつくったの。おかげさまでたくさんのお客様が来てくれるようになってね」
そう語ってくれるオーナー。ふとミサを見ると、目をキラキラと輝かせている。
「決めたっ。私、このお店でアルバイトする。ぜひ働かせて下さい」
「ありがとう、ぜひうちで働いて下さい。あらためてよろしくお願いします」
オーナーの女性は深々と頭を下げた。私達のような、まだまだ若い人物にこんなに謙虚になれるなんて。とてもできた人だと感じた。
「今日はまだお客様ですから。ゆっくりと楽しんでいってね」
ニコリと笑って、オーナーの女性は奥へ消えていった。ミサはまだ目を輝かせている。私はここで一つの質問をミサに投げかけた。
「ねぇ、どうしてこのお店でアルバイトしようと決めたの?」
ミサは当然のような顔でこう答えてくれた。
「こんなに素敵なお店で、こんなに素敵なオーナーなのよ。私もあんなふうになりたい。そして、オーナーの思いと同じように多くの人に笑顔になってもらいたい。そう思ったの」
このときのミサの言葉、ただ「ふぅん」としか感じなかった。そもそも私には人を笑顔にする余裕なんてない。まずは私が笑顔になれないのだから。どうして私だけがこんなふうになっちゃったんだろう。周りの同級生を見ても、五月病になっている人なんていないように見える。
「サキはどうしてこのお店で働かないの?」
ミサから逆質問が飛び出した。
「どうして働かないのかって…うぅん、なんとなく、かな」
なんとなく、ではダメなのはわかっている。だって、生活費を稼がないと遊ぶこともできない。せっかくのキャンパスライフを楽しむことができない。けれど、やる気が起きないのだ。
結局、ルンルン気分のミサと対象的に落ち込む私という形で一日が終わった。なんとかしなきゃ、という焦りだけが私におそってきただけになった。もう、ホントにどうしよう。
翌日、ミサは早速履歴書などの必要書類をまとめて学校にやってきた。終わったら喫茶店に提出に行くそうだ。
「ね、今日も付き合ってよ。おねがい」
半ば強引にミサに引っ張られて、私は再びあの喫茶店へと足を運んだ。けれど、今日はお客ではない。だから、要件が終わったらさっさと帰るつもりだ。
「あら、いらっしゃい。今日は奥へどうぞ」
オーナーは昨日と同じ笑顔で私達を迎えてくれた。私は躊躇してしまったが、雰囲気に流されて結局ミサと一緒に奥へと足を運ぶことになった。
「これ、履歴書です。こういうの書くのは初めてなので、これで大丈夫でしょうか?」
オーナーはミサの履歴書にサッと目を通す。
「うん大丈夫よ。連絡先さえわかればいいのだから。ミサさんっておっしゃるのね。そちらの彼女はアルバイトしないの?」
オーナーは私にアルバイトを促している。けれど、どうしてもその気になれない。
「サキ、一緒に働こうよ」
「でも…」
このとき、オーナーは私を見てズバッとこう言った。
「あなた、もしかしたら五月病じゃない?いまいちやる気が起きない。そうでしょう?」
「えっ、ど、どうしてわかるんですか?」
「ふふふ、ダテに何十年もこの商売をやってきたわけじゃないのよ。このお店にはいろんな人がやってきて、いろんな人を見てきたわ。アルバイトの方たちもいろいろと見てきたの。だからサキさん、だったわよね。あなたのような人も何人もいたわ」
「えぇっ、サキって五月病だったの?でも、五月病ってなんだか今ひとつよくわかんないんだけど」
「まぁ、正式な病気じゃないから一概にこうだっていうものはないけれど。一般的にこの時期になるとやる気が起きなくなる症状のことなのよ。特に新入生のような環境が大きく変わった人に現れやすいものなの。そうだ、あなたのような人にぴったりのところがあるのよ」
私にぴったりのところ?どこか病院かカウンセラーでも紹介してくれるのかしら。
「ここに行ってごらん。きっと何か見つかるわよ」
オーナーが出してきたのは一枚の名刺。
「カフェ・シェリー、ですか?」
「そうなの。このお店のマスターがすごく変わっていて素晴らしい人なの。そして、ここのお店のコーヒーを飲むと、とても面白いことが起きちゃうのよ。何が起きるのかは行ってみてのお楽しみ」
「コーヒーを飲むのだったら、このお店に来たほうがいいと思うんですけど」
どうしてわざわざ商売敵である他の喫茶店を勧めるのだろう?私は不思議に思ってそう尋ねた。
「ふふふ、私の思いはコーヒーを飲むことで笑顔になってくれることなの。それが私のお店じゃなくてもいいのよ。それにね、このカフェ・シェリーでは私のお店ではできない体験が待っているから。ぜひ行ってみて」
「は、はぁ」
気のない返事をしてしまったが、またまたミサは目をか輝かせている。
「ねぇ、今から行こうよ。オーナー、アルバイトは明日からでいいんですよね?」
「えぇ、ぜひ行ってらっしゃい。そうしたらきっとあなたも元気になれるわよ」
結局ミサの強引な誘いもあり、これからカフェ・シェリーへと足を運ぶことになった。
カフェ・シェリーは街中に近いところにある。大学からはバスで向かわなければいけなのが面倒ではあるが、ミサに引きずられてやってきてしまった。
「あ、ここだ。すごーい」
スマホの地図を見ながらやってきたところ。そこは街なかにある路地で、通りはパステル色のタイルで敷き詰められている。見た目のインパクトもすごいけれど、さらに驚いたのはその路地の雰囲気。一見すると西洋っぽいつくりではあるけれど、並んでいるお店はブティックや雑貨屋、飲食店、そして病院まである。ごちゃごちゃしているようにも思えるけれど、なんとなく賑わいを見せている。
「へぇ、こんなところあったんだ」
まだこの土地に来て間もない私にとっては、とても刺激的だった。街中の大通りは歩いたけれど、こんな隠れ家的なところがあっただなんて。元気が出なかった私でさえも、ちょっとだけ胸がはずんでしまった。
「えっと、たしかこの辺だと思うんだけど…」
ミサがスマホとにらめっこしている間に、私は通りの雰囲気を楽しんでいた。少しだけ元気が出た気がする。ふと目をやると、通りの角に黒板で書かれた看板を発見。その下の方にこんなことが書かれてあった。
「あなたは今、何のためにそれをやろうとしていますか?」
何のためにそれをやろうとしているのか。このときふと頭に浮かんだものがある。
「私、何のために大学に来たんだろう」
「サキ、どうしたの?お店ここの二階みたいだから入ろうよ」
ミサはお目当てのお店を見つけたので、ウキウキしながら階段を上がっていく。私の頭の中は「なんのために」という言葉がグルグルと渦を巻いている。
カラン・コロン・カラン
ミサがお店の扉を開けると、心地よいカウベルの音が鳴り響いた。それと同時に包まれるコーヒーの香り。いや、その中に混じって甘い香りもある。一瞬にして異空間に入った感じがした。なんだろう、この感覚。おもいっきり深呼吸をしてみたくなる。
「いらっしゃいませ」
女性の声が耳に入る。少し遅れて渋い男性の声で「いらっしゃいませ」も聞こえてきた。
「お二人ですか?」
「はい。ミレージュという喫茶店のオーナーに紹介されてやってきました」
「あぁ、宮下さんですね。私の尊敬する方ですよ。よかったらこちらへどうぞ」
カウンターからそうやって話す声。その方向を見ると、渋い男性のマスターがにこやかな顔で私達を出迎えてくれた。その笑顔はあの喫茶店の女性オーナーと同じだ。一瞬にして安心感が湧き上がってきた。
「お二人は大学生ですか?」
「はい、今年入学しました。それで、私はミレージュにアルバイトに入る予定です」
ミサは元気よくマスターに話しかける。マスターもそれに応えるようにニコリと微笑む。けれど、私はミサが元気になればなるほど落ち込んでしまう。どうして私だけがこんなになっちゃったんだろうって。
「こちらの方はどうされたのですか?少し元気が無いように見えますが」
マスターは私の方を見て心配そうに声をかけてくれる。ありがたいのだが、今は答える気にすらなれない。
「サキは五月病だって。ミレージュのオーナーがそう言っていました。それで、このお店に来てコーヒーを飲むといいよって勧められたんです」
「なるほど、宮下さんが言いそうなことだ。じゃぁ、お二人ともシェリー・ブレンドはいかがかな?」
「シェリー・ブレンドですか?それ、どんなコーヒーなんですか?」
ミサは興味深そうに質問をする。私の中ではコーヒーでどうにかなるわけがないという思いのほうが強いので、興味すら湧かない。
「これは飲んでからのお楽しみ。きっとサキさんも笑顔になれますよ」
マスターはそう言ってコーヒーを淹れる準備を始めた。
「ねぇ、ミサ、私のことは放っといていいから」
「そうはいかないわよ。せっかくできた友達が元気ないんだから。元気づけるのが友達でしょ」
最近気づいたことだが、ミサは強引に自分の思った方向にもっていこうという癖がある。悪い方向ではないのだが、自分の思い通りにしようというところが、若干おせっかいに感じることもある。まさに今がそうだ。その気持ちが今はちょっと重たく感じる。
「サキさん、一つ質問いいですか?」
マスターが私に質問をしてくる。なんだろう?
「はい」
「サキさんはなんのために大学に入ろうと思ったのですか?」
「えっ、なんのために?」
その質問で、私は頭が固まってしまった。そうなんだ、そもそもこの大学に入ろうと思ったのはどうしてなのか。
高校の頃を思い出してみた。進路を決めようとした時に、自分の成績と住んでみたいところ、そして文系の学科という形で選択をしていくと、いくつかの大学が見つかった。そしてオープンキャンパスに行ってみると、とてもいい雰囲気で気に入った。三者面談で先生の勧めもあり、だからこの大学に行こうと思った。
そう考えると、なんのためにこの大学に来たのか、そんなことは一切考えていなかった。だからマスターの質問に答えることができない。
「私は将来、英語が喋れるホテルマンになりたいって思ったんです」
ミサが突然そう答えた。
「へぇ、英語が喋れるホテルマンか。かっこいいなぁ」
突然、後ろから店員の女性が会話に割り込んできた。
「あ、驚かせてごめんなさい。私、マイっていいます。ということは、あなたは英文科なのね」
「はい。サキと私は英文科に通っています」
「ということは、私の後輩だ。よろしくね」
店員さん、とてもきれいな人。私も将来こんなふうになりたいな。でも、私は田舎者だし。容姿だってこんなにスラリとはしていないし。なんだか落ち込むな。
「どうしてホテルマンになろうと思ったの?」
「はい。中学生の頃に家族で旅行に行ったんです。そのときにちょっといいホテルに泊まったんですけど、このときに見かけた女性のホテルマンがとってもかっこよくて。すごく憧れたんです。私もあんなふうになりたいって、その時に思ってからずっと、そのための勉強をしてきました」
「あなたは目的がはっきりしているんだね。すごいなー。私は特に目的もなく、英文科に進んじゃったから。最初の頃はただなんとなく時間を過ごしてたなぁ」
「マイは大学に入ってすぐの時は、イマイチ元気がなかったよなぁ」
マスターがそう言う。ということは、この店員のマイさんも私と同じ五月病だったのかな。
「でもね、マスターが講演会とかに誘ってくれるようになってから、なんだか元気が出るようになってきたの。あ、私が進む道はこれだって感じたからかな」
「進む道って、何だったんですか?」
ミサはマイさんのことに興味津々のようだ。
「私ね、大学生の時にセラピストの資格を取ったの。そして卒業後も心理学の勉強をしたのよ。それで、昼間は喫茶店の店員をやっているけれど、夜はこのお店でカラーセラピーの仕事もしているの」
「じゃぁ、英文科に進んだ意味ってなかったってことですか?」
「ま、正直そうなるかな。だから、本当は行かなきゃいけない海外研修もパスしちゃったし」
そういえば三年生の時には海外研修というのがあるんだった。それもあるからこの大学に来たんだったな。修学旅行気分で楽しそうだったけれど、行かない人もいるんだ。
「はい、お待たせしました。シェリー・ブレンドです。味の感想をぜひ聞かせてくださいね」
そう言ってマスターが私たちにコーヒーを差し出してくれた。このコーヒーを飲むと何かが起きる、ということだったな。どうなるんだろう。
「いただきまーす」
ミサは早速コーヒーを口にする。すると、目をつぶってしばらく黙り込んでしまった。
「すごーい、なにこれ!?」
突然叫び出すミサ。何があったのかしら?
「どんな味がしましたか?」
マスターの問いかけに、ミサはこう答えた。
「最初口にしたときには、美味しいコーヒーだなって思ったんです。でも、その味がアジア系だったりヨーロッパ系だったり、どんどん変化するんですよ。で、どの味も私にとってはぴったりマッチする感じ。味の変化も驚いたけれど、どの味も美味しいって感じることができたのがすごいです」
「えっ、どうしてアジア系とかヨーロッパ系とかわかるの?」
今度は私が問いかけた。するとミサの答えはこうだった。
「うぅん、なんとなく、かな。瞬間的にそう感じたとしか言えないけど。とにかくサキも飲んでみなよ」
なんだかよくわからない答えだったけど。味が変化するってどういうことなんだろう。とにかく私もコーヒーを口にしてみることにした。カップを手に取って、ゆっくりと口に近づける。
あ、なんか違う。このときに瞬間的にそう思った。コーヒーの香りのせいかしら。でも、違いがわかるほど私はコーヒー通ではない。
コーヒーを口に含む。まずは掛け値なしに美味しいと感じることができた。が、次の瞬間思いもしなかった味が私を襲った。
いきなり味がなくなった。舌の上で苦味を感じていたのに、それがどこかへ飛んでいってしまった。ど、どういうこと。けれど、それは一瞬のこと。そのあとに今度は最初よりも味が濃くて、コーヒーらしさが急激に深まった。例えていうなら、谷底から一気に上空へと駆け上がる。そんな感覚だ。
このとき、私の頭の中では鳥が飛んでいた。というより私自身が鳥になっていた。その鳥が急落して地面に落ちる寸前、翼を大きく広げて大空へ羽ばたいていく。そんな光景が浮かんでいた。
「お味はいかがでしたか?」
マスターがにこやかにそう言ってくる。ここでハッと我に返った。そして今自分が口にした味、目にしたものを振り返ることができた。
「最初口にした時は美味しいコーヒーでした。でもすぐに味がなくなったんです。けれど、一瞬にして今度は濃いコーヒーの味に変わりました。そのときに、私は鳥になったんです」
「鳥?」
ミサが不思議そうにそう言う。
「うん。なんだかわからないけど、頭の中で私は鳥になっていたの。そして地面に落っこちそうになったけれど、その寸に翼を広げて大空へ羽ばたいていったの」
言いながらもまだ呆然としている。あれは何だったのかしら?
「味がなくなったけれど、一瞬で濃いコーヒーの味になった。それと、鳥になって落ちそうになったけれど翼を広げて大空へ羽ばたいた、か…マイ、どう思う?」
マスターが今の言葉の解釈について、マイさんに意見を聞いた。するとマイさんはニコリと笑ってこう答えてくれた。
「私にはわかったわ。サキさん、だったわね。今五月病って言ってたじゃない。味がなくなった、鳥になって落ちそうになったというのは今の状況のことを示していると思うの。それが濃いコーヒーの味になった、翼を広げて大空へ羽ばたいたというのは、状況が一変して前よりも充実した生活を送りたい。そういう意味じゃないかな。私も同じだったからわかるわ」
そうか、マイさんも大学生になった時に五月病になったって言ってたな。
「私の場合、それを救い出してくれたのはマスターだったけどね。今じゃこうして、一緒になっちゃったけど」
「一緒になったって、えっ、マイさんとマスターってそういう関係なんですか!?」
ミサが驚いてそう言う。私もさすがに驚いた。だって、下手すると親子ほどの違いがあるように見えるけど。
「ははは、マイとは年の差夫婦なんだ。今では私のほうがマイに助けられているけど」
私にもマスターのような存在がいて、今の私を救い出してくれるといいのにな。でも、そんな彼氏はいない。
「話を戻そう。えっと、サキさんの願望は今の状況を脱して、自分を上昇させたい、ということなのかな」
私はこっくりと首を縦に振った。それは間違いない。
「問題は、なんのために、かな」
マスター、またその言葉を私に伝える。
「五月病の原因はそこにあると私は思うんだよね。サキさんは大学に入ることに一生懸命だったんじゃないかな?」
その言葉にも私は黙って首を縦に振った。
「だから、学校に入学して、今の生活に慣れるまでは気持ちが高まっている。けれど、生活に慣れてしまうと今度は目標を見失ってしまう。だからやる気が急激に下がってしまう。これが五月病の原因だと私は思うんだよ」
「マスターの言うとおり、私がそうだったからなぁ。でも、さっき言ったとおり、いろんな講演会を聞きに行くことで自分の目的が見えてきて、それにともなって目標がはっきりしてきたの」
「あの、目的と目標って何が違うんですか?」
ミサが質問。目的と目標って、私も違いが今ひとつわからない。
「わかりやすく言えば、目的はなんのために。目標はどこまで行くかってことだよ」
「なんのために、どこまで…私で言えば、英語が使えるホテルマンになりたい。これがなんのために、つまり目的ってことか。そしてそのためにこの大学に入った。これが目標かな」
「ミサさん、実はそれはどちらも目標なんだよ。目標とは目に見える形で現されるものになるんだ。英語が使えるホテルマンは遠い目標。そして大学に入ったのは近い目標。そもそも、どうして英語が使えるホテルマンになりたいんだったかな?」
「えっと、中学生の頃に見た女性のホテルマンに憧れているから…」
「どうして憧れたのかな?」
「あんなふうになって、多くの国の観光客に安心して過ごして欲しいと思ったから、かな」
「そう、それが目的なんだよ。その思いがすべての根源となって、今の自分を動かす力になるんだ」
ミサに対しての目的と目標の説明、これは納得しやすかった。けれど、私はそんなのを持っていない。
「じゃぁ、サキの場合はそれが無いってことだったじゃないですか。無い場合はどうすればいいんですか?」
私が聞きたかったことを代わりにミサが質問してくれた。
「そういう人のために、このコーヒー、シェリー・ブレンドがあるんだよ」
「えっ、それってどういうことですか?」
「実はね、このシェリー・ブレンドには魔法がかかっているんだ」
「魔法、ですか?」
確かに、ちょっとおもしろい味がするコーヒーだとは思うけど。魔法ってどういうことなんだろう。
「コーヒーを飲むと眠れなくなる、なんて言われているけれど、実は逆に睡眠剤としても使われることもあるんだ。コーヒーは本来、その人が望んだ効用が現れるものなんだよ。このシェリー・ブレンドはその効果がさらに高まっていて、その人が望んだ味がするんだよ。まれにその人が望んでいる光景が頭の中で浮かぶときもあるんだ」
「あ、だからさっき私は色んな国の味がしたんだ。そしてサキは味がなくなったけれど濃い味がした。それはサキが五月病を早く治したいっていうことにつながっていたんだ」
「そう、その通り。だからサキさん、まずは頭の中で、自分が大学に来た目的を探したいと強く念じてみて。そしてシェリー・ブレンドを口にしてごらん」
マスターの言ったことは本当なんだろう。さっき私が感じた味は、本当に私が今望んでいることだったから。だったら私が大学に来た目的を探すこともできるかもしれない。一縷の望みをかけて、早速私はシェリー・ブレンドを口に運んでみた。
今度は口にしたときには、ちゃんとしたコーヒーの味がした。けれど、そのときになんとなく懐かしい感じを受けた。あれ、なんだっけ、これ。
そう思った時に目の前に広がったのは、おばあちゃんの家。私がまだ小学生だった頃、両親が働きに出ていたので私は鍵っ子だった。そして、夏休みや冬休みになると、必ずおばあちゃんの家に預けられていた。
おばあちゃんの家は我が家から二時間位離れたところにある。だから、周りには私の友達は誰もいない。特に夏休みなんかは一人でずっとおばあちゃんのところにいたので、午前中は宿題をやって昼からはぼーっとテレビを見て過ごすことが多かった。
そんなときに、おばあちゃんは私に気を遣ってくれて、手作りのおやつを食べさせてくれたものだ。私も一緒になっておやつを作ったという経験がある。
寂しい思いをしていたけれど、そんな寂しさを紛らわしてくれるものがあるとうれしいものだ。そんな寂しさを吹き飛ばしてくれる、そのおばあちゃんの手作りおやつの味が蘇ってきた。
そうか、寂しい人達のために何かできることがあればいいんだ。子供だけじゃない、老人も一人で過ごしている人たちに向けて、何かできることがあればいいんだ。
「お味はいかがでしたか?」
またもやマスターの言葉でハッと我に返った。そうだった、私はシェリー・ブレンドを飲んでいたんだった。マスターの言うとおり、私の頭の中で映像としてほしいもの、望んでいるものが見えていたんだった。
「びっくりしました。さっきとぜんぜん違う味がしました」
「どんな味だったの?」
ミサが興味深そうに私に聞いてくる。
「うん、懐かしい味。おばあちゃんと一緒に作ったてづくりおやつの味がしたの。そうしたら頭の中で、私の子どもの頃の映像が浮かんできた。私、子どもの頃って夏休みとか冬休みになると、おばあちゃんの家に預けられていたの。でも周りには友達がいなくて、いつも寂しい思いをしていた。そんなときにおばあちゃんがてづくりおやつを作ってくれていたの。そのときの味が蘇ってきた」
「そこからどんなことを自分が望んでいるって感じましたか?」
そうだ、大事なのはここだった。
「はい。私と同じように寂しい思いをしている子どもはまだまだたくさんいるんじゃないかって。子どもだけじゃなく老人も同じように一人で暮らしていて、寂しいと感じている人がいるはず。だからそういう人たちに向けて何かできることがあればって」
「それ、すごい!サキ、ぜひやってほしいな。サキならできるよ!」
私の言葉を聞いて、ミサがやたらと感激している。すると、マスターからこんな提案が飛び出した。
「私の知っている方で、すでにそのような施設を建てて活動されている方がいますよ。そこは人手不足もあるので、もしよろしければアルバイトに行ってみるのはいかがですか?私から連絡を取らせていただきますよ」
このマスターの言葉を聞いた時、私の頭の中で鳥が急上昇をする姿が浮かんだ。さっきシェリー・ブレンドを飲んだ時に思い描いた、あの姿だ。
「はい、ぜひやらせてください!」
言葉のほうが先に飛び出した。
「サキさん、今一瞬にして表情が変わったね。すごくイキイキしているよ」
マイさんがそう言ってくれる。自分では表情はわからないけれど、心が急に動き始めたのは間違いない。
「そしたらさ、英文科での授業でしっかりと英語がマスターできれば、海外への視察とかもできるし。あ、地元の外国の人と子どもや老人をつなげるっていうのもありじゃない?」
ミサの提案を聞いて、学校の授業と私の目的も結びつくことがわかった。それもアリだな。だったら学業にも身が入りそう。さらに心が弾んできた。
「ありがとうございます。なんだか自分の中のモヤモヤが一気に晴れた気がします」
「サキ、それよそれ。私、実はサキに感謝しているんだ。大学に入って誰も友達がいなかったときに、真っ先に声をかけてくれたのがサキだったから。おかげで不安がなくなって、学校生活が楽しくなりそうって感じたの。そんなサキが落ち込んでいたから、なんとかしてあげたいってずっと思ってたの」
「ミサ…」
ミサがそんなふうに思ってくれていただなんて。ちょっと感激してしまった。
「じゃぁ、早速私の知り合いの施設に連絡をとってみますね」
「はい、ありがとうございます」
私の連作先をマスターに伝えて、この日はカフェ・シェリーをあとにした。明日からなんだか楽しくなりそう。
「なんのために、か。私、そんなこと考えたこともなかったなぁ」
帰り道、ふとそんな言葉を漏らした。
「私も、マスターやマイさんから言われるまでは忘れちゃってた。でも、私がこの学校に来た目的をもう一度思い出させてくれて、明日から頑張れそう。喫茶店のアルバイトも役に立ちそうだし」
ミサも笑顔になっている。この日は二人でちょっとしたお祝いを兼ねた夕食を楽しんだ。
そして翌日。
「おはよー!」
私は元気よく、いや今まで以上の元気で朝の挨拶をしまくっていた。
「サキ、あんたどうしたの?」
周りの友達から、私が急に変化したので驚かれたようだ。
「あ、彼氏できたんでしょー」
中にはそんなことを言う人もいる。けれど、今の私の気分はおそらく彼氏ができたとき以上の喜びに満ち溢れている。だって、自分の生きる目的ができたんだもん。なんのために大学に来て勉強するのか。そしてなんのために生きていくのか。それができただけで心も体も充実してきた感じがするんだから。
この日の午後、カフェ・シェリーのマスターから電話があった。
「サキさん、私の知り合いの施設に連絡が付きました。大歓迎するとのことでしたよ。早速行ってみてください」
「はい、ありがとうございます!」
私の喜びはさらに高まっていく。よし、これから自分の目的に向かってさらに進んでやるぞ。
ミサは残念ながら今日から喫茶店のアルバイトなので、私一人でマスターが教えてくれた施設へと足を運ぶことにした。さて、これからどんなことが待っているのか。とてもワクワクしてきた。
「ここか」
案内された施設の名前は「ここから」。うん、私もここからスタートするんだ。その気持ちが高まった。
「こんにちはー」
そう言って扉を開くと、元気な小さい子供がわーっと寄ってきて
「こんにちはー」
と私に声をかけてくれる。これには驚いた。さらに遅れて
「こんにちは」
と笑顔で私に語りかけてくれるおじいちゃん、おばあちゃん。いきなり笑顔の大歓迎を受けてしまった。
「こんにちは。サキさんですね。カフェ・シェリーのマスターからお話は伺っていました。私はこの施設の施設長をやっている高山といいます」
笑顔の山から、さらに笑顔で長身の男性が姿を現した。この人がこの施設を作った人なんだ。
「はじめまして、飯沼サキといいます。ちょっとびっくりしました。こんなにたくさんの人達に笑顔であいさつをされるなんて初めてです」
「ははは、そうなんだよ。ここの施設のモットーは、笑顔であいさつをしあおうということなんだ。特に初めて来られる方には、笑顔のシャワーを与えようってみんなで決めたんです」
「みなさんで決めたんですか?」
「そう。もともとここにはそんなルールはなかったんだ。みんなが自主的にそうしようって決めたルールなんだ。何事もみんなで決めていく。私が最初に決めたのは、ここを笑顔あふれる施設にすること。それだけなんですよ」
施設長の高山さんの言葉を聞いて驚いた。みんなでルールを決めるってすごいことだ。私は今まで校則とか上から決められたルールの中でしか生きてこなかった。子どもたちも老人の方々も、いきいきとした笑顔でいられるのは、笑顔あふれる施設にしようという目的があるからなんだ。
「これはね、ここを立ち上げるときにお世話になったコーチングの先生から教わったことなんだけど。人はなんのためにっていう目的がそろっていると、それに向けて行動をしようと思えるんだって。だから、最初からがんじがらめのルールを作るのではなく、ここに来るための条件として、その目的をしっかりと理解して、みんなでその方向に向かうような仕組みをみんなでつくること。これを提示すればいいよって」
「だからみなさん、笑顔で生き生きとしていらっしゃるんですね」
なるほど、なんのためにっていう目的があると、こんなにも効果があるんだ。私もぜひ、そのためにこの施設で働いてみたい。その思いがグンと高まった。
「こんな施設だけど、私たちと一緒に働いてくれるかな?」
「はい、もちろんです。私、こんなところで働いてみたいってそう思っていました。ぜひよろしくおねがいします」
こうして私も自分の目的に向かって走り始めることができた。アルバイトだけでなく、学校の授業も自分の目的のためになると思えば、どんどんやる気が湧いてくる。何事にも一生懸命になれる。
そうして一年が過ぎた。私は二年生になり、新入生も大学に入ってきて慣れてき始めた五月。
「サキさん、誰かアルバイトを一緒にやってくれそうな人はいないかな」
施設長からそんなことを頼まれた。おかげでこの施設では笑顔で過ごせているが、慢性的な人手不足は否めない。
「はい。じゃぁ早速探してみます」
こういう受け答えも笑顔でできるようになった自分がいることに気づいた。それがうれしい。とはいえ、私の友達はみんなアルバイトをしているので、同級生には頼めない。となるとやはり新一年生を勧誘してみるか。
翌日、学校に行く途中に肩を落としてトボトボと歩いている女の子を目にした。このとき、一年前の私の姿が思い出された。ひょっとしたら…
「おはよう。あなた、一年生?」
「あ、はい」
急に声をかけられてびっくりしたその子。ぶしつけではあるけれど、確信に迫った質問をいきなりしてみた。
「元気が無いように見えるけど、ひょっとしたら五月病かな?」
「あ、えぇ…」
ちょっと困ったような表情を浮かべている。よし、ここで笑顔だ。
「私、サキっていうの。実はね、私も一年前はあなたと同じように五月病になってしまって、何をするにもやる気が出なかったの。けれど、あることに気付かされてからとたんにやる気が出てきたわ。おせっかいかも知れないけれど、私と同じだったあなたを放っておけなくて声をかけちゃった」
「あ、ありがとうございます。あることに気付いたって、どういうことなんですか?よかったら教えてください」
ここで頭の中であることを思いついた。
「だったら、私にそのことを気づかせてくれた喫茶店があるの。今日は時間ないかな?」
「授業が終われば時間がありますけど…」
「じゃぁ、そこに行ってみない?きっとあなたも何かに気づくことができるよ」
「ぜひお願いします」
こうして彼女と連絡先を交換しあって、放課後にカフェ・シェリーへと行くことになった。彼女もきっと、なんのために学校に来ているのかがわからなくなっているんだろうな。そのことに気づけば、きっと明るい未来が開けるはず。うまくいけば、ここからのスタッフにもなってもらえるかもしれない。そんな期待をしつつ、スキップで授業に向かう私がいた。
<なんのために 完>




