死地よりの生還。そして (前編)
血と、臓物と、炎と、黒煙と―――。
赤と黒が織り成す、見渡す限りの死の風景。むせ返るように強烈な死臭。
そんな世界の中心に、一切の力を失い、へたり込んでいる。
しゃくり上げるような呼吸とともに、とめどなく流れる涙。
温もりが徐々に消えていく、腕の中の人肌。
光が消えていく双眸。
全てを悉く壊された。その光景が、ただ恐ろしくて。
大切な人の命が、目の前で消えていく様が、ただ哀しくて。
何より、己の無力がただただ悔しくて―――。
氷のように冷たくなった少女を腕に抱き、
暁色に彩られた、どうしようもなく美しく鮮やかな空を仰ぎながら、
声にならない声で、ただひたすら喘ぎ続ける。
目を逸らすことも許されない、目を閉じることも許されない。
―――そんな、悪夢を見ていた。
ずっと、ずっと、見続けていた。
◆◇◆◇◆
つう、と涙の筋が顔を伝う。その感触が気付けとなった。
アルフレッドは実に一日ぶりに、重い瞼をゆっくり持ち上げた。
視線の先には見覚えのない天井。間借りしているエーリックの邸宅でもなく、最後に泊まった宿でもない。―――あの世、というわけでもなさそうだ。
体中が夥しい汗に濡れ、呼吸が荒い。あの夢を見た日の朝は、いつもこうだ。アルフレッドは右手を額に宛がい、汗と涙を諸共に拭った。
荒唐無稽に構築された悪夢なら、淡雪が解けるようにすぐさま消え去ってしまうが、この夢は違う。
それは10年前のあの夜、血塗られた記憶と共に、胸に深く刻まれた心の古傷、その疼きそのもの。記憶のリフレーン。それらが悪夢を構築し、無防備な胸の内の、心の傷を無慈悲に抉るのである。目覚めの後も、性質の悪い酔いにも似た、最悪な余韻を残していく。
かすかに残る吐き気と頭痛。それ以上に、体中が茨の棘で包まれているかのように、ギシギシと痛む。俗な言い方をすれば、全身が極度の筋肉痛に苛まれる感覚である。
抜剣による後遺症だ。完治には数日を要するだろう。
「おはよう」
様々な苦痛に四苦八苦するアルフレッドの隣で、柔らかな声がする。
「よく、眠れたかな」
椅子に腰かけながら林檎の皮を剥く、エルフィオーネの姿がそこにあった。声音に違わぬ、柔和な微笑を浮かべている。それに加え、まるで午睡の陽光のような穏やかな光が窓辺より差し込み、その美しい藤色の長髪を、朗らかに照らしだしていた。
「どれくらい、寝ていた?」
「あなたが倒れた時を込みで、まる一日と言ったところかな」
アルフレッドは白髪頭をくしゃりとかき上げ、「一日……か」と呟く。
「―――みんなは、無事か?」
「私のこの表情で察せられる通りさ」
アルフレッドは再びエルフィオーネの表情を見遣ると、安堵のため息をつきながら「そうか」と一言漏らした。
「ここは、何処だ?」
「シラマの町の宿屋だ。完全に気を失ったあなたを禁則地区から運び出したはいいが、中継地点のあの宿屋、主が避難したのか、既に店中が施錠されていてだな。仕方なく、何とか気力を振り絞って、シラマの市街まで辿り着いた―――そんな次第だ」
「魔物とか、出なかったか?」
「討ち漏らしが数体。まあ、あの後魔術も復活したが故、難なく蹴散らしてやったが」
「ああ、元に戻ったのか。……結局、アレはなんだったんだ?」
「―――さあ。いずれにせよ、査問のためにアークライト騎士団と、調査団がこのシラマの町に間もなく到着する。私も証人として現場に赴くことになるだろうから、話はそれからだ」
エルフィオーネは、覗き込むようにアルフレッドの顔を見ながら、言う。
「―――まったく、無茶をする」
抗議や非難ではなく、気遣う口調。
「あの時は驚いたさ。心拍数も脈拍も、信じられないほどに弱っていたからな。このまま、目を覚まさないかと思ったぞ」
林檎が丸々一個、ちょうど剥き終わった。ぷつ、と螺旋状の皮が地に落ちる。
「……あの剣が、あんなにおぞましい代物だったとはな」
壁に立てかけられている両手剣を見遣る。元通りとまでは言わないが、鞘口には鎖が巻かれ、取り敢えずは簡単には抜けないように封印が施されている。
「ああ。―――さぞかし、驚いただろう?」
「多少の事では驚かない性分だが、さすがに、な。―――信じられぬほど強大且つ禍々しき怨念。そして力。ともすれば天変地異の引き金にも為りうる……。よくぞ壊れず、無事、現世に帰って来てくれたと言うべきか」
驚いたという割には、やけに涼しげな声で、エルフィオーネは林檎を切り分けている。
「一晩じゅう、魘されていた」
「―――だろうね」
「あまり、良い経験はしてきていなさそうだな。その剣絡みでは」
少しの沈黙があって。
「初めて……」
アルフレッドはどもりながら言いなおす。
「初めてこの剣を抜いたのは10年前―――俺は13歳だった。その時のショックと……あと色々あって、黒かった俺の髪はこんな風に」
髪の束を掴み上目で見ながら「見事に真っ白になっちまった」アルフレッドは自嘲した。
エルフィオーネは何かを思い出したように「10年前……そうか、ではその時に……」と、小声で呟く。アルフレッドから怪訝そうな視線を向けられると、即座に別の話題を発信した。
「相当体にもよろしくないとみえるな」
「ああ。文字通り、命が削られてる。ほかならぬ俺自身、自覚している。乱用すれば、ただでさえ幸薄く短いと確信してる老い先が、さらに短くなっちまうってわけだ。……本当の、最終手段だったんだ。こいつは」
エルフィオーネは「そうか」とだけ返答した。
「……訊かないのか? エルフィオーネ」
「何を?」
「この剣の事とか、この力の事とか……」
エルフィオーネは鼻で笑いながら答える。
「訊かないよ。―――話したくなった時にでも話してくれればいい。もちろん、永久に話してくれなくてもいい」
「……悪い」
アルフレッドは申し訳なさそうに笑った。
少しの間の後、エルフィオーネ、とアルフレッドが改めて切り出す。
「あんたには、改めて礼を言わなきゃならない」
「―――私に?」
「依頼通り、あんたは魔物と、この剣から、みんなを守ってくれた。―――感謝の言葉もないよ」
少し考えた後、エルフィオーネは、ふん、と再び鼻で笑った。
「何を言うのだ。難敵を打ち倒し、皆を護ったのはあなたの方だろう。アルフレッド」
「違う」
即座に首を横に振る。
「俺はただ剣を抜いて、我を忘れて暴れただけだ。あんたが居なければ、確実に皆を、この剣の餌食にしていただろう。……想像するだに、ぞっとする」
「……御しきれぬ力は、己の力ではない。力として認めない。と、いうことか」
アルフレッドは無言で肯定する。
台風や津波が、敵味方諸共巻き込んで戦場を蹂躙したところで、誰の力でも手柄でもない。主張することさえ烏滸がましい。それと同じことだ。
「―――まあ、いいだろう。それはさておきだ」
エルフィオーネは唐突に含みのある声音で、茶化すように喋りはじめた。
「この、女泣かせ。罪作りな男め」
そしてこの、優しい非難。
「何のことか分からない、という顔をしているな。―――まだ気付かないのか? その左手に」
「左手……?」
指摘されて、漸く気が付いた。アルフレッドは鉛のように重い体を、唸り声をあげながら起こす。
肉刺や胼胝だらけの無骨なアルフレッドの手。それを、包み込むようにして握る、柔らかな二つの掌があった。
「……アリシア」
睡魔に抗えなかったのか疲れ果てたのか、それとも両方か。跪く姿勢でベッドを枕代わりに、安らかに寝息をたてるアリシアが、そこには居た。眼もとには、一夜を寝ずに明かし出来たと思われる隈に加え、泣き腫らした痕跡が見てとれた。
アルフレッドは何も言わず、しかし感極まった様子で、アリシアの頭を撫でる。さらりとした前髪を少しいたずらっぽく手の甲で持ち上げた。
「折角のキレイな顔が、台無しじゃねぇか……」
あの一日の間に、今まで見たこともなかった、彼女の脆く、だが年相応の一面を、幾つも垣間見てしまった。今のこの顔の様など、その中でも究極といえるだろう。
「あなたが魘されるその度に―――」
切り分けた林檎が盛られた皿を差し出しながら。
「彼女はあなたの手を離すまいと握りしめていた。泣きながら―――それでも、付きっ切りでな。健気なものじゃないか。思わず私も、落涙を禁じ得なかったくらいだ。もう一度言ってやる。この女泣かせめ」
その光景が目に浮かぶようで、アルフレッドは気恥ずかしそうに視線を逸らし、次いで、歯痒そうにぼやいた。
「―――本当に、ばかやろうだよ。俺なんかのために……」
エルフィオーネが、半ばあきれたようにふーと息をつく。
「『俺なんか』……。『俺なんか』とくるか」
若干不機嫌気味に、ずいっ、と顔を近づけられる。
「その自己評価の低さ、もう少し何とかならないものなのか?」
まるでナイフでも突きつけるかのように、きれいに八等分された林檎を口元に近づけるエルフィオーネ。
「そうは言っても……むぐ」
「うるさいっ。これでも喰らえっ」
それ以上は聞かない、と、その口を林檎で無理やり塞がれる。
酸味の強い種らしく、若干残っていた眠気をいい塩梅に解消してくれる。
「最初は、今時珍しいくらい謙虚な男だと思って見ていた。だが、少し考えを改める必要が出てきた」
しゃくしゃくと甘酸っぱさを咀嚼しながら、黙って聞く。
「アルフレッド。謙虚と卑屈とは同義ではないぞ」
ごくり。嚥下と同時にアルフレッドは息をつく。
「そんな風に見えるのか?」
「うむ。大分、後者寄りに見える」
エルフィオーネは容赦なく首を縦に振る。
「そういう奴、やっぱり嫌い?」
「嫌いだ」
笑顔で、きっぱりと言い捨てられた。
「至極月並みな言い方ではあるが、主よ。もっと、自分に自信を持て。あなたは、自分のことを価値のない人間だと、必要以上に貶めているフシがあるが、それは思い違いというものだ。なぜ、街の者達があなたに会うたび笑顔で会釈するのか? なぜ、アリシアがあなたを慕い、こうして涙を流すのか? ―――なぜ、私があなたに仕えているのか?」
林檎を皿ごと手渡すと、エルフィオーネは立ち上がる。
「どんな高尚な理想を掲げているのかは知らぬ。だが、上ばかり見ていると、その目線の外のものに気付けなくなる」
心外、という顔を作りながらアルフレッドが笑う。
「理想……俺の理想か……。我ながら、馬鹿高いものをおっ立てたもんだと、今でもそう思うけど」
ふう。息をつき、俯き加減でいう。
「生憎、そいつには手が届かないって分かってしまったから、だいぶ前に、綺麗さっぱり捨てちまったよ。騎士学校を追われたあの日から―――」
「本当に?」
間髪いれない疑問。それは「嘘だ」と言われたも同義の、明確な否定だった。
アルフレッドは思わず胸を押さえた。
目が泳ぐ。
まるで心を鷲掴みにされているようで、返す言葉がない。
対して、心の奥底まで見透かすように鋭い視線。深い濃紺の瞳で、エルフィオーネは彼を見下ろしている。その瞳を見ることは、できそうもなかった。
その様子を見て、エルフィオーネは若干申し訳なさそうな表情を見せ、静かに取り繕った。
「―――すまない。病み上がりの人間に対して、つい説教じみたことを。失言だった」
エルフィオーネは瞳を閉じると、ローブを翻し、アルフレッドに背を向けた。そして去り際に、「だがな、主よ」と言葉を添える。
「あなたは十分に、立派な男だ。そう評価されるだけの事を、この短い間で幾つも見てきている。あなたが納得しなくとも構わん。この言葉が心に届かなくとも構わん。―――私が、勝手に肯定する」
「だから―――」とエルフィオーネは続けた。
「くれぐれも、そんなしけた顔を、彼女には見せてくれるなよ」
アルフレッドは「え?」と反射的に返す。
「姫様のお目覚めだ」
目線を落とす。アリシアが目元を動かしながら「う……ん……」と声をもらしている。閉じられていた瞼が、ゆっくりと開いていく。
気づけば、エルフィオーネの姿は、既に部屋にはなかった。
「アル……フレッ……ド」
夢現定かならない、寝ぼけた反応だった。だが、意識の覚醒とともに、彼女の声音が潤んでいく。アルフレッドの手を握る掌の力が、だんだんと強くなっていく。
「あ……あ……」
「―――よう」
彼女に、しけた顔を見せるな。少し慌てたが、その忠告が頭でよみがえり、アルフレッドは呼吸を整えた。そしてエルフィオーネに倣い、優しく柔和な笑顔で、目覚めのアリシアを迎えた。
「おはよう。よく、眠れたか?」
言い終わるのと―――アルフレッドの胸板に勢いよく抱擁が飛び込んできたのは、ほぼ同時だった。
瞳に大粒の涙を浮かべた、だが歓喜の笑顔で満たされたアリシアが―――。
この話で終わらせるつもりが長くなったので2分割




