引っ越しの日 その3
一時はどうなることかと心配したけど、どうにか引っ越し作業は再開することができた。
ちなみに、お父さんはお母さんの必死の励ましで復活。
陽平おじちゃんは、杏先生の超高速往復ビンタで復活。ただし、途中で口から煙みたいなもの出してたけど。
猫田さんは、復活したお父さんが本当に辛そうな顔で「もう、俺たちにはこの手しか残されていないんだ……。すまない……」と言って、猫田さんの口に早苗さんの新作パンを押し込んで復活。言動がちょっとおかしくなったような気もするけど、この際ぜいたくは言わないでおこう。
あっきーと早苗さんは、猫田さんが復活したすぐあとぐらいに戻ってきた。あっきーは、ずっと走り続けていたらしくて、大汗かいて息も切れ切れ。だけど早苗さんは、ひとしずくの汗もかいていなければ、息もまったく乱れていない。う~ん、深く考えちゃいけないんだろうなあ。
とにもかくにも、やっと引っ越し作業が再開されることになって、お父さんとあっきー、杏先生、陽平おじちゃん、猫田さん、それと私とで荷物を次々と運び込んでいった。お母さんと早苗さんは置き場所の指示係とか色々。
そして一時間半後。軽トラックの荷台が空っぽになったところで一段落ついて、少し遅い昼食となった。メニューは、お母さんと早苗さんが今朝握ってくれていたおにぎりに、唐揚げ、卵焼き、サラダ、お漬け物。
総勢八人となる私たちは、わいわいと喋りながら頬張り、たくさんあったおにぎりは、あっという間にみんなのお腹の中に消えていった。もちろん、その他のものも。
そして食後の休憩。
「しっかし、あんたたちも随分と出世したものねえ。一軒屋住まいだなんて」と杏先生。
「借家だけどな」
「それでも、大出世に変わりないでしょ」
そう。新しい我が家は、なんとなんと一軒屋。築二十五年の平屋で、間取りは3K。六畳の和室が二つに、四畳半の和室が一つ、台所、あと水回り一式に、ささやかなお庭。引っ越し先がこんな広い家だと聞かされたとき、てっきり六畳二間のアパートとかに引っ越すものだと思っていたから、冗談言わないでよと笑って、完全に信じるまでにはちょっと時間がかかった。
だって一軒屋だよ? それに、アパートと違ってお家賃がけっこう高いだろうし。うち貧乏ってわけじゃないけど、そんなに余裕はないはずだから、そう簡単に信じられるはずないよね。だもんだから、家賃は先方の好意で格安にしてくれたと説明されようが、見学目的で実際にこの家に足を運ぶまでは、お父さんには悪いけど半分疑ったままだった。
この家のお気に入りは色々あるけど、まずはお風呂が広いこと。湯船は二人入れるだけの広さがあり、洗い場も、子供同士なら余裕で洗いっこが出来るほど。今晩、さっそくお母さんと入ろう。
そして、これが一番のお気に入り。部屋の間仕切りになっている襖を取っ払えば見事な広間に変身する、二間続きの六畳の和室。わりと来客のある岡崎家の娘としてもそうだけど、十二畳間で三人のんびり悠々と、っていうのが魅力的。そして、今まさに広間となっている部屋で昼食を取っている。
この家と土地は、もともとはお父さんの会社の先輩のお知り合いのもの。二十年近く前に息子さんが転勤で家を出て、それからずっと、房子おばあちゃん一人で暮らしてた。そしたら二ヶ月ぐらい前、おばあちゃんの面倒を見たいって息子さんが言ってきて。
おばあちゃん、けっこう悩んだらしいんだけど、結局引っ越すことにして、それじゃあ土地と建物はどうしようかってなったとき、おばあちゃん的には壊したくなくて、この家を大切に使ってくれる人がいたら、その人に使って欲しいって探してたらしい。それで、いい引っ越し先があったらって前から話してたお父さんに白羽の矢が立ったってわけ。
房子おばあちゃんはとっても優しくて、私はこの町の昔の話を聞いたり、お母さんはお料理を教えてもらっていた。なんだか史乃おばあちゃんみたいな人だった。昨日、息子さんと越して行っちゃったんだけど、もっと前から知り合えていたら、もっともっと色んな話を聞けたのにと、今さらだけど残念で仕方がない。
「それにしても、汐ちゃん良かったわね」
突然、杏先生がにこにこしながら話し掛けてきた。たぶん、この家のことだと思って「はい」と答えようとしたんだけど、その前に先生が、すごいことを言った。
「もうお父さんに着替えを覗かれることなくなるから」
次の瞬間、お父さんとあっきーが、ちょうど飲んでいたお茶を思いっ切り吹き出した。
気持ちは分かるけど、二人とも汚いよ。
ついでに言うと、陽平おじちゃんはお父さんに指さして「おかっ、おかっ、おかっ」と繰り返すばっかりで、猫田さんは目を開いて固まり、早苗さんは「あらあら」と頬に手を当てて笑っている。
そしてお母さん。
「きょ、杏ちゃんっ!」
「あ、ごめんごめん。渚も覗かれて――」
「杏ーっ! お前なあっ! 娘の前で変な言い掛かりしてんじゃねーっ!」
お父さん、ちゃんと口拭いた方がいいよ。
「小僧~っ、俺の大事な娘と孫娘に、なんてことしやがんだあ?」
あっきーも。それじゃあどんなに凄んでも、まったく迫力ないし。
「おっさんはすっこんでろ! 話がややこしくなるだろっ!」
「おかっ! 岡崎ーっ! テメーなんて羨ましいコト――」
あ、陽平おじちゃんの顔にお父さんの拳が、お腹にあっきーが投げたキャッチャーマスクが、背中に杏先生の肘が入った。こういうときだけは、三人の息がぴったり合うんだよね。不思議だなあ。ところで、なんでキャッチャーマスクがここに? あっきー、引っ越しの手伝いで来てくれたんだよね……。
これでまた作業が大幅に遅れるのかなと思ったけど、それから三十分ほど経ったころ、早苗さんの誰にも有無を言わせない号令で、作業が再開された。さすが早苗さん。
男の人は、手分けしてタンスの位置を微調整したり、テレビを繋げたり、洗濯機を使えるようにしたり、布団を押し入れにしまったり。女性陣は、段ボールから食器や洗剤、調味料などを取り出し、それぞれの場所に適当に並べていった。
あそうそう。房子おばあちゃんから、食器棚と洋箪笥、着物を数着、他にもいくつか貰っていたりする。それらは、息子夫婦の家には持って行けず、もらい手も今のところなく、このままだと処分することになるから、出来れば使って欲しいとお願いされたもの。
おばあちゃんがそれらを大事に使っていたことは、私だって一目見て分かる。それがゴミとなってしまうなんて、許せるはずない。お母さんもお父さんも同じ気持ちだったみたいで、大切に使わせて頂きますと言って譲り受けた。
昼食後の作業は思いのほか時間がかかったけど、二時間ほどで終わった。といっても、それで引っ越し作業の全てが終わったわけじゃなく、今日と明日過ごすのに必要最低限な片付けをしたに過ぎない。残りは明日以降。
まあ、あとは私とお母さんでどうにかなるでしょう。明日は月曜日だけど学校の創立記念日で休みだから、私も丸一日荷物整理できるし、早苗さんも手伝ってくれるっていうし。
ということで、本日の作業はこれにて終了となり、ささやかな祝杯をあげることになった。のだけど。
「パパ、お寿司でもとりましょうか」
「二時間前におにぎり食ったばっかだからなあ。そんなに体力使ってないし、晩飯の時間にはまだ遠いし。ビールとちょっとしたつまみになるヤツだけでいいんじゃないか?」
「でも、それじゃ失礼じゃないですか?」
「ん~、そうだなあ。とりあえず――」
お父さんはそこでいったん言葉を切ると、陽平おじちゃんを呼んだ。
「春原」
「なんだ?」
「お前、車返してきてくれないか? そのまま戻ってこなくていいから」
「ちょっとあなた! それだとボク寂しすぎませんかねえ!」
「俺は寂しくない」
「ボクだボクっ!」
「お前は――」
突然お父さんがすっごい真剣な顔をして、陽平おじちゃんの両肩にずしりと手を置いた。
「疲れた俺たちに、酒も飲まずに車を返してこいとでも言うのか?」
「……ボクは疲れてないとでも言いたいのか」
「そうか。お前はそんなに、俺たちのために車を返しに行きたいのか」
「誰もンなこと言ってないでしょ!」
「ということで渚。春原の分はいらないそうだ」
「人の話を聞けよっ!」
テレビで下手なお笑い芸人見てるより、よっぽど面白いなあ。
「パパ、それでは春原さんが可哀想です」
「なに言ってんだ。春原はこんなに喜んでんだぞ?」
「ボクのどこをどう見ればそう見えるんだよっ!」
とここで、またお父さんがシリアスモードを発動。
「春原、お前は、感じないのか……?」
「な、なにをだ……?」陽平おじちゃんも神妙な顔になって、ごくりと唾を飲んだ。
「お前が――」
「ボクが……?」
「どうぞ私をコキ使ってくださいオーラを纏っていることを」
「そうか……、ボクは、そんなすごいオーラを……、ってなんだよそれっ! 嬉しくないよそんなオーラっ!」
というコントがこのまましばらく続くと思っていたら、杏先生の強制終了で幕が下ろされて、そのままお父さんと陽平おじちゃんと猫田さんで車を返しに行った。なお、猫田さんはこのあと用事があるということで、そのまま帰宅することになったんだけど、その用事っていうのが驚きだった。なんと、カノジョとデート。そうと知りながら陽平おじちゃんが強引に連れてきたらしい。
そんな大事な日に引っ越しを手伝わせてしまってと、お母さんは何度も頭を下げ、お父さんもさすがに「そんな大切な日に、すみませんでした」と謝っていた。私はというと、いつの間にか猫田さんの言動が元に戻っていたことに、ちょっとほっとしてた。
元に戻らないままデートして、もしもそれが原因で別れることにでもなったら、なんか責任感じてしまうから。それにしても猫田さん。今日初めて会ったけど、あまりにも第一印象どおりで、一生あんな感じなんだろうなあと想像したら、ちょっと可哀想に思えた。
お父さんたちが出発すると、お母さんが電話でお寿司を注文して、私と杏先生で飲み物などを買いに出た。
その道すがら。事前にもらった地図を頼りに歩いていると、誰に言うともなく、呆れた様子で杏先生が言った。
「しっかし、朋也も陽平も、ほんっと進歩ないわよねえ」
「そうなの?」
「そう。高校のときからずっとあんな感じ。二人で馬鹿言い続けて。誰かが止めてやンないと、いつまでも続けかねないぐらいの勢いでね。まったく、あいつら何年成長止まってんだって」
「ふうん……。でもそれ言ったら、杏先生も同じってお母さん言ってたよ?」
「……」
「杏先生?」
「汐ちゃん? 今言ったこと、ホント? 渚が私のこと、成長止まってるって言ったって」
先生、声と顔は笑ってるけど、こめかみが笑ってない。
「そうは言ってないけど。昔とちっとも変わらないって」
「ふーん……」
今度は微妙な顔になって、なんか考えている。ひょっとしなくても、私の言いたかったことが伝わってないっぽい。
「先生」私は前に向き直って言った。今から喋る内容が、ちょっとだけ気恥ずかしいから。まあそれ以前に、余所見して歩いたせいで転びでもしたら、間抜けもいいところだから。
「この前、お父さんが言ってたんです。『人も町も、変わらずにはいられない。それが、生きるっていうことだから』って。
私にはよく分かんないけど、それってつまり、何もかも同じままじゃないってことですよね。人との繋がりとか、関係とかも」
中学二年になって一月半。小中と同じ学校で、中学では同じソフトボール部の、とても仲の良い友達がいた。でも、二年生になって、その子は部活を辞めた。高校受験のためらしい。
最初は、随分と気が早いね、なんて言ったりして笑い合った。でも、クラスが別々なうえに、その子が部活を辞めてしまえば、長い時間を共有することは難しくなる。私は部活中心、向こうは受験勉強中心の学校生活を過ごしているのだから。
そして、時間とともに顔を合わせる機会が減り、お喋りする機会も減り、その子が私の知らない子と笑いながら勉強の話をしているところを見たとき、なんだかその子が、ずっと遠くへ行ってしまったような気がした。このまま終わってしまうような気がした。
変わらずにはいられない――。
きっと私も変わり続けて、友達も変わり続ける。これから出会う人たちも変わり続ける。ずっと仲良しのままでいたいと思っても、なかなかそうはさせてくれないだろう。
「――だから、今でも同じままでいられるみなさんが、ホントに羨ましいです。私もそういう友達が作れたらいいなって、思ってます」
私の言いたいこと伝わったかなと思って、杏先生を見る。先生は、なんだか照れくさそうに笑顔を浮かべていた。
「そうね。昔と同じように馬鹿し合えてるって、けっこう貴重なことなのかもね」