イカ墨を喰らう
リエナは泣き崩れていた。
あんな男でもたった一人の兄だと思えば、ほって置けないのだろう。
「旅に出たのだろう? そのうち戻って来るさ」
「ダメよ! 兄さんは極度の世間知らずなのよ、大神殿までの険しい道のりには、恐ろしい魔物や盗賊が跋扈していて、それに、例え辿り着いたとしてもユピノ神の力を授かった者は、別人のように変わってしまうと言われてるの……お願い五十鈴さん、兄さんを止めて!」
「そう言われてもな……もう、どこへ行ったのか、わからんし……」
「合い挽きを取り戻すのです!」
「逢引きじゃなかったんだって……」
「大丈夫、兄さんなら、きっと近くで道草を食っています」
「急げば、食べ終わる前に間に合うのです!」
「確か、この近くに、ユピノ神信者が集まっている場所があったと、そこに立ち寄ってるかもしれません」
「あいつ等か、女神の神殿を破壊したりしているからな、どの道、行かねばなるまい」
「五十鈴さん、急ぎましょう。すづは嫌な予感がします、万が一に備えて、この鍋を持っていきます……」
なぜ鍋が必要なのか疑問に思ったが、リエナの兄が邪神に接触する前に見つけねばと、急ぎ出発する事となった。
町から少し離れた郊外にその屋敷はあった。
周囲に建物もなく、豪華な門を備えた屋敷は不気味なまでの威圧感を湛えていた。
「あれが、邪教徒共の巣窟か。これだけ目立っていれば、リエナの兄ニコルもここに立ち寄ったに違いない。しかし、開け放たれた門に見張りも居ないとは、不用心だな。ここの奴等も宴会でもしているのか?」
「五十鈴さん、門の影に誰かいます」
「ほう……、背に『喰う』の羽織、貴様があの五十鈴か……」
門の影から、人間の背丈ほどの長さの筆を担いで男が姿を現した。
「何者だ、邪神の信者か!」
「いや……俺の名は『一筆』、ユピノ教徒ではないが、一度あんたとは手合わせしたいと思っていた所だ……」
「なるほど、用心棒っと言った所か、ならば」
――餓鬼魂顕現!
担いでいた筆を五十鈴に向けて振りかざすが、地面から湧き出た餓鬼魂が男の腕を筆ごと食い千切る。
だが、その刹那、眼前に筆先が迫る。
「あぶねぇ!」
五十鈴は頭の上から振り下ろされた筆を寸前の所で体を捩ってかわした。
「何故だ? 奴の腕は確かに食い千切られたはずだが……」
「……一筆奏上……、俺の墨で塗りつぶされた物は、無かった事になる……」
「何て技だ……こいつは……(食い千切られても無かったことに出来るなど在りえねぇ、あの筆で塗り潰されたら俺も消されてしまうのか?)……強い……」
「五十鈴さん!」
「すづ、こいつは危険だ、引っ込んでろ!」
「すづは、あれを知っています!」
「よせ、消されてしまうぞ!」
「ズッ、じゅるるる~。この素材の味を引き立てる絶妙の塩味、間違いありません、これはイカ墨です!」
「消えるんじゃないのか……? ……それ、イカ墨なのか?」
「違う! 紗燐華山の虹春真木を十昼夜燃やして作られる貴重な墨だぞ、勝手に飲むんじゃない!」
「分かったのです。残りは鍋に入れて持ち帰るのです」
「そこまでだ貴様ら! 逃がしはしないぞ!」
二人の戦いに割って入るかのように、門の内側から赤いフードを被ったユピノ教徒が雪崩れ出て来る。
「おっと、邪魔が入ったな……、こういう戦いは嫌いでね、後はあんたに任せるよ……次は決着を付けようぜ、五十鈴さん!」
一筆は筆を肩に担ぐと、風のように消えて行った。
「あの野郎……しかたない、お前らの相手は俺だ!」
――餓鬼魂顕現!
「さっきは喰いそびれたからな、これで、餓鬼魂も満足だろう……。しかし、一筆は、奴等の味方でもなさそうだし、何をしていたんだ?」
無人となった屋敷に入って行くと、壁には一筆で引かれた墨の跡が残り、頭を塗りつぶされた体があちこちに転がっていた。
「一筆奏上か……。どうやら、ただ者じゃなさそうだな……」




