またね
最後の荷物が運び出されて、ついに空っぽになった我が家。
私はひとり玄関に突っ立って、一四年間過ごしたこの場所を静かに眺めている。
「こうして見ると、けっこう広かったんだなあ……」
なんて感想をこぼしたりして。
幼い頃は、我が家を狭いと感じたことはなかったけど、この歳になれば、どうしたって狭いと感じてしまう。友達の家に遊びに行ったりすると余計に感じるし、あっきーと早苗さんのお家に行くと尚更のこと。
でも、狭いこの家が嫌だ、と思ったことは一度もない。座敷が一間しかない不便さはあるけど、やっぱりこの方が私は好きだ。
だって、大好きなお母さんとお父さんと、いつも寄り添ってる感があるから。
「汐ー」
外からお父さんの声がした。だけど、今はなんとなく返事する気になれない。もう少し、こうして見ていたいと思ったから。だから無視。ごめんね。お父さん。
そしたら、カンカンっていう階段を上がってくる足音が聞こえてきた。この足音はお父さんのだ。一四年間聞いてきた、お父さんの音。
子供の頃は、仕事から帰ってきたお父さんのこの足音を聞くと、必ずと言っていいぐらい、喜び勇んで迎えに出た。そしていつも、お父さんはごつごつの大きな手を私の頭にぽんと乗っけて、にっこり笑ってこう言ってくれた。
「ただいま。汐」
そのときのお父さんの優しい顔が、言葉が、あったかい手が、とっても嬉しかった。さすがに今は、玄関から飛び出して出迎えたりはしないけど。でも、お父さんの帰宅を教えてくれるその足音を聞くと、やっぱりちょっと心がうきうきしてしまう。
私って、ファザコンなんだろうか……。
「汐、もう出発するぞ」
おっとそうだった。お父さんが呼びに来たんだっけ。
お父さんはいま私のすぐ後ろ。そんな至近距離から言われては、もう聞こえない振りは出来ない。だから私は、「うん……」って気のない返事をする。振り向きもしないで。
「汐?」
「うん……?」やっぱり気のない返事。視線も変わらず。
すると、お父さんはぽんと私の頭に手を乗っけてきて、そのまま黙り込んでしまった。
私を呼びに来たんじゃないの?
「……お父さん」
「なんだ?」なんとなくおざなりな感じがする。ひょっとしなくても、お父さんもそうなのかな。
「この手はなに?」
「特に意味はない。だから気にするな」
まあいっか。急に意味不明な行動をするのは、今に始まったことじゃないし、お父さんの手、嫌いじゃないし。
で、結局ふたりとも、そのまま黙って立っている。よその人が見たら、あの親子はいったい何をしてるんだろうって思うだろうな。
「パパー。しおちゃーん」
今度はお母さんの声が外から聞こえてきた。お母さんを無視するのはちょっと可哀想かなって思ったから、「はーい」と生返事をする。たぶんこの声の大きさじゃ、お母さんの耳には届かない。でも、一応返事はしたんだから、いいよね。
で、私は相変わらず部屋の中を眺めている。お父さんも、手を乗っけたまま立っている。
そして、ちょっとだけ速足で階段を上がってくる足音。これはお母さんのだ。
「パパ? しおちゃん?」足音がすぐ側で止まると同時にお母さんの声。
さすがにこれ以上は粘れないか。でも、もうちょっとだけ……。
そう思って黙っていたら、お母さんまで黙り込んでしまっていることに気が付いた。きっとお母さんも、お父さんと同じなんだろう。そして私とも。
この場所には、数え上げたらきりがないぐらいの、たくさんの思い出が詰まっている。楽しかったこと。嬉しかったこと。悲しかったこと。辛かったこと。その思い出たちが、どれだけの時間が経っても色褪せないで、いつでも私の心をくすぐってくれるように、何一つ残すことなく強く心に刻み込んでおきたい。
柱や床の傷、畳みのシミ、当て紙された襖など、そんな些細なものもすべて――。
突然、私の右手が優しく握られた。それが誰の手かなんて考える必要はない。私は振り返って、お母さんを見る。ちなみにお父さんの手は乗っかったまんま。手で払うつもりも、振り落とすつもりもないし、そもそも邪魔だと思ってないから、このまま。
振り返った私に、お母さんがふわりと微笑む。そしてそのきれいな瞳はやっぱり潤んでいた。お母さんも色々と思い出していたみたい。けれど、涙をぼたぼた、とはなっていなかった。けっこう涙もろいお母さんのことだから、てっきり大量の涙を流していると思ったけど、これはちょっと意外。
じゃあお父さんはどうだろう。
首を反対側に大きくグリンと回しただけでは足りず、体もぐいと捻ってお父さんを見上げる。
とっても優しくて、どこか切なそうで、今まで見たことのない顔……。
ううん。一度だけ見たことがあるような気がする。まだ私が小さい頃に。ええと、あれは確か、私にパラレルワールドの話をしてくれたときだっけ。私が産まれて、そしてすぐお母さんが死んじゃって。それから私はあっきーと早苗さんに育ててもらって、お父さんはこのアパートで一人暮らしで。それで私が五歳のとき――。
不意にお父さんが「ん?」とこっちを見た。やっと私の視線に気が付いたみたい。
きっと次のせりふは、照れくさそうな「なんだよ」って言葉だろう。お父さん、意外と照れ屋だから。お父さんのそんな顔も見たいという誘惑はあった。だけど、それじゃあなんとなく面白くない。だから、言われる前にこっちから言った。
「特に意味はないよ。だから気にしないで」
そしたら一瞬きょとんとして、すぐにくすりと笑って「そっか」って答えた。うん。こっちの顔もなかなか。お母さんも、そんなお父さんを見て幸せそうに目を細めている。こんな両親を見たら、私だってにやけてしまう。
ああ、やっぱりいいな。
なんて浸ってたら、外からまたまた声が。
「岡崎ーっ! いつまで俺らを待たせる気だー!」
今度は陽平おじちゃんだ。
陽平おじちゃんは、お父さんとお母さんの高校の時からのお友達。特にお父さんとは仲が良くて、高一の時から二人で馬鹿なことをいっぱいやってたらしい。今でもたまに遊びに来て、その頃の面白い話を聞かせてもらう。もちろん、お父さんからも。
女の人が大好きっていうのがちょっとアレだけど、とっても面白い人で、私は嫌いじゃないかな。
っていうようなことを前にお父さんに言ったら、なんだか本気で心配されたっけ。しかも、そこにいた陽平おじちゃんが「じゃあボクと結婚する?」って冗談で言ったら、お父さん、本気で陽平おじちゃんの首締めて。あのとき確か、陽平おじちゃん白目をむいて、口から泡出して……。
う、いま思い出すのはよそう――。
「パパ。そろそろ行きましょうか」
「そうだな。春原だけなら、ずっと待たせてもいいんだけど」
「わざわざ手伝いに来てくださった人をそんな風に言ったら駄目です」
「渚。それは間違ってる」
「何がですか?」
「あいつに関しては、『来てくれた』じゃなくて、『来させた』だ。だから、俺たちがあいつをどれだけ待たせようが、どれだけこき使おうが、どれだけお茶くみさせようが、何の問題もないんだ」
当然のことのように語るお父さん。たまに思うんだけど、お父さんの陽平おじちゃんに対する横暴ぶりって、笑って許していていいもの? お母さん。ってお母さん、口ではちょっと怒ってるっぽいのに、顔があんまり怒ってない。ていうか笑ってる?
う~ん。これでいいのかなあ。
「さて。それじゃあ行くか」
「はい。行くわよ、しおちゃん」
「うん」
私はそう言って、最後にもう一度、住み慣れた我が家の風景をじっくり眺める。そして、感謝の気持ちを込めてこう言った。
「今までありがとう。ばいばい」
そのとき、とっても奇妙なことだけど、たくさんの光が舞う金色の草原の中、たくさんの人が私に微笑み返してくれたような気がした。しかも、私はそれを、不思議と懐かしく感じていた。
こんなこと、友達に言ったら即冷たく笑われるに決まってる。立ったまま寝てたんだろって。
でも……。
「お父さん。今ね――」
私は今のことを説明しようと振り返る。そしたら、説明する必要がないことがすぐに分かった。
お父さんも感じたんだ。だって、お父さんもちょっと驚いていて、それから私を見て、どこか懐かしそうな目で「ああ。分かってる」って言ったんだから。なら、自分を疑う理由は何もない。
だからもう一回、今度は応えてくれた人たちに向けて。
「またね」
こうして私は、言葉どおり生まれ育った場所と、最後のお別れをした。
私の名前は岡崎汐。元気はつらつな一四歳の女の子。
Episode「またね」 -了-
再投稿作品です。小出しにしていく予定です。ペースは……、まあなるようになるでしょう(^ ^;