泣き虫姫のお伽噺
むかしむかし、ある国にお姫様がおりました。キラキラと輝く金色の髪に、落ち着いた青の瞳。とても美しいお姫様です。けれどそのお姫様には、ある大きな欠点がありました。
それは、泣き虫だということです。
部屋の外に出るだけでもうっすらと涙を浮かべ、ほんの些細なこと……例えば、人と軽くぶつかってしまうだけでも、大声で泣いてしまうお姫様です。
民は皆そんなお姫様を『泣き虫姫』と呼び、親しみを覚えておりました。
しかしその呼び名に、当のお姫様は王族としての責務を果たせない己を不甲斐なく思い、いっそう泣きわめきます。
「わたし、わたし、強くなるわ。強くなって、ぜった、ぜったいに、泣かないようになる」
そう言うお姫様ですが、その直後、外で羽ばたく鳥の羽音に驚き、涙を浮かべてしまいます。そう簡単には克服できなさそうです。
そして、あの夜がやってまいります。
お姫様はパチ、と目を覚ましました。そこは真っ暗な部屋。怖くて仕方がありません。瞳にうっすらと膜を張りながらメイドを呼ぼうと呼び鈴に手をかけたところで、はた、と思い起こします。
(だけど、わたし、強くならなくちゃ)
先日、お姫様は隣国の王子と婚約しました。かの国は魔法の研究が盛んだとのこと。その技術を得るための、政略結婚です。
そうなったら、この国を出ることになります。もう、泣いてばかりはいられません。王女として、この国の看板に泥を塗るわけにはいきませんから。
お姫様はぎゅ、と手を握りこんで、目を瞑ります。怖くない、怖くない……。そう念じながら寝ようとしますが、頭は冴えていくばかり。ぽろ、と目尻から涙が零れ落ちます。
(泣いたら、だめ……)
だけど、一度溢れた涙は止まることを知りません。お姫様は手で顔を覆い隠しました。うう、という声が、静かな部屋に響き渡ります。
そのときのことです。
「どうしたの?」
突然降ってきた声に、いっそう涙を零しながら、お姫様は体を起こします。そこには、お姫様と同じ年くらいの少年がおりました。闇に溶けるような黒色の髪に、同じ色の瞳を持つ少年です。
侵入者。その文字が、お姫様の脳裏に煌めきます。だけど不思議と、少年に対して恐怖は浮かびませんでした。
少年はポロポロと零れ落ちる涙を白い指で掬い取ると、口をゆっくりと動かします。
「ねぇ、どうしたの、お姫様? そんなに婚約が嫌なの?」
「……ちが、うわ」
「だったら、どうして?」
「わたし、いっつもな、泣いてばかり……なの。だから、強く、なら、ならなくちゃ……ううううう」
泣きながら話すお姫様を見て、「ふぅん」と少年は声を出します。聞いているのかいないのか、よく分からない声です。その声にお姫様の不安は募ります。
(鬱陶しいって、思われてる、かな……?)
もし、そう思われていたら……そう思うと、いっそう涙が溢れてきます。視界が滲んで、少年の姿もはっきりとしません。
お姫様の涙に、少年は首を傾げました。
「何で、また泣くの?」
「だって、だってぇ……」
お姫様がしゃっくりを上げながら、自らの不安について語ると、少年は大声で笑い出します。もしかして、わたしの想像が当たってたから笑ってるんじゃ……。そんな気持ちが湧き上がって、また目の奥が熱くなります。
「ああ、もう、そんなに泣かないの。僕のお姫様は泣き虫だなぁ」
「なき、なきむしじゃ、ないわ」
「泣き虫でしょ」
「うううー」
『泣き虫』。その言葉に、お姫様は大粒の涙をポロポロと零します。泣き虫だなんて、不甲斐ない。わたしは王女なのに。そんな思いで、心が痛むからです。
そんなお姫様を見て、少年は笑みを零しました。そしてお姫様の顎をクイ、と上げると、その涙を舌で味わいます。
熱が頬を舐め上げて、思わず固まってしまったお姫様。その直後、ボッと火がついたかのように頬が朱に染まります。
「可愛い」
甘く、優しく、熱の篭った声がお姫様の耳朶を打ちました。その声に、お姫様の胸がきゅん、と締めつけられ、どっと涙が溢れてきます。だけど、どうしてでしょう? 何だかいつもと違う涙のような気がします。それがどうしてなのか分からなくて、お姫様は戸惑いました。
そんなお姫様を見て、少年は囁きます。
「ねぇ、お姫様、僕の前以外では泣かないで。そんな可愛い顔を、僕以外に見せないで」
そうして、少年はお姫様の耳に、軽い口づけを落としました。「ひゃう!」とお姫様の口から変な声が出てしまいます。その声に満足すると、少年はお姫様から離れました。
「約束だよ、お姫様」
少年はクスクスと笑いながら言うと、バルコニーへ行き、そこから飛び降りました。
スッ、とお姫様の心臓が冷えます。慌ててベッドから降り、バルコニーから下を見ました。そこには笑顔で手を振る少年がいて、ほっと胸を撫で下ろします。少年が死んでしまったのでは、と不安だったのです。
安心したためか、力が抜けて、お姫様はへにゃ、とへたり込んでしまいました。そして再び目を下に向けたときには、そこに少年はおりませんでした。どうやら既に去ってしまったようです。
もう、ここにいても仕方がありません。お姫様はふらふらとベッドへ向かい、倒れ込みました。
まだ、熱が冷めません。どこかふわふわとした気持ちで、お姫様は眠りにつきました。
涙を流すことは、ありませんでした。
それからお姫様は泣かなくなりました。怖くても、寂しくても、驚いても、決して涙は流しません。
だって、少年が言ったからです。『僕の前以外では泣かないで』、と。その約束を守りたかったのです。
周りの人々は残念がりましたが、お姫様にとっては少年との約束の方が大切でした。
(そう言えば、あの子は誰なのかしら?)
あの出会いから一週間後の晩、お姫様は考えます。突然現れ、去った少年。彼はいったい誰なのでしょう?
ですけど、不思議なことに、そのことはあまり気になりませんでした。それよりも、
(また、会いたいわ)
会って、話して、慰めて欲しい。そしてできるならば、あの夜と同じように触れて欲しい。
そう思って、カァ、とお姫様の頬が染まります。ドキドキとして、小さく呻き声をあげながら足をバタバタとさせました。何だかふわふわとして、落ち着きません。
「また泣いてるの?」
降ってきた声に、お姫様は勢いよく視線を滑らせます。そこには、彼がおりました。恥ずかしくて、お姫様はそっぽを向きます。
「泣いてなんか、ないわ」
「そう? じゃあ見せて」
そう言って、少年はお姫様に近づき、彼女の両頬に手を添えて自身の方を向かせました。久しぶりに感じる少年の熱に、お姫様の頬は赤くなります。恥ずかしくてたまらなくて、じんわりと涙が滲んできました。
そんなお姫様を見て、少年は破顔します。
「ほら、泣いてる」
「な、泣いてないわ」
「泣いてる」
「泣いてないわ」
「可愛い」
「あう……」
その言葉に、お姫様は耳まで顔を真っ赤にします。嬉しいような、むず痒いような、そんな気持ちです。今すぐ顔を伏せたいのですが、それを少年の手が止めます。
「あの、手を……」
「だーめ」
そう言うと、少年はちゅ、とお姫様の額にキスをしました。お姫様は瞳を潤ませて、「はぅあ……」と声を発します。
すると少年はぱっと手を離し、顔を覆いました。
「やばい、可愛い……」
耳まで真っ赤になりながら、少年は呟くように言います。その言葉に、顔を上気させたお姫様。少年の顔がまともに見れなくて、強引に離れると、バッとシーツを頭から被ります。何だかこそばゆくて、耐えきれなかったのです。
部屋に静寂が満ちます。お姫様が身じろぎする音が、やけに大きく響きました。
……やがて、少年が言葉を発します。
「……今日は、もう帰るね」
その声に、きゅう、とお姫様の胸が痛みます。また、行ってしまう。それは嫌で、そろそろとシーツから顔を覗かせました。
すると、バチッと少年と目が合ってしまいます。お姫様は顔を赤らめて、だけどシーツの中に顔を戻したら少年とのもう会えないような気がして、そのまま彼を見つめます。
そんなお姫様に、少年は微笑みました。
「また一週間後、会いに来るよ」
そう告げて、お姫様の前髪に触れると額をあらわにし、そこに唇を落としました。お姫様はピクピクと震えます。だけど、シーツに隠れたその口は、とても嬉しそうに弧を描いていました。
「じゃあね、僕のお姫様」
「……ええ、待ってるわ」
ぽつり、と呟くと、お姫様はシーツを被ります。その様子に少年は笑みを深めると、部屋から出ました。
そうして、お姫様と少年は逢瀬を重ねました。毎週やって来る少年。彼の存在は、お姫様の中でどんどん、どんどん大きくなっていきます。
やがて、五年の月日が経ちました。
その晩も、少年から青年となった彼は、お姫様の元に現れました。麗しい青年を見て、お姫様の胸は痛みます。
もう、お姫様も子供ではありません。名前も知らない男性を部屋に上げている。そのことがとても罪深いことであると、分かっていました。
だけれども、無理なのです。たとえ婚約者を裏切っていると分かっていても、彼に会いたかったのです。
お姫様は、青年に抱くこの想いが恋だということを、この五年のうちに知りました。だから、彼に会うことがやめられないのです。
「こんばんは、僕のお姫様」
「……ええ、こんばんは」
お姫様は必死に笑みを浮かべます。油断すると、すぐに顔が歪んでしまう気がして、気が抜けません。
そんなお姫様のことを知ってか知らずか、青年は優しくお姫様の前髪をかきあげると、そこに唇を落としました。いつもの挨拶です。それをされるとお姫様はとても幸せな気持ちになって、一時だけ、罪の意識を忘れられます。
お姫様がゆるりと口元を綻ばせている一方、青年の方は浮かない表情をしてました。眉を寄せて、瞳を不安げに揺らしています。
「……どうしたの?」
お姫様が青年の表情に気づき、尋ねます。青年はお姫様の質問に、ぱっと笑顔を浮かべ、「何でもないよ」と言いました。無理に浮かべた笑みです。その笑顔に、黒いもやみたいな感情が、お姫様の心の中に生まれます。お姫様はむっとした表情を浮かべて言いました。
「嘘よ」
「……まぁ、そう、だけど……」
青年の言葉に、お姫様は泣きたくなります。嘘は、つかれたくありません。青年には、お姫様の前でもありのままの姿でいて欲しいのです。
そんなお姫様の思いを感じ取ったのか、青年はお姫様を抱きしめます。
身を包む優しく、温かな熱に、お姫様は頬を紅潮させて俯きます。ドキドキとする心臓の音が聞こえてしまわないか、不安です。だけどそれ以上に、とても幸福でした。
「あのね、お姫様」
青年がお姫様を抱きしめたまま話し出します。
「しばらく来れないんだ。……これから一ヶ月ほど」
「……そう、なの」
青年の言葉に、お姫様は顔を歪めます。だって、お姫様の腰入れはちょうど一月後。つまり、青年ともう会えないのかもしれないのです。さすがに彼も、隣国まで来ることはできないでしょうから。
「……おわかれ、ね」
きっと、もう二度と青年に会うことはないでしょう。そのことに、胸の奥がきゅう、と痛みます。切なくなります。お姫様は悲しくて、はらはらと涙を流しました。
「僕のお姫様、泣かないで」
そう言って、青年はお姫様を抱きしめる腕を強めます。
「また、会えるから。だから、涙はそのときまで我慢してて。約束だよ」
「う、ん……!」
彼の言葉に、お姫様は笑みを繕いました。きっと、咄嗟についた彼の嘘でしょう。果たすことのできない約束でしょう。けれども、不思議と嫌な気持ちにはなりません。だって、それは彼の優しさの証明ですから。
その晩、二人はずっと抱きしめあっておりました。互いの熱を、忘れないために。離れていても、寂しくないために。
そして、お姫様は隣国へ嫁ぎました。ガタガタと揺れる馬車の中、お姫様が思い出すのは青年のことです。
結局、青年と会えないまま、お姫様は国を離れました。だけど、これで良かったのかも知れません。きっと最後に会っていたのなら、青年と離れたくない、という思いが強まってしまうでしょうから。
そしてお姫様を乗せた馬車は、隣国の王宮へ辿り着きます。扉が開かれ、お姫様はゆっくりと馬車から降りました。
パーン、と響き渡る楽器の音。結婚を祝福するかのように、上空で白いハトが花びらを散らしています。
そのどれにも慰められないまま、お姫様は王宮の中へと入ります。国王に謁見をし、それから婚約者との対面です。
国同士の政略結婚。そこに本人たちの気持ちなど必要ないため、相手のことは何も知らないのです。
(なるべく、素敵な人がいいわ……)
そう思いながら、お姫様は歩みを進めます。
そして、謁見の間へと着きます。大きく深呼吸をして、お姫様は中へと入りました。そこにいたのは――
「久しぶり、僕のお姫様」
そう言われると共に、お姫様は抱きしめられます。懐かしい青年の感触。そのことに、疑問を抱くよりも先に、目の奥が熱くなります。嬉しくなります。
「ごめんね、黙ってて。さすがに隣国の王子が入り込んでるってバレたら、大変なことになっちゃうから……」
そう、青年は隣国の王子――お姫様の婚約者だったのです。そのことを悟って、お姫様は泣きそうになりながらも尋ねます。
「じゃあ、じゃあ、これからは、ずっと一緒……なの?」
「うん、そうだよ。ずっと一緒」
その言葉に、お姫様は大粒の涙を零します。嬉しくて、幸せで、仕方ありません。
そんなお姫様の様子に、王子様は「ああ、もう」と言うと、白く細長い指でお姫様の涙を救い取ります。まるで、初めて出会った時と同じように。
「そんなに泣かないの、僕の泣き虫なお姫様」
「なき、なきむしじゃ、ないわ」
「泣き虫でしょ」
「あ、あなたの、前だからよ。――私の王子様」
王子様は目をぱちくりさせて、……破顔しました。とても嬉しそうな、幸せそうな笑顔です。
「じゃあ、――僕だけの泣き虫なお姫様」
その呼び名に、お姫様も微笑みました。
そしてお姫様と王子様は結ばれて、幸せに暮らしましたとさ。
おしまい