引っ越しの日 その1
慣れ親しんだ家を後に、私たちは引っ越しの荷物を積んだ軽トラックに乗って、新しい家へと向かっている。窓の外を流れる景色は、今のところ私の知っているものばかりだけど、もうすぐ知らないものばかりになる。でもそれもすぐに終わり。
新しい我が家は、前の家からそんなに遠く離れていないのです。ということで、転校することもないし、今までどおりあっきーと早苗さんのお家にも行ける。これは私にとってとても嬉しいこと。
「すみませんでした。猫田さん。待たせてしまって」
お母さんが、車を運転している人にそう言った。この人は、陽平おじちゃんの会社の後輩の人。ちょっと気が弱そうだけど、いい人っぽい感じがする。
「いえ、いいんですよ。自分、何度か引っ越してるんですけど、愛着が湧いた家から出るときは、やっぱりちょっと感傷的になったりするんですよね」
「そうなんですか」
「はい。だから、皆さんの気持ちはよく分かります」
ん~。ちょっと疑問。ということで質問してみた。
「あの、愛着があるのに、なんで引っ越しするんですか?」
「仕事の都合で。営業所が変わったりすると、どうしてもね」
なるほど。ということは――。
「左遷とかで?」
「し、しおちゃんっ!」
あれ? 私、そんなにまずいこと言った? 意味はよく分かんないけど、『転勤』っていうのと同じじゃないの?
「あはは、今のところは、左遷じゃない……、と思います……」
「あ、あの! 猫田さん? そ、そんなことありませんから、だから気をしっかり――、って猫田さん! 前っ!」
あ。赤信号。ってこれ、けっこうやばくない?
「え? うわあっ!」猫田さんもやばいと思ったみたい。慌てて思いっ切りブレーキを踏んだ。このとき初めて、私はシートベルトの大切さを痛感した。これがなかったら、まず間違いなく顔からフロントガラスに突っ込んでたと本気で思ったから。
車はぎりぎりのところで止まってくれた。でも、お母さんの心臓も止まったかも。急ブレーキの反動スゴかったし、それにお母さん、お父さんと正反対で気がちっちゃい方だから。私はというと……、お父さん似かな。
「すっ、すみませんっ! お怪我はないですか!」
「い……、いえ……、大丈夫……です……」
ぜんぜん大丈夫には見えないけど、とりあえず心臓は止まってなかったみたい。ふう。
「お嬢さんも、大丈夫ですか!」
お嬢さん、って私のことだよね。なんか照れる。でもここはにこやかに。
「はい。これぐらい平気です」
「ほんと、すみません」
「いえ」
本当に私は平気。でも、お母さん以外にも平気じゃない人がいた。
「猫田ーっ! てめー何しやがんだーっ! ボクらを殺す気かーっ!」
荷台に乗ってた陽平おじちゃんが、運転席の窓から顔を出して怒鳴った。そっか。荷台にはシートベルトないもんね。引っ越し荷物もあるし。ところでお父さんは大丈夫かな。
「テテ……。おいおい。何があったんだ? 渚」
助手席の窓からお父さんが顔を出して聞いてきた。あんまり大丈夫じゃなかったみたい。
「え? え、えっと……、ですね……」お母さんが心臓を押さえながら、答えにくそうにしている。ここは私が。
「猫田さんがお仕事で何度も引っ越しするって言ったから、私が左遷とかで? って聞いて――。なにその呆れたような顔」
「お前、ほんと容赦ないな……」
む。お父さんにだけは言われたくない。それに、なんでそんな失礼なこと言われなきゃなんないの。
そう思ってそっぽ向いたら、猫田さんが、ぶつぶつ言いながらがっくり項垂れていた。
結局、これ以上は運転無理っていうことで猫田さんは荷台に移って、お父さんが運転することになった。陽平おじちゃんも手を挙げたんだけど、お父さんが速攻で却下してた。これは私も同意。
「う、汐ちゃんまで~」
だって、陽平おじちゃんの運転ってちょっと怖いんだもん。けっこういい加減だし、よく余所見するし。
「渚ちゃんだけは、ボクの味方だよね」
「あの、春原さんにまで運転させてしまうのは申し訳ないので」
そういう返し方があったか。さすがお母さん。でもね、目を泳がせながら言っちゃあ意味ないよ? ほら、陽平おじちゃん、泣きながらいじけちゃってるし。
コホン。
ここで、私たちがこうして引っ越しをするに至ったお話を、ちょっとだけしたいと思います。
それは三週間ぐらい前、突然お父さんが言い出したことで――。
「二人とも、話したいことがあるから、座って聞いてくれ」
夕食も食べ終わり、食器の後片づけをお母さんと二人で終わらせた直後、お父さんが真面目な顔で私たちに言った。いったい何を話すつもりだろうと思いながら座る。そして衝撃の発言。
「そろそろ引っ越そうと思うんだ」
「え?」
あまりの不意打ちに、思わず私は間の抜けた返事をしてしまった。いつかはこういう場面がやってくるんじゃないかと思ったことは何度かあったけど、実際のところ現実に起こるとは思っていなかったから。だってこの場所は――。
「汐も大きくなってきたし、さすがに一間っていうのも、もう限界かなと思ってな」
「そうですね。ちょっと寂しい気はしますけど」
「まあな。んで、実はもう、知り合いからいい物件を紹介してもらってるんだ。ここからそうたいして離れてなくて、だから汐が転校するようなことはないし、渚の家にも今までどおり行ける。言うなれば、プチ引っ越しみたいなもんだな。それで、まずは二人に相談してからと――」
なんかすっごく腹が立った。そしてすっごく悲しくもなって、悔しくもなって……。ついには気持ちの収拾がつかなくなって、どうにかしたくて、堪えきれなくなって、お父さんに向かって怒鳴ってしまった。
「私のせいなの? 私のせいで、引っ越ししなくちゃいけなくなったっていうの? なによそれ!」
お母さんとお父さんが、どこか遠くで必死にそうじゃないって言ってる。
そんなこと分かってる。今の自分がどれだけ馬鹿なことを言ってるのかも分かってる。お父さんが私の将来を考えてくれてるからこそだってことぐらい、分からないはずないじゃない。だって、お父さんもお母さんも、いつだって私のことを何よりも先に考えて、心配してくれているんだから。
でも、それでも感情が止まらない。言葉も涙も止まらない。もう、自分がいま何を言ってるのかさえ聞こえなくなっている。
この感情は、誰に向けられたもの? 何が悲しくて、何が悔しくて、私はこんなに泣いているの?
この気持ちは……、
私へのものだ。私自身へのものだ。
この場所は、私にとって大切な場所。私が産まれた場所で、たくさんの思い出の詰まった、本当に大切な宝箱。
でもそれだけじゃない。
ここは、お母さんとお父さんにとっても大切な場所なんだ。
何度かお母さんから聞いたことがある。私が産まれる前の、ここでのお母さんとお父さんのお話。最初はとっても大変だったらしいけど、それでも毎日が楽しくて、お母さんは仕事から帰ってきたお父さんの顔を見るのが何よりも幸せで、お父さんも、晩ご飯を作って待ってくれてるお母さんの顔を見るのが何よりも幸せで。そんな二人の日々の思い出がここにあって……。
その大切な場所を、私のせいで失ってしまう。私が、二人から奪ってしまう。そうと分かっているのに、私は何も出来ない。なんて無力な私。そんな自分が悔しくて、情けなくて、悲しくて……。
「しおちゃん……」
お母さんの優しい声が耳元で聞こえた。そして、お母さんの香りと温もりが私を包んだ。
あれほどどうにも出来なかった感情が、不思議と落ち着きを取り戻していく。まるで、森を覆い尽くす大火が、しんしんと降る雪にゆっくりと消されていくように。
私はもう何も言うことが出来なくなっていた。ただただ、赤子のようにお母さんの優しさに身を委ねるだけ。
どれだけそうしてたかなんて分からない。結構な時間、そうしてたと思う。しかもその間、お母さんもお父さんも黙っていた。聞こえていたのは、時計の秒針の音と、私の鼻をすする音だけ。
「汐」
お父さんが、ようやく口を開いた。その声はとても優しいもの。私、たくさん酷いこと言っただろうに。
「馬鹿だな。子供がそんなことで親に気を遣ってどうすんだ」
なんとなく、自分が口走ったことの一部が分かった気がする……。
「まったく。変なところで渚に似やがって」
「そうでしょうか。私は、しおちゃんのこういう優しいところ、パパにそっくりだと思いますよ?」
「馬鹿言え。お前の方がよっぽど――」
「ふふ。それじゃあ、私とパパに似てるっていうことで」
「……」
「ね」
「……そうだな。汐は、俺と渚の娘なんだからな」
「はい」
娘の前でいちゃいちゃするのはいつものことだけど、こういう場面でするかなあ。なんだか、こうして落ち込んでる私が馬鹿に思えてくる。
「汐。まだ引っ越しするって決めた訳じゃないし、今日中に決めなきゃいけないことでもない。だから、この話はひとまずこれでお終いにして、続きは明日以降だ。それでいいか?」
たぶん、ここで私が言うべき台詞は、「私、引っ越ししてもいいよ」だろうな。
でも、どうしてもその言葉が喉の奥で詰まってしまう。だから、自分に正直に、こくんと頷いた。
「よし。じゃあ今日のところはこれでお終い。ってことで、汐。お母さんと風呂入ってこい。そんなみっともない顔のままじゃ、布団にだって入れないだろうからな」
今の私の顔を見たわけじゃないのに。だいたいお父さんは、デリカシーなさすぎ。もうちょっと気の利いた台詞言えないの? 私、女の子なんだよ?
と言っても、この父にそれを望むのは無茶っぽいから、もう諦めてるんだけどね。それに、こういう風に言ってくれるからこそ、私も気持ちを変に引きずらずに済む。これって、お父さんの術中にはまってるってことなのかな。
「さ、しおちゃん。久しぶりに一緒にお風呂に入りましょ」
「ん……」
それはいいけど、今の顔をお父さんには見られたくないな。ひどいことになってるって、私が一番知ってるから。
と思ってなかなか動こうとしなかったら、お母さんが「パパ?」って不思議そうに言った。
「ビール切れてるから、ちょっと買ってくる」
そして、お父さんの足音が玄関に向かっていく。普段は信じられないくらい鈍感なお父さんだけど、このときばかりは珍しく察してくれたみたい。だって、まだ冷蔵庫に缶ビールが一本入っていること、わたし知ってるもん。お母さんも知ってたけど、「はい。いってらっしゃい」って答えてた。
お父さんが外に出てすぐ、私はお母さんの胸から顔を引き剥がし、のそのそとお母さんとお風呂に入った。
さて、お風呂から出るまでに、もしくはお父さんが戻ってくるまでに、このぐしゃぐしゃな顔をどうにか出来るかしら。