寄り道紀行 その3
私の寄り道はまだ続いている。といっても、脇道に入ってから実質歩いた時間は十数分程度。距離的にも時間的にも全然たいしたことない。と言いたいところだけど、経過時間は三十分を軽く超えて、五十分くらい、かな……。あまり遅くなると、きっとお母さんが心配するだろうから、そろそろ真っ直ぐ家に向かって歩いた方が良さそうだ。
そう思いながら、私はほっかほかのコロッケパンをさっそく食べることにした。
いま私の右手には鞄とスポーツバッグが、左手にはパンの入った袋がある。つまり両手が塞がっているということ。となれば、鞄とスポーツバッグをどうにかして、右手を使えるようにする必要がある。そこで最初に思いついたのが、二つを胸の前でぎゅっと抑えつけて、その間に袋から取り出してしまおうという作戦。でも、いざやってみると思ったより簡単にいかない。しかも、そんな自分の姿が、耳を掻こうと太った体を必死にねじ曲げ、足をうんと伸ばしていたさっきの猫さんの姿と重なってしまい、首から上を真っ赤にして止めてしまった。
ちなみに、無様な自分の姿が見られていないか、直後に怖々と周囲を確認し、誰もいないことにほっと安堵のため息をついていた。もしも誰かいたら、全速力でこの場から逃げていただろう。更にその誰かと目があったりしたら、恥ずかしさのあまり悲鳴も追加されていたかもしれない。それほど、猫さんのあの姿にはインパクトがあったわけだ。
こうして最初の作戦が失敗に終わり、このまま食べずに家に帰ろうかとも思ったけど、まだ方法はあると気を取り直す。
深く考えずとも、要は見苦しくない取り出し方をすればいいだけの話。そしてその方法は実に単純で簡単。ということで、道路の端に寄り、立ち止まって鞄とスポーツバッグを地面に置く。これで万事解決……、なのだけど。
最初っからこうしていれば……。
と思うと、自分の頭の悪さにカラ笑いしてしまいそうになった。だけどそこで、なぜかお父さんの情け容赦ない冷ややかな突っ込みが頭の中で聞こえたような気がしたので、笑ったら負けだと慌てて顔を引き締める。そしてそんなお父さんに言ってやった。
歩きながら食べるのを前提にしてたんだから、仕方ないでしょ。それに、女の子の食べ物への執念はそう簡単なものじゃないのだ。と心の中で高笑いしながら。あ、なんかまた馬鹿にされた気が。むう、お父さんには買ってあげないんだから。
ということで問題はクリアとなり、あとはほくほくのパンを美味しく頂くだけ。
袋からパンを半分だけだし、顔の前に掲げる。そして小さく一口、まずはパンだけかじりとる。量が少なかったので、焼きたての温かさを存分に味わうことは出来なかったけど、ふっくらしたパン生地の食感、そしてほんのり甘い味は十分に味わうことができた。その感想は、満点を通り越すおいしさ。
これだけでこんなに美味しいと、あのパン屋さんの食パンも食べてみたくなる。当然、マーガリンとかジャムとか謎のジャムとか一切塗らずに。よし、次は食パンも買おう。
口の中のパンはあっという間になくなり、いよいよ本番。
私はパンとコロッケをがぶりと頬張ろうと、口を大きく開けた。
――がしかし、見知らぬおじさんが乗った自転車が、タイミング良くこちらにやって来た。しかも、目が合ってしまったような気がした。
うわー……。
そんな脱力感のある悲鳴が、心の中で上がる。
おじさんはこちらをじっと見たり笑ったりすることなく、何事もなかったように私の前を通り過ぎていったけど、みっともないところを見られてしまったと思うと、ちょっとショック。
こんなところをお母さんに見られたら、間違いなく「お行儀の悪いことするからですよ」と怒られる。お父さんだったら、「気にすることか?」と不思議そうな顔を向けてくるだろう。私のお父さんは、周りの人にどう見られるかという点について、かなりいい加減なところがあるから。そういったいい加減さに、娘ながらに、親としてそれはどうなんだろうと真剣に悩んでしまうことがある。
それはさておき、このままショックで食べられなくなるような私じゃない。岡崎朋也の娘であり、古河秋生の孫娘が、こんなことでしょげてどうする。
私は即座に立ち直り、再び大口を開けようとする。さすがに周囲の確認はしてだけど。
そして、がぶりと一口。
最初の一口と違って、ほくほくのコロッケの熱さが舌の上で踊り、口を開けたままハフハフと口内に空気を送り込む。火傷しそうな熱さではなかったけど、数回やらないと食べ始められなかったのは、頬張りすぎた証拠だろうか。
まあでも、味を堪能するにはそれなりの量が必要だから。
そうしてゆっくりと味わい始める。
お、美味しすぎる……。
料理番組のコメンテーターじゃないから、この味がどうでここがどうとか説明できないけど、これだけは言える。
もしこれが漫画だったら、今頃わたしは人でなくなってしまったり、ロケットみたいに空高く打ち上がってしまったり、私の後ろでとんでもない事が起こったりしていただろう。
とにかく、それぐらい美味しいということ。あっきーのパンも美味しいけど……、あっきー、これはかなりの強敵だよ?
二口目がきれいに胃の中に消えると、にこにこ顔で三口目にとりかかる。でもその前に、鞄とスポーツバッグを右手に持ち、ゆっくりと歩き出す。まさかこんなところに突っ立って食べ続けるわけにもいかないから。しかも、にへらと笑みを漏らしながら。
だからといって歩きながら食べるというのも、お行儀の悪い行為であることに違いはない。しかも、もうすぐ晩ご飯が控えている。だけどおばあちゃんに「温かいうちに食べてね」って言われてるし、部活でお腹ペコペコだし、これ以上は食べないで我慢してなさいって言われても、それは無理。そんなことしたら、私の胃袋さんが大激怒だよ。
というわけで、私は多少周囲を気にしつつ、コロッケパンをぺろりと平らげた。
「ん~、満足満足」
パンの入っていた袋を右手に持ち替え、スカートのポケットから取り出したハンカチで口元を拭き、お食事は終了。短かった至福の時間も同じく終了。それがちょっと残念で、もう一つ買っておけば良かったと思ったけど、そんなことしたら、確実にこの場で二個目に突入して、晩ご飯のための空きスペースがなくなってしまい、買い食いしたことがお母さんにバレてしまう。
やっぱり一つだけで正解だったかな、と納得したところで、聞き慣れた音がどこからか聞こえてきた。その音のする方へと意図的に歩いたわけじゃなく、たまたま帰る方向がそちらだったからだけど、音は徐々に大きくなり、やがて小さな公園の前に出て、音の正体を目にした。
そこには、コンクリートの壁に向かって軟式のボールを投げている一人の男の子がいた。その子の身長と、手足の細いから、たぶん小学生だと思う。
野球をする子供の姿は、物心ついたときから見てきた。それに混じって私もボールを投げたりバットを振ったりしていたし、お父さんやあっきーとキャッチボールもした。お父さんは野球にあんまり詳しくないけど、あっきーがすごく詳しいから、色々と教えてもらったりもした。特に、昔のプロ野球選手のモノマネを。
公園で野球する子供たちや、その中で大人げなくはしゃぐあっきーと、大人げのあるお父さん。私。ビニールシートの上で観戦するお母さんに早苗さん。いつだって、いくつもの笑顔がそこある。
だからだろうか、一人で練習する男の子の姿にちょっと寂しさを感じ、声をかけようかと思った。でも、余計なお世話ということもあるし、邪魔をすることになるかもしれない。そう迷っていると、まるでそれを察したかのように男の子が暴投し、跳ね返ったボールがこちらへと転がってきた。
私は少しばかり移動してそれを拾い上げ、ボールを取りに来た男の子に「いくよー」と軽く投げ返す。その距離はだいたいダイヤモンドの一辺といったところ。言い換えると、例えば一・二塁間とか。ただしソフトボールのだけど。
すると、男の子はノーバウンドで投げ返されたボールを驚いた顔でキャッチし、私をじっと見つめた。なんで驚いているのかなんて考えるまでもない。私は、白々しく「ん? どうかしたの?」とにこりと笑顔を見せる。
「べ、べつに……。あんまりヘロヘロボールだったから……」
男の子はそう答えたけど、可笑しいほど悔しさがにじみ出ていた。きっと、女のくせにとか思っているに違いない。私が小学生の頃に、まったく同じ台詞を言った男の子が何人もいたから。まあ気持ちは分からないでもないけどね。
だから本気にして怒るような真似はしない。そのかわり、冗談でにこやかにこう言ってあげた。
「ごめんね。速い球は捕れないと思ったから」
案の定、男の子は「なんだとお!」と怒った。
「嘘つくんじゃねえよ。どうせ今のが全力なんだろ?」
「じゃあ試してみる?」
「やれるもんならやってみろ」
おお。これは良い展開かも。
「じゃあちょっと待ってて」そう言って、ルンルン気分でスポーツバッグからグラブを取り出す。その光景に、またしても驚く男の子。
「はい。オーケー。っとその前に、私の名前は、岡崎汐。きみは?」
「駒田正一」
「コマダって……、満塁男の? まさか、君のお父さんって」
「なわけないじゃん」
男の子が呆れ顔で即答。もうずっと昔のプロ野球選手を女の子ながらにたくさん知ってる私も私だけど、即答したこの子も相当なものだ。しかも、「下の名前が正一なんて、すごいね。将来は大投手だね」って言ったら、「金田よりも村田兆治の方が好き」と、これまた小学生とは思えない返答をしてきた。っていうかその若さでシブ過ぎるぞ正一くん。
などとお喋りをしながらキャッチボールを始めた。
正一くんのボールは、なかなかに速かった。だけどコントロールにまだ難あり。そして私のボールを受ける正一くんは、最初こそ「こんなもんかよ」と軽口を叩いていた。相手の力量がまったく分からない以上、急にスピードをアップさせるわけにはいかない。
だけど、これぐらいは大丈夫かな? と一球投げるたびにスピードを上げていくと、次第に余裕がなくなっていくのが見て取れたし、正一くんの軽口は確実に減っていった。そして適当なところでスピードを落とす。
「どう? お姉ちゃん、けっこう上手いでしょ」
「ふん。まあまあだな」
このぐらいの年頃の男の子はたいてい、敵わない女の子に対して負けを認めようとはしない。それは仕方のないことだろうし、負けを認めさせるつもりなんて毛頭ない。私はただ、この子とキャッチボールがしたかっただけだから。
「そっか。まあまあか」
「まあまあだ」
「じゃあ、もっと練習しないとね」
「そうだぞ」まるで先輩風を吹かせるような口ぶりだけど、正一くんの表情はとても楽しそう。つられて、私もさらに楽しくなっていった。
そうして、しばらくキャッチボールをしていると、男の人の「正一」という呼びかけの声が、私の背後から聞こえてきた。すると、正一くんは私の後ろに向かって嬉しそうに「お父さん!」と声を上げたので、私は後ろを向いた。
そこには二人の大人がいた。一人は正一くんのお父さん。そしてもう一人が――。
「あ、智ぴょん!」
スーツ姿の智ぴょん、本名、倉橋智代さんだった。
ん? あれ? 智ぴょん急に顔が赤くなった。それに、正一くんのお父さんが目を丸くして驚いてる。なんで? あ、お父さん笑った。
「汐ちゃんっ! その呼び方は外では止めてくれと!」
忘れてた。智ぴょんは、この呼び方に限ってはとっても恥ずかしがり屋さんだったんだ。