引っ越しの日 その2
引っ越しの話をしたその翌日の朝は、お母さんもお父さんも、そして私も、いつもとまったく変わらなかった。まるで昨日の夜のことが夢だったみたいに。
でも学校では、いつもどおりとはいかなかった。授業の内容などまったく頭に入ってこなかったし、体育の授業では失敗だらけで、先生や友達に何かあったのかと心配されたほど。その度に引っ越しの話をして、先生たちは「気持ちは分からないでもないが、現実問題として――」と言い、友人は皆「何でそんなに嫌がるわけ?」と小首を傾げていた。
本当の理由を話すのはちょっと恥ずかしいから、そんな人たちには「愛着が湧いちゃってね」とだけ答えていたのだけど、こういった会話の中で、自分が『引っ越し先がわりと近くて、転校する必要がない』という情報以外なにも知らないことを知った。
これにはさすがに「それじゃ駄々こねるガキんちょと変わんないじゃん」と怒られたり呆れられたりした。
ぶう。そこまで言わなくたっていいじゃないよお。
と、放課後になるまでの間に、気分的にだんだん面白くなくなってきていたので、その憂さ晴らしをすべく、部活で思いっ切り気を吐いた。その甲斐あって、家に帰る頃には気分もすっきりしていた。
帰宅した私は、早々に荷物を放り投げて、バタバタとお風呂に入る支度をする。
「しおちゃん、お行儀が悪いわよ」
「だって、いつもより二割り増しで大汗かいてきたんだもん。今すぐお風呂に入んなきゃ死んじゃうよ」
「そんなわけないでしょ」
「あるの!」
そう言って、問答無用でお風呂に突入。風呂場の戸を閉める際、お母さんの呆れるような「もうっ」っていう声が聞こえたけど、ちょっと笑ってたっぽいから問題なし。気分良く、お風呂で念入りに体と髪を洗い、温めの湯船にゆっくり浸かった。
お風呂から出た私は、バスタオルで髪をワシワシと拭きながら洗面所に向かい、ドライヤーで濡れた髪を乾かし始める。その間に、お父さんが「ただいま」と帰ってきた。ドライヤーの音が邪魔して、いつもの足音が聞こえなかったのがちょっと残念。
お父さんはすぐにお風呂に入り、カラスの行水の如き早さで出てきた。おかげで「いつまでやってんだ」と、乾かした髪をブラッシングしてる後ろから言われてしまった。
「女の子は時間がかかるものなの」
「程度ってものがあるだろ」
そう言って、私の横に割り込んでドライヤーを使い始めた。
「それ言うんだったら、お父さんの方こそお風呂出るの早すぎるのよ。ちゃんと体とか洗ってきたの?」
「いいや」
「え……、ホントに……?」
思わず、反射的にお父さんから離れてしまった。
「嘘に決まってるだろ」
「……」
「いつまでそうしてるつもりだ?」
「お父さんのドライヤーが終わるまで」
「なら、念入りに乾かすとするか」
「お母さあん! お父さんが意地悪するぅ!」
こうしたささいな戯れもまた、私にとって日々の大切な時間であり、思い出の一つとなっていく時間だ。
そしてこの日の夕食の後片づけ後、今回はお父さんからではなく、私から引っ越しの話を切り出した。ちょっと躊躇い気味に。
「お父さん、昨日の話なんだけどね」
「引っ越しのか?」
「うん。それでね……、えっと……」
言い出したはいいけど、やっぱりこんな訊き方していいのだろうかと二の足を踏んでしまう。お父さんもお母さんも怒りはしないとは思うけど……。
「汐」
「う……ん」
促すようなお父さんの優しい声に、私は覚悟を決める。
「あの……、もしも、もしも……ね、私が生まれてなかったら、お父さんもお母さんも、ずっとこの家で暮らすつもりだったのかな……、って……」
どうにか言えた。でも、娘に『私が生まれてなかったら』なんて言われたお父さんとお母さんは……。
と思っていたら、お父さんが即答してきた。それはもう、お前なに言ってんの? と言わんばかりに。
「は? 何を言うかと思ったら……。んなわけないだろ」
この反応は予想してなかった。ちょっと驚いてお母さんの反応を確かめると、笑顔でこちらを見ていた。ただしそれは、呆れたり馬鹿にしたりしたものじゃない。
「お前な、このアパート、築何年だと思ってんだ」
え? そ、そういう話?
「俺とお母さんがくたばるずっと前に、このアパートがくたばるに決まってるだろうが」
そういう話じゃないのよお!
「ていうか、お前が成人する頃には建て替えるんじゃないのか? それなりにガタが来てるし、修繕するにもけっこうな金かかるだろうし。ならいっそのことって。そうなれば、この部屋だってきれいさっぱり無くなる」
「じゃ、じゃあ! 百年後もこのアパートがそのまま残ったとして!」
「さあな。つか、まだそんなこと言ってるのか? 俺もお母さんも、いつかはこの家とお別れすることぐらい分かっていたし、そのつもりでいた。だから、俺たちのことは気にするな。それよりも、一番大切なのは汐自身の気持ちだろ」
「私は……! それはやっぱり、寂しいけど、お父さんたちは本当にいいの?」
「だからそう言ってるだろ」
そうは言われても、やっぱり納得できない。そしたらお父さんが、ふうと一息ついて、ゆっくり話し始めた。
「汐。俺が昔、この町が嫌いだったって話、したよな。
ガキの頃からずっと、何の代わり映えもない、退屈な町だと思ってた。高校卒業したら、とっととこんな町から出ちまおうって思ってた。
でも、俺は渚と出会って、色んなヤツらと出会って、いつの間にか、この町が好きになってた。この町で暮らしていきたいって思うようになった。
そしたら急に、町の風景が変わっていくことが許せなくなった。ついこの前まで当たり前にあったものがなくなったり、取り壊されて別のものが建ったり。特に、旧校舎が取り壊されて、俺と渚にとって、いや、俺たち演劇部の連中にとってたくさん思い出のあった部室がなくなるって知ったとき、本当に頭に来た。
なんだか、俺や渚や、他のヤツらの大切な思い出が、理不尽に根こそぎ奪われてくみたいに思えてな。そんなこの町が、また嫌いになったこともあった。
でもな――」
お父さんはそう言って目を閉じた。
「部室も、学校も、他のいろんなものも、今も俺の目の前にあるんだ。形はなくなってしまったけど、俺の中にはちゃんと残っている。その風景も、においも、声も……」
「私も、あのときの思い出ははっきり覚えてます。まるで、昨日のことみたいに」
そして目を開けたお父さんが、お母さんと見つめ合った。
「この家もそうさ。俺たちは絶対に忘れない。忘れない限り、この家はずっと俺たちの中に存在し続ける」
そこ。二人で思い出に浸るのはいいけど、娘を無視しない。と思ったら二人揃ってこっちを見た。なんか、娘ながら恥ずかしく感じてしまう。
お父さんのお話は分かったような分からないような。だけど、とにかくこれだけは言える。お父さんもお母さんも、ずっと前から心の整理が出来ていた。もう私には何も言えない。あとは私だけだ……。
形あるものは、いつか必ずその姿を失う。それを拒絶するのではなく、その事実を受け入れて、新しい明日を迎え入れる。そして姿を失った過去は、消滅してしまうのではなく、人や町が記憶して、その中で生き続けていく。
これはお父さんの言葉。
そうだね。いつかはやってくるお別れ。やっぱり寂しいことではあるけど、このお家は私の心の中から消えることはない。いつだって私の中にある。だからこの別れを拒むのではなく、お母さんとお父さんにありがとうって言うべきだ。
そう素直に思えるようになった翌日の朝、私は引っ越しに同意して、二人にありがとうって言った。
ということで、その翌々週の週末の今日、引っ越しすることになったのです。
って、こうして実際に話すと、けっこう恥ずかしいもんだね……。私、猛烈に格好悪いし……。
おっと。どうやら到着したみたい。
以上、説明終わりっ!
車から降りた私は、荷物運びの手伝いをするべく荷台へと向かう。お母さんは家の中に。
「陽平おじちゃんに猫田さん、着いたよ」
荷台に座っている二人に声をかける。だけど反応なし。ひょっとして、二人ともさっきのダメージがまだ残ってる? とりあえず、陽平おじちゃんにトドメ刺したの、お母さんだからね?
それはさておいて、こういう状態の陽平おじちゃんの対処法は、何度も目の前で見てきたので知っている。実践したことはないけど。ということで、声を大にして初体験っ!
「あっ! あんなトコに、すごい美人さんの大集団がっ!」
「えっ!? どこどこっ! 僕を待ってるお姉さん集団はどこっ!」
体育座りでしくしく泣いていた陽平おじちゃんが目にも止まらぬ早さで立ち上がり、荷台の上から周囲を見回し始めた。
よし。次は猫田さんだけど……。
と腕を組んだら、一足遅れて車から降りたお父さんが、慌てた様子で「汐っ!」と言ってきた。
「なに?」
「なにじゃない! 女の子が大声でそんな台詞を――、っていつまでもうるせえんだよお前はっ!」
お父さんが言葉途中に荷台からなにやら掴み取ると、陽平おじちゃんに向かって思いっ切り投げつけた。それは見事なまでにおじちゃんの側頭部に命中し、そのまま崩れるように荷台に倒れた。なんか当たり所が微妙だったけど、陽平おじちゃんならきっと平気だ。痙攣してるけど大丈夫。うん。
「女の子があんなこと言うもんじゃないっ! しかも大声でっ!」
え? なんで私が怒られるのよ。むうっ! と思って言い返そうとしたら、お父さんの頭からごつっていう鈍い音がした。続いて、頭を抱えるお父さんの足元で軟式のボールがコロコロと転がった。
「なにそんなトコで遊んでいやがんだ! さっさと運びやがれ!」
あっきーだ。しかもバット持ってる。
「っテーなっ! 何すんだオッサン!」
「うるせー小僧!」
「ちょっとお父さん! あっきーもっ! こんなところで喧嘩してる場合じゃないでしょ! 陽平おじちゃんと猫田さんを起こさないと」
「早苗のパンでもそいつらの口に突っ込んでおけっ! ショッキングな味ですぐに目が覚めるだろっ! さあこい小僧! お前のへなちょこボールをこの俺様が――」
あっきー、荷物運びに来たんじゃないの? バット構えたら荷物運べないよ?
「私のパンは……」
あ、早苗さん。しかも、スポットライトなんてないのにピンスポットが当たってる。
「私のパンは……、ショッキングな味のパンだったんですねーっ!」
「さ、早苗ーっ! 俺はお前のショッキングパンが大好きだあーっ!」
あっきーと早苗さんがすごい速さで走っていった。あ、お父さんが疲れた顔で手と膝をついた。陽平おじちゃんは失神したまんまで、猫田さんもぶつぶつ独り言つぶやいてる。うう、私、どうすればいいの?
とここで玄関の戸が開く音がして、お母さんが家から出てきた。
お母さんは、お父さんを見て「パ、パパ!? 大丈夫ですか?」と、がっくりと手と膝をついて項垂れたままのお父さんに慌てて駆け寄った。そしてお父さんが一言。
「もう、疲れた……」
続いて杏先生が出てきた。先生は、すぐに大声で怒鳴ってやろうとしていたようだけど、この状況を見て、怒りを通り越して呆れ果て尽くしたって感じで「……なにこのカオス」と呟いた。
そしてそこに、顔を手で覆いながらすごい速さで早苗さんが駆け抜け、続いてあっきーが何か叫びながら駆け抜けていった。
なんでこんなコトになってるんだろう。
そう思いながら困っていると、杏先生の視線を感じ、先生を見る。そしたら先生が、ため息混じりに私に言った。
「あんたら、ほんとに引っ越しする気あんの?」
「私はあるんだけど……」
こんなんで、今日中に引っ越し終わるのかなあ。