「政略結婚に愛など不要」と仰る婚約者様。私は貴方との結婚が不要ですね。
「エレノア・・・ひとつ勘違いしているようだから、今のうちに言っておこう」
夜会からの帰り道、屋敷の外で待つ馬車へ向かう途中でヴィクトル・ラウゼンは少し苛立ったように切り出した。そんな彼の様子を見て隣を歩くエレノア・ハーディングは足を止め婚約者を見る。
「・・・勘違い、ですか?」
「さっきの夜会でのことだよ。分かっているんだろう?」
ヴィクトルは少し面倒そうに息を吐いた。
今夜の夜会で、彼はエレノアではない令嬢と長い時間を過ごしていたのだ。二人で何度も踊り、休憩の合間にも親しげに話していた。相手が誰なのか、そもそもどういう関係なのかをエレノアは知らなかった。
だから帰り際、ただ一言だけ尋ねたのだ。
――婚約者として、あまり誤解を招く振る舞いは控えていただけませんか。と
「僕たちは”政略”結婚をするんだ。僕が誰と踊ろうと、誰と親しくしようと、君には関係のない話だろう?」
エレノアはわずかに眉を寄せた。
「関係がない、ですか?」
「絵物語のような恋愛結婚ではないんだから、いちいち子どものように駄々をこねないでくれ・・・」
ヴィクトルは悪びれた様子もなく話を続ける。
「両家に利益があるから僕たちは結婚するんだ。それ以上でも、それ以下でもない。僕に愛情まで求められても困るよ」
「私は・・・愛してほしいと申し上げたつもりはありません」
エレノアは静かに答えた。ヴィクトルの言うように確かに二人の婚約は政略によるものだった。
ハーディング伯爵家とラウゼン伯爵家の領地は隣接しており、古くから街道や河川を利用した交易が盛んだった。その一方で、通行税や港の使用権を巡って何度も揉めてきた歴史もある。
そこで両家の関係を安定させるため、エレノアとヴィクトルの婚約が結ばれた。
恋愛から始まった関係ではないということはエレノアも理解している。だから、恋人同士のような情熱をヴィクトルに求めたことなど一度もなかった。
ただ・・・
「私たちは、いずれ夫婦になるのですよね?」
「ああ、それはそうだな。」
「でしたら、お互いの立場を尊重し互いに思いやる必要はあるのではありませんか?」
その言葉にヴィクトルは不思議そうな顔をした。
「・・・君は何を言ってるんだ?だから、君には僕の立場に立って、僕の立場を尊重して、僕の交友関係には口を出さないでくれと言ってるだろう?」
「……で、でも!それでは私の....!」
「”政略”結婚なんだと・・・そう割り切ればいいじゃないか」
そう言って、エレノアの言葉を遮り言い切るヴィクトルの笑顔をみて、エレノアはそれ以上何も言うことができなかった。
けれど胸の奥に、小さな違和感だけが残った。
そしてその違和感がはっきりとした形を持ったのは、夜会から一週間後の王都で開かれた舞踏会でのことだった。
「エレノア!昨日の舞踏会ではどういうつもりだったんだっ!」
王都にあるラウゼン伯爵家の屋敷で”結婚後の生活について確認する”と言う名目で呼ばれたエレノアは、応接室へ入るなりヴィクトルからそう言われた。
「昨日の舞踏会・・・ですか?」
「僕がリリィと話している間、ずっと別の連中と過ごしていただろう!」
「ああ……確かそれは・・・」
前回の夜会でヴィクトルから「誰と親しくしようと君には関係ない」と言われたため、次の夜会では彼を追いかけず、自分の友人たちと過ごしたのだ。
「何か問題がございましたか?」
「大ありだ!」
ヴィクトルは眉をひそめて声を荒げる。
「君は僕の婚約者だろう?社交の場では、もう少し僕のそばにいてくれないと困る」
エレノアはしばらく彼を見つめた。
「ですが、私たちは政略結婚なのでしょう?でしたら、私が誰と話していようと問題はないのでは?」
「それとこれとは別だ!僕はラウゼン家の跡取りで、夜会では色々な人間と付き合わなければならない。けれど君は、いずれ僕の妻になる。婚約者が僕を放って他人とばかり話していたら、僕の顔に泥を塗ることになるだろう?」
「あなたが他の女性と親しくするのは問題なく、私が友人と過ごすのは問題があるということですか?」
「だからそう言っているだろう!リリィにも僕がちゃんと家庭をまとめることができているのか心配されてしまったじゃないかっ!」
苛立ったように答えるヴィクトルを見てエレノアは口を閉じた。
「愛は求めるな」「僕の交友関係には干渉するな」
けれど_____
「妻として自分のそばに立ち、自分の顔を立てろ」
確かに"立場”が違う。そういう意味では、ヴィクトルの言葉は正しかった。ただしその”立場の違い”は、エレノアが想像していた夫婦という関係からすると随分異質なものだった。
「それからもう一つ。まあこちらが本題だが来週から、週に二度はこちらの家へ来てくれないか」
「ヴィクトル家へ・・・ですか?」
「屋敷のことを覚えてもらうために必要なことだろう?」
エレノアは当然のような口調で話し続けるヴィクトルを唖然として見つめることしかできなかった。
「結婚したら、屋敷を取り仕切るのは君になる。使用人の配置や予算、食料の仕入れ、客人への対応……覚えることはいくらでもあるじゃないか?」
「そ、それは理解しておりますが」
「なら問題ないな!」
「ですが、週に二度というお話は初めて伺いました!しかも来週からなんて」
エレノアは仮にも伯爵令嬢だ。自分の予定だけでなく家族や領地に住む民のためにしなければならないことが山ほどある。
まして結婚まではまだ半年近く残っており、今が引き継ぎなどで最も忙しいのだ。
「私にもハーディング家でやるべきことがございます。毎週二日となると、すぐには――」
「結婚するんだから、そのくらい調整してくれ。」
ヴィクトルはため息をついた。
「君はラウゼン家の妻になるんだろ?そのぐらいは融通を利かせてくれないとこの先やっていけないぞ」
エレノアはそこでやっと気づいた。
ヴィクトルが自分の自由を主張するときは、――政略結婚なのだからと言い張り、エレノアへ何かを要求するときは、――妻になるのだからと宣う
いつもその立場が変わるのだ。けれど、どちらもヴィクトルにとって都合のいい結論へ向かう。
「・・・ヴィクトル様。あなたは、この結婚で私に何を求めているのですか?」
彼は怪訝そうな顔をした。
「何って……妻としての役目を果たしてほしい。ただそれだけじゃないか・・・!」
「では、あなたは夫として何をなさるのです?」
「はあ?どういう意味だ?なぜ僕が君に何かをしなくちゃならないんだ?」
本当に分からないらしい。その様子を見たエレノアは静かに尋ねた。
「私があなたの交友関係について何も言ってはならない理由は、私達の関係が”政略”結婚だからなのでしょう?ですが私には、婚約者としてあなたの顔を立て、結婚後は妻として屋敷を管理する義務がある」
「当然だろう」
「あなたには自由があり、私には義務があるのですね」
ヴィクトルは不快そうに眉を寄せた。
「わざわざそんな言い方をするなよ」
「では、どう言えばよろしいのでしょう?」
「だから”政略”結婚とはそういう物なんだから・・・!もうお互いに割り切ればいいだけだろう」
エレノアはもう反論しなかった。ただ一つだけ、頭の中に浮かんだ疑問を持ち帰った。
――では、本当に必要なのは結婚なのだろうか。
その夜のうちに自分の領地に戻ったエレノアは父の書斎で、両家の婚約に関する古い書類を広げていた。
街道利用
河川港の使用権
領地を越えて運ばれる商品の通行税
凶作時における食料の融通
両家の婚約によって安定させようとしていたものを、一つずつ確認していく。ハーディング家にとっても、ラウゼン家にとっても、関係が悪化すれば少なくない損失が出る。
だから政略結婚する。
エレノア自身、ずっとそう教えられてきた。
けれど・・・
「……これ、わざわざ婚姻でなければならないのかしら」
口に出してみると、驚くほど単純な疑問だった。翌日、エレノアは伯爵家に仕える法務担当者を呼び出し尋ねた。
「両家が婚姻を結ばずとも、現在予定されている利益を維持する方法はありますか?」
法務担当者は少し考えた後、答えた。
「はあ、まあ・・・無いと言えば嘘にはなります。かなり面倒ではありますが、婚約によって将来的に統一される予定の取り決めを、両家間の正式な協定として結び直し・・・そして強力な第三者によって仲介してもらうことができれば・・・」
その後、エレノアはいくつもの説明を受けた。
婚姻によって家同士を結びつける方法は、確かにシンプルで分かりやすい。だが、交易や通行税、港の利用までが婚姻でなければ成立しないわけではない。
むしろ細かな条件については、正式な協定として文書化した方が明確になる部分さえあるという。
「ただし、当然ながら双方の伯爵家が同意し、伯爵家に対して格の落ちない第三者に仲介をお願いする必要があります・・・なぜ急に、このようなことを?」
エレノアは少し考え、そして答えた。
「政略結婚について、改めて考えてみたくなったのです」
それからエレノアは父であるカイゼルに事の経緯をすべて話した。
ヴィクトルを悪人として訴えたわけではない。
ただ彼が望んでいる結婚の形と、自分が望む結婚の形が違うことを伝えた。そして婚姻をやめても両家の利益を残せるよう、法務担当者と作った協定案を差し出した。
「・・・本当にこれでいいのか?婚約を解消すれば、ヴィクトル殿と結婚することはなくなる。」
「・・・私は、それを望んでおります」
カイゼルは愛する娘を見つめた後、静かに頷き協定案を机へ戻した。
「ハーディング家として、この案をラウゼン家へ提示しよう」
エレノアは深く頭を下げた。
数週間後両家の代表者と両家の貿易摩擦による経済の低迷を危険視していた王家による話し合いが行われた。
彼女がしたのは、
――政略上の利益と婚姻を分ける。
その提案だけだったが最終的に、両家には断る理由もなくその案に合意した。
協定が合意された日の翌日エレノアはヴィクトルを呼び出した。
「それで・・・話とは何だ?」
いつもの応接室だがヴィクトルは機嫌が悪そうだった。
「最近、妙な話を聞いたぞ。ハーディング家とうちが、新しい協定を結んだそうじゃないか?まったく婚約しているのに、どうしてわざわざそんなものを作る必要がある?この件には宰相殿も一枚噛んでいるそうではないか・・・」
エレノアは目の前の男性を見つめ、そして穏やかに答えた。
「ヴィクトル様。あなたは以前、私におっしゃいましたね・・・私たちは”政略”結婚なのだから、愛など必要ないと」
「ああ。それが?」
「私も、その通りだと思うことにいたしました」
ヴィクトルは怪訝そうに眉を寄せ疑問の顔を浮かべる。
「私、エレノアはあなたとの婚約を解消いたします」
ヴィクトルは何を言われたのか理解できていないようにとぼけた声を上げた。
「……は?ちょっと待て!」
ヴィクトルが身を乗り出す。
「何を言っているんだ?そんなことをしたら、両家の関係はどうなる!」
エレノアは用意していた書類を机の上に置いた。
「こちらをご覧ください」
ヴィクトルが乱暴に手に取るが数枚めくるにつれて、その顔から勢いがどんどん消えていった。
「こ、これは……」
「両家で正式に締結された協定です」
「これじゃあ、婚約がなくても……」
「政略上の目的は、ほぼすべて達成できますね」
ヴィクトルは書類と静かに微笑むエレノアを交互に見た。
「だからもう、私たちが結婚する必要はございません」
「そ、そんな馬鹿な話があるか!」
ヴィクトルが立ち上がった。
「政略の問題が片付いたからって、どうして婚約まで解消する必要がある!これじゃあ僕が妻に逃げられたみっともない男だと思われるじゃないか!」
「婚約を解消するのは・・・婚約の必要がなくなったからですよ。以前おっしゃったのでしょう?」
エレノアの声は最後まで穏やかだった。
「私たちの結婚に必要なのは、愛ではなく”政略”なのだと」
「そ、それはそうだけど! だからこそ――」
「その”政略”は、もう協定で成立しております」
ヴィクトルは口を閉じた。
「だが僕たちは、これまで結婚の準備をしてきただろう?ならそのまま結婚すればいいじゃないか!」
「なぜです?」
「な、なぜって……?」
ヴィクトルの声が大きくなる。
「君は僕の妻になるんだぞ! ラウゼン家の屋敷を管理して、夜会では僕を支えて――」
エレノアはその言葉を待っていたかのように答えた。
「協定は両家が利益を受け、両家が義務を負います」
ヴィクトルは黙ってその言葉を聞いている。
「ハーディング家も利益を受けますが、同時に約束を守る義務を負う。ラウゼン家も同じです。もし義務を疎かにすれば王家から厳しい目を向けられることでしょう。」
「……当たり前だろう」
「ええ。そうですね、これは当然のことです。ですが、あなたがお望みの”政略”結婚は違いました」
ヴィクトルの表情が強張る。
「私だけが妻として義務を負い、あなたは『政略だから』と夫としての責任を負わない」
「そんなことは――」
「あなたが誰と親しくなさろうと、私は口を出してはいけない。けれど私は社交の場であなたのそばに立ち、あなたの顔を立てなければならない」
「それは妻なら普通の――」
「結婚後は、私があなたの屋敷を管理する。それも妻なのだから当然だとおっしゃいましたね」
「だから、それは――」
そこでエレノアは初めて彼の言葉を遮った。
「・・・では、あなたは夫として私に何をしてくださり、どんな義務を負うのですか?」
ヴィクトルの口が開くが言葉は出なかった。
エレノアはその沈黙を見て、小さく息を吐いた。
「私は、愛のない”政略”結婚そのものを嫌だとは思いません」
それは本心からの言葉だった。
「恋愛感情がなくても、お互いを尊重し、お互いに役目を果たす夫婦ならば、それも一つの結婚の形だと思います」
エレノアは机の上の協定書へ目を落とした。
「けれど、あなたがお望みなのは違う」
それからヴィクトルを見る。
「あなたには自由があり、私には義務がある。その理由を尋ねれば『”政略”結婚だから』で終わる」
「エレノア……やめてくれ・・・」
「でしたら私は、あなたとの結婚より、この協定を選びます」
ヴィクトルの顔から血の気が引いた。
「待ってくれ!」
初めて、その声に焦りが混じった。
「話し合おう!君が嫌だったなら、少しくらいは考え直してもいい!」
「少しくらい?」
「いや、そういう意味じゃない。僕も……僕だって、君の意見を聞く」
「もう必要ございませんわ」
ヴィクトルは机を叩いた。
「”政略”結婚なんだから、多少のことは割り切るものだろう!」
エレノアは彼を見つめて、ほんの少しだけ笑った。その顔を見て何を期待したのかヴィクトルの表情がわずかに緩んだが続いた言葉に、それはすぐ消えた。
「ですから私も、割り切ることにいたしました」
エレノアは協定書へ手を添える。
「『政略結婚に愛など不要』――おっしゃる通りですわ」
そして、婚約者だった男へ最後に告げた。
「ですが、そんな協定以下の”結婚”は御免被りますわ。それではさようなら、”元”婚約者様」
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