毒林檎と女郎蜘蛛
「悪い女もいるもんだねぇ、実に災難だよ、あぁ災難」
顔全体を赤く色づかせ、ジョッキに入ったビールを掲げるスーツの男。体中を駆け巡るアルコールのせいで、声の大きさというものを一切考えていない口ぶりだが、四方を喧噪の渦で囲まれたこの大衆居酒屋では、一瞬で淘汰されてしまう実に小さな波だ。彼と相対しているもう一人の若い男は、神妙な面持ちで呑兵衛の饒舌な演説に耳を傾けていた。ジョッキに並々と注がれたウーロンハイは、ほとんど水位を変えていない。
「やっぱ、俺には高嶺の花ってヤツか」
自嘲のニュアンスを八割ほど込め若い男は呟き、
「いいや、ハードルは高い方が良いね。どうせなら越えたいじゃない?ハードル」と快活に呟くスーツの男、相対する二人は実に対称的な心持ちだった。
「毒林檎と白雪姫かな、言うなれば」
たった数デシリットルのウーロンハイは、若い男の脳内に圧倒的クリーンヒットを喰らわせたようで、少々赤らんだ頬も如実にその状況を表していた。
「おぅ、とうとう酒にやられたかい。嫌に詩的なこと言うじゃねえか、いいぞ、もっと言え」
「いやぁね、あの子はね、毒を振りまく悪い女なんです。たいっへん悪い」
段々と手振りも大きくなり、若い男は舌を滑らかにして喋り始めた。
「ねぇ、女郎蜘蛛って知ってますぅ?」
「あぁ、妖怪かなんかだろ?」
「そうなんですよぉ、妖怪。そいつもまた悪い妖怪でね、美しい女性のフリして、男を喰っちまうんです。あぁ、おっかない」
若い男は腕を体に巻き付け、震え上がるような仕草をした。
「何だよ、好きな子を妖怪呼ばわりする度胸がお前にあったかぁ?」
「俺からしたらねぇ、恋ってのはぁ、妖怪ってのより、おっかないわけ」
スーツの男に感化されたように快活に、そして歯切れ良く言葉を繋いでいた。
「へぇ、どんなだい、恋ってのは」
「形が無いんです、そんでもって、心のスキマに入ってくるんです、気付かない内に。タチ悪いのがねぇ?気付いたらもう、終わりなんです」
「ふぅん、終わり、ねぇ」
「気付いたときにはもう、魅入られてるんです。恋に。そして、自らも魅入ってるんです」