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疲れていた。とても疲れていて頭が回らなかった。部屋の鍵を開け、靴を脱ぎ、身繕いをして布団に倒れこんだ、多分。だから次に目を開けたとき全く違う部屋にいてもユカは夢だな、と考えた。
薄暗い部屋でぼんやりとランプが灯っていて、おや、と思った。あんなランプあったっけ、と。そこまで考えて次に自分が横たわっているのが見慣れた布団でなくホテルにあるような大きなベッドであることに気づいた。しかもよく見るとこのベッドにはカーテンのようなものが付いていて、これが天蓋付きベッドって奴か、と感心して眺めた。意識はハッキリしているようでモノを考えることもできる夢、これが明晰夢というものに違いない。西条ユカ、24才、リアリスト。オカルトやファンタジーにはやや疎い人間の発想である。
平凡な人生を歩んできた自分にはとんと縁のない不思議な出来事。せっかくだし楽しんでみるか、とユカは開き直ることにした。どうせ夢だ。起き上がって掛け布をどかし寝台から降りたところで部屋の扉がバタンッと開いた。外は煌々と明るく暗闇になれた目では開けたのが誰なのかわからない。だが人影は一人分だけのようだ。
「ああっ、ダメじゃないですか起き出したら。まだ疲れが取れてないでしょう。ささ、ベッドに戻ってください! 」
響いた声は存外に若く少年のような、はたまた少女のような細く柔らかい調子だった。言われたことには従うか、とユカが寝台に腰掛けると人影がうんうん、と頷いて近づいてきた。
「詳しい話はまた次の時にしますから、今はとりあえず寝てください。いち、に、眠れぇええ よいこよぉぉおおお……」
朗々とした子守歌が聞こえて来たかと思うと頭が突然重くなりユカはベッドに倒れ臥した。まるで泥酔したときのような目眩がする。夢の中で眠るとはどういうこっちゃ、そんなことをぼんやり考えようとするうちにユカは再び眠りに吸い込まれていった。
◇◆◇◆
翌朝、不自然なほど爽快な目覚めが訪れた。いつも寝汚くギリギリまで布団にくるまっていることからする彼女からすると考えられない朝だ。まだ夜明け前なのにこれ以上寝る必要がないほどスッキリとしている。昨日も深夜の帰宅でドロドロに疲れていたはずだがなにか特別なことがあっただろうか。なにか、夢を見たはずだが思い出せない。断片的な記憶も朝の光に散らされてゆく。思い出すのを諦めてユカは出勤の準備に取り掛かった。
……いつもより一時間は家を早く出たのにまだ会社に着いていない。ユカはイライラと時計を見やった。コーヒーショップに寄ってのんびりするという甘い見通しは完全に破壊された。どうもあちこちの駅で急病人が多発しているようで全国乗降者数一位の駅などは遅延が重なり駅から人が溢れそうになっているらしい。携帯で暇つぶしに見たニュースによると突然意識を失って倒れ病院に搬送される人が大量に出て救急車や病院も大わらわになっているそうだ。
「原因不明……誰がなるかもわかってないのか」
電車を降りる前にユカは携帯をカバンへとしまってオフィスへと向かった。
結果からいくと、その日は何もかもがうまくいった。始業に間に合ったことで課長に褒められ、書類の作成ミスもなく、お昼にたまたま見つけたネパールカレー屋は大当たりで、午後の打ち合わせも順調に終わった。あまりにスムーズなので明日やる予定だった業務に手をつける姿を見て、日頃お小言を頂戴する大先輩すら、
「普段から今日みたいだったらいいのにねえ」
と言っただけで済ませる始末。同僚たちも明日は雪が降る、いや槍だなどと失礼な会話を繰り広げている。たしかにユカ自身、自分があまり要領が良くないし仕事ができる方でもないとわかっていたので、たまたまですよと笑ってごまかした。
そんなこんなで昨日よりだいぶ早い時間で会社を辞し、ユカとその同僚たちは居酒屋に向かっていた。飲みの誘いも仕事が終わらず断ってばかりだったのでかなり久しぶりである。てっきり女だけの集まりかと思って気楽にしていると通された席には見知らぬ先客がいた。テーブルの手前側に座ったイケメンにキャッキャと盛り上がる女子勢に事態を悟ったユカは盛り上がる先輩に小声で話しかけた。
「先輩、今日これ合コンじゃないですか。私なんかが突然来てよかったんですか」
「いいのいいの。ちょうど一人足りなかったし、西条ちゃん今日オシャレだったから声かけちゃった。気楽に楽しもうよ」
今日の幸運は今までも継続だったらしい。朝早くに起きて普段よりメイクに時間をかけられたのと顔の隈がなくなったおかげのようだ。合コンなんて滅多にない経験だし楽しもうと思っていた時期がユカにもありました。
手慣れた幹事達の仕切りにより乾杯、連絡先交換、自己紹介、席替えなどが目まぐるしく終わり、あれよあれよと男女が一対一で話す雰囲気になっていた。先輩や同期たちはそれぞれ獲物を見つけて猛アタックをかける時間のようだ。あぶれてしまったユカは北野という男と世間話をしていた。彼も友人に連れてこられたはいいがあんまり乗り気じゃなかったということをこっそり教えてくれた。ひどく失恋したばかりだとかなんとか。
グラスを傾けながらなんてことない話を続けるうちに時は過ぎ、もうお開きにしましょうかと会計を済ませて店を出たところで事件は起きた。男性のうちの一人、確か南郷という人がふらふらと崩れ落ちてうずくまってしまったのだ。飲みすぎてふざけているのかと最初は周りも囃し立てていたが、呼びかけても頬を叩いても反応がないのを見て青ざめ、救急車を呼ぼうとした。しかし……
「なんてこった、例の昏倒事件のせいで救急車が出払ってて付き添いがいるならタクシーで来てくれ、だとよ」
朝ニュースになってたあれか、とユカは思い出した。というか、原因不明で突然倒れるだなんてまさしく合致する症状だ。彼もそうなのだろうか。すると北野さんが声をあげた。
「わかった。南郷は俺と、そうだな……榎木でタクって連れてくからこの場はお前に任せる。ごめんな、最後こんなことになって。今日は楽しかった、また今度埋め合わせさせてください! 」
そう言って北野さんと榎木さんは南郷という倒れた人を二人がかりでなんとか立たせて颯爽とタクシーで去っていった。そのあと締まらないままその場は解散し、ユカも帰路についた。
駅のホームでメッセージが届いたのか、ブブッと携帯が震えた。見ると北野さんからで南郷さんは命に別状はないがまだ気絶したままで家族に連絡済であること、このお詫びはまたの機会にさせてほしいこと、などが綴られていた。ユカは、気にしないでほしい、機会があれば是非、今日はお疲れ様でした、といったようなことをポチポチと打った。
家に着いて時計を見ると遅い時間だった。もちろん明日も仕事なので、ユカは手早く入浴と着替えを済ませて布団に潜り込んだ。
◇◆◇◆
パチっと目が開いた。レースの垂れ幕が見える。天蓋、そう天蓋付きベッド!またもや自分は明晰夢を見ているようだ、とユカは結論付けた。起きているときは思い出せなかったのに今はハッキリとわかる。昨日の晩の夢と同じ部屋のようだ。前は気づかなかったが着ているものも違う。スウェットで寝たはずなのにゆったりした白のパジャマに変わっている。広々とした部屋の調度品を歩き回って眺めているとノックが聞こえた。どうぞ、と声をかけると入ってきたのは銀髪の少年だった。促されるまま部屋の中にあった応接セットに腰かけた。
「こんにちは、あなたと会うのは二回目ですね。僕の名前はノエル。改めて申し上げます、西条ユカ様。ようこそ!夢の世界へ、ここは夢魔の国でございます」
「はあ、どうも」
すごいでしょう!と言わんばかりの美少年のはりきりにユカは気の抜けた返事しか返せなかった。明晰夢はよくできてんな、という感想だった。ノエルは憮然として食い下がった。
「あ、信じられてないですね。いいですか、ここは夢の中です。ここにいる限りあなたの望みはなんでも叶いますし時間も全く経ちません。試しになにか望みを仰ってみてください」
ずらずらと並べられる都合のいい言葉にユカは夢だし、と理解をあきらめた。どうせ夢なら……
「ピッツァビスマルクとアマトリチャーナとミモザがほしい」
言葉を発するや否や、目の前のテーブルに料理が乗った皿と泡立つ液体が入ったグラスが出現した。しかも口には出さなかったはずなのにウォッシュチーズとティラミスまで端の方に用意されていた。
「これは、すごいね……」
現金な女はすっかり懐柔されていた。冷めないうちにどうぞ、と勧められるまま料理を平らげている。
「食べ物を望む人ってなかなかいないですよ……いくら食べても太らないですけど満腹にもなりませんからね」
ノエルは呆れたように言葉を継いだ。
「夢の力についてはわかっていただけたかと思います。なぜあなたをこうして呼んだかというと、僕と契約していただくためです」
ノエルは真剣な表情になって続けた。
「僕たち夢魔という生き物は人間の精気、つまりプラスのエネルギーを食べて生きているんですけれども、人間が出すマイナスのエネルギー、疲労や憂鬱なども吸い取ることができるんです。つまりユカ様を夢の国に呼んで楽しんでもらう代わりにエネルギーを少しいただくというわけです」
「なるほどねえ、カプチーノほしいな」
適当に相槌を打ったユカはデザートと洒落込んでいた。マスカルポーネチーズのことしか考えていない姿にノエルも少し苛立っていた。
「ユカ様、契約の方は……」
「いや、しないよ。怪しいから」
カップを持ちながらキッパリと言い切ったユカにノエルは呆然とした。料理で釣ればすぐかかりそうだったのに意外としぶとい人間である。
「ここにいれば料理食べ放題どころか酒池肉林だってできるんですよ?それでもですか……?」
「話がうますぎて落とし穴があるとしか思えないよ。夢魔の方のメリットが少ないように見えるってことはなんか裏があるんじゃないかな、と。あとカンノーリとエスプレッソください」
あくまでもマイペースに菓子を貪るユカにノエルはとっておきのカードを切ることにした。
「いいですか、ユカ様。この国に呼ばれる人間には特徴があります。人生に絶望し死を考えている者や疲労が積み重なって死ぬ間際の者です。ユカ様、あなたは昨晩非常に危険な状態にあったのですよ」
ボタリ、とフォークからクリームが垂れて皿に染みを作った。ようやくユカに一矢報いたノエルはさらに言葉を紡いだ。
「夢魔という生き物は人間あってのもの、人類が滅亡すれば夢魔もまた滅びます。眠っている人間をこの国に呼んでリフレッシュさせるのは僕らなりのお手入れ、いや治療なのですよ」
ノエルの長口舌にさしものユカも心を動かされたようだった。口も動かしているが。
「じゃあ昨日のアレでわたしの命が救われたってこと? それはありがとう。今日ものすごく幸運だったのもあなた達のおかげってことなの? 」
「その幸運はユカ様自身が招いたものです。早起きしたために身支度に時間をかけ、始業に間に合い、合コンに誘われた。疲労が取れて本来の能力が発揮できるようになり仕事が捗り皆様に褒められたわけです。ユカ様はやればできるお方なのです。僕はただそのお手伝いをさせていただくだけです」
ノエルは言葉を切ってユカをじっと見つめた。紫色の瞳がキラッと光って吸い込まれそうな気持ちになる、と同時にユカはなんだか小さなことでこだわっていたのがどうでもよくなってきた。ノエルは盛大にもてなしてくれるし彼を信じてもいいのではないか。徐々に頭がぼーっとしてきたユカは、契約なさいますね?という言葉に、肯定の返事をしたのだった。




