近江商人の聖地を訪ねて 近江八幡取材レポート
皆さんこんにちは。
現在『俺が歩いたら草も生えない!? ~近江商人は天下を取る~』を連載しております、悠聡です。
長いことなろうに投稿を続けていたのになかなかブクマも評価も増えず、ある時「もう地元ネタ盛り込んじゃえ!」という半ばヤケクソの勢いで連載を開始した作品が、どういうわけか経験したことの無いPVとポイントを稼いでしまい、喜び半分疑い半分でした。
ですが最近になってようやく現実を受け止めることができ、執筆に専念できています。
本当に読者の皆様には感謝の言葉を言い表し切れません、ありがとうございます。
さて、現在『俺が歩いたら(以下略)』の読者の皆様の多くは、私の故郷である滋賀県とは直接的な関りが無いと思います。
作品のテーマに扱っている近江商人という存在は全国的に名が知られていると思っていましたが、小説家になろうでキーワード検索をしても私の作品しか出てこないのでそこまで有名とは言えなさそうですね。
そこで「近江商人て何やねん?」という疑問に答えるべく、私なりに近江商人について調べたことをまとめ、このエッセイを書き始めてみました。
しかし単なる情報の羅列では「Wikipediaを見なさい」となりますので、実際に物語の舞台である近江八幡の風景を交えながら解説していこうと思います。
つまり作者自身による聖地巡礼というわけですね。
今現在作者は大阪に住んでおりますが、2017年の5月に実家の滋賀に帰る機会がありましたので、近江八幡まで足を伸ばしてみました。
近江八幡市は琵琶湖の東岸、滋賀県のほぼ中央部に位置する人口8万2000人の都市です。
かつて琵琶湖では京から東国へ渡る際、船に乗り換えるとこが多かったことから沿岸部は多くの町が交通、軍事の要衝として栄えました。
そのため滋賀県内には歴史上判明しているだけで大小あわせて1300余りの城郭が存在し、近江八幡市内には安土城や八幡山城など、有名な武将の居住した城も確認されています。
1585年、琵琶湖岸の八幡山に豊臣秀次が城を構えました。織田信長亡き後だったので安土城の建物や城下町をそのまま移すようなものだったそうです。
八幡山城は名の通り山城で、今でも城跡が残っています。登山客も多いですが標高283メートルあるためロープウェーで一気に上まで行くことも可能です。ここからは湖東平野が一望できます。
秀次は商業の発展のためにと城下の商人を優遇し、国外国内問わず多くの商人が旅に出かけ莫大な富を築きました。ある者はベトナムやタイなど東南アジア各地にも進出し、異国の文物を日本にもたらしました。
その時代の資産を基に本拠である近江八幡に立派な家を構えたため、現在でも近江八幡市内には古くて立派な家屋が多く残されています。
江戸時代に入ると鎖国が進められたために海外貿易が困難になりましたが、今度は上方と江戸をつなぐ菱垣廻船や蝦夷に向かう北前船の航路開拓、全国各地の行商などに活路を見出します。この時代は八幡商人よりも日野や五箇荘など別の地域から現れた商人が活躍し、近江商人の名を全国に知らしめました。
明治の開国以降は資産を基に国内外を視野に入れた大企業を設立し、今もなお経済界に強い影響を与えています。
たとえば西武グループや大丸、高島屋のような流通関係、伊藤忠や住友財閥といった商社は近江商人をルーツとしています。
繊維産業では東レ、ワコール、日清紡などが、さらにはトヨタ自動車やニチレイ、武田薬品など全国的に有名な企業も近江商人の流れを汲んでいます。
それでは数多くの優秀な商人を輩出した近江八幡とはどのような町なのでしょうか。
近江八幡はJR琵琶湖線の沿線で、京都と名古屋のちょうど中間あたりにあります。
八幡山の麓には1000年以上の歴史を持つ日牟禮八幡宮が置かれ、この地域の信仰の中心となっております。観光地として有名な古い町並みはこの周辺に発達しており、文部科学大臣によって重要伝統的建造物群保存地区にも指定されています。
近江商人は信心深く、稼いだお金を寺社に寄付したそうです。日牟禮八幡宮も大きな社殿や能舞台を構えるなど、多くの商人がこぞって寄進したことが窺えます。
この神社に祀られているのは誉田別尊、息長足姫尊、比賣神の三柱です。前の二柱は応神天皇と神功皇后であり、いずれも実在の人物です。最後の比賣神は宗像三女神、つまり玄界灘の女神であり、八幡社と名の付く神社では大概祀られています。作中ではこの比賣神が栄三郎を元禄時代へ誘った張本人であり、狂言回しの役割も担っています。
この神社では頻繁に行事が開かれていますが、特に大きなものは3月の左義長祭りと4月の八幡祭りで、両者とも国の無形民俗文化財に指定されています。
秀次の居住する八幡山城を守るため、周辺には全長6キロメートルの長大な堀が張り巡らされました。これが有名な八幡堀であり、廃城後は防衛のためよりも堀を通じた水運で多くの船が行き来し、八幡の商業の発展に大きく貢献しました。
この八幡堀はそのロケーションと保存状態の良さから、今現在でも時代劇の撮影に多用され、ファンの間では聖地として扱われています。
私が訪ねた時はちょうど黄菖蒲が咲き誇っており、写真撮影や写生に多くの方が訪れていました。
作中でも栄三郎はここで名物の近江牛コロッケを食べていたことが語られています。
民俗資料館では近江商人にまつわる多くの資料が展示されています。特にこの看板たちは実際に外に掛けられていたもので、当時の雰囲気を残しています。
また現在、市内では2軒の旧商家が一般公開されています。
特にこちら西川家は1706年建築で物語の舞台である元禄時代と近しく、イメージを膨らませるのに非常に役立ちました。
この西川家には非公開の土蔵もありますが、これは全国でも2件しかない重要文化財のひとつだそうです。なおもう1件は魚沼にあります。
この家には家主家族が5人ほど、それ以外には20人ほどの丁稚や女中が暮らしていたそうですが、彼らの住まいは明確に区切られており、家主の住む区画は座敷が敷かれ広々としていますが、丁稚たちは板張りの部屋に布団を敷いて寝ていたそうです。彼らが座敷に上がることは許されず、夜になれば屋内でも戸で固く仕切られました。
作中で白石屋の店主が店員も座敷に上げていっしょに夕飯を食べる描写がありますが、それはかなり稀有な例です。
なお番頭クラスになると近くに別の家を借りて住んでいたそうで、結婚も許されたそうです。そこまでたどり着くのはごく一部だったようですが。
また、店主は全国の支店に出張することが多く、本家を守っていたのはむしろ奥さんでした。家には女性だけになることも多かったので、男物の下駄をわざと置いて賊への警戒も怠らなかったようです。
近江商人の精神である「売り手よし、買い手よし、世間よし」の「三方よし」の精神は家訓として受け継がれています。大抵の商家には家訓として先祖代々の決まりを設け、目先の利益にとらわれず長期的な利を追求しました。
また飢饉などで周辺の村が困窮した時には、家を改築するなど雇用を生み出し、地元に富を再分配しました。普段は倹約しますが、ここぞという時には出し惜しみせず世間に還元していたそうです。
開国後も近江八幡は商業の拠点として栄え、1886年には滋賀県商業学校(現滋賀県立八幡商業高校)が設立されました。ここからは多くの優秀な実業家が輩出されています。
1905年にはアメリカから建築家であり実業家でもあるウィリアム・メレル・ヴォーリズが商業学校の英語教師として来日し、その後近江八幡に建築事務所を構えたことで日本各地に西洋建築を残します。
ヴォーリズの功績はそれだけでひとつの伝記が完成するほどで、ここではとても書き切れません。
例えば、実は超有名軽音楽部アニメの舞台となった豊郷小学校の旧校舎もヴォーリズ設計です。東京や北海道、さらにはソウルにも彼の設計した建築は残されており、多くが文化財などに指定されています。もしかしたら皆さんも知らずない内に利用していたかもしれません。
八幡にもヴォーリズの西洋建築は多く残されています。和の伝統建築と西洋のモダンな家屋が見事に調和した八幡の街並みは、都会の喧騒とはまるで異なった世界にトリップしたかのようです。
以上が近江商人を育んだ町、近江八幡です。現在は滋賀県内にも草津や大津、彦根など大きな町はありますが、八幡には独特の空気が漂っています。
また八幡以外にも日野、五箇荘、堅田などは近江商人を数多く送り出した町で、八幡とはまた違った雰囲気に包まれています。
最後に、私の拙い小説ですが、多くの方に読まれているようで本当に嬉しいです。
当初、作中ではかなりローカルな単語が飛び交い、不特定多数の方々に興味を持っていただけるか不安でしたが、その心配も無くほっとしています。
近江商人の雰囲気はなるべく文面だけで伝えるようにしていますが、本物の空気には敵いません。もしも近江商人についてもっと知りたいと思われた方がおられましたら、実際に八幡に足を運んでみてはいかがでしょうか?