4話 売った思い出、買った未来
風呂から上がり、バスタオルで体を拭いていると、控えていたメイドが恭しく服を差し出してきた。
「お召し物を。以前の服は、こちらで洗濯しておきますので」
手渡されたのは、見るからに上質な布地で仕立てられた、貴族風の衣服だ。
シャツの白さが目に痛い。ズボンの折り目もビシッとしている。
「……これを俺が着るのか?」
「はい。リシェルお嬢様が、カイ様のためにご用意されたものです」
俺は少し躊躇した。
普段着ている、潮風でゴワゴワになった船衣とは次元が違いすぎる。
汚したら弁償、とか言われたら破産確定だぞ。
「『お召し物』だってよ。ただのボロ布しか着たことないのにな」
脱衣所の棚で羽繕いをしていたノアが、ここぞとばかりに茶化してくる。
「……うるさい。借りるだけだ」
俺は小声で言い返し、恐る恐る袖を通した。
──軽い。
そして、滑らかだ。
肌に触れる感触が、まるで水そのものを纏っているかのように優しい。これがシルクとかいうやつか? 船の上じゃ絶対にお目にかかれない代物だ。
着替えを終えると、今度は濡れた髪だ。
メイドが不思議な筒状の装置を取り出した。スイッチを入れると、ブォーッという音と共に先端から温かい風が吹き出してくる。
「失礼します」
彼女が手際よく俺の髪を乾かしていく。
なんだこれ、すげえ。一瞬で乾いていく。
「すげえな……乾燥用魔導具か」
ドラ……? 熱風の向こうで、ノアが感心したような声を上げた。
確かに、こんな便利な道具は見たことがない。
魔石を燃料にしているんだろうか。仕組みが気になる。サーベイヤーとしての血が少し騒いだが、今は大人しくされるがままだ。
最後に、香水を軽く振られる。
甘すぎず、強すぎず、柑橘系の爽やかな香り。
仕上げが終わると、俺は姿見の前に立たされた。
鏡の中には、見知らぬ男が立っていた。
仕立ての良い服を着て、髪を整え、清潔な香りを纏った男。
うーん……黙っていれば、ギリギリ貴族に見えなくも……ない、か?
少なくとも、門番が蔑んだ目で見てくることはないだろう。
「……ぷっ」
ノアが吹き出した。
「なんだよ」
「いやいや、まさに『馬子にも衣装』だなと思ってさ」
俺は眉をひそめた。
「孫? 俺、まだ子供もいないのに孫なんて気が早いだろ」
「……あー、うん。そういう意味じゃねえよ。まあいい」
こいつの言葉はたまによく分からない。
「どうだ、カイ。地上の香りに包まれた潮の子よ」
「……悪くない」
俺は鏡の中の自分を、もう一度見つめ直した。
たかが服、たかが香りだ。
中身は何も変わっていない。ただのウミビトのままだ。
けれど──不思議なものだな。
良いものを身につけただけで、背筋が伸びるというか、自分の価値が少しだけ上がったような気がした。
これなら、あのお嬢様と並んで歩いても、恥はかかせないですむかもしれない。
俺は襟元を正し、少しだけ胸を張って脱衣所を後にした。
メイドに案内され、食堂の扉をくぐる。
そこには、既に席に着いたリシェルが、花が咲いたような笑顔で待っていた。
「すまない、待たせたか?」
「いいえ。八年間待ち続けましたから、それに比べれば瞬きのようなものです」
……重い。
笑顔でサラリと言われた言葉の質量に、俺はたじろいだ。
冗談に聞こえないのが、このお嬢様の怖いところだ。
促されるまま、長テーブルの対面──といっても距離は近い──に座る。
目の前には、煌びやかな銀食器がずらりと並んでいた。
「……悪いな。正直、テーブルマナーなんてものは知らないんだ」
俺が正直に申告すると、リシェルは悪戯っぽく微笑んだ。
「ええ、分かっています。だから──」
彼女が合図を送ると、ワゴンが運ばれてきた。
銀の覆いが外される。
そこにあったのは、宮廷料理のようなフルコース──ではなく、大皿に盛られた魚介の煮込みと、焼き立ての堅焼きパンだった。
「これ……」
漂ってくる磯の香りと、湯気。ウミビト風の煮込み料理だ。
洒落たソースの匂いではなく、俺にとって一番落ち着く「飯」の匂い。
これなら、ナイフやフォークの順番を気にせず、匙一本で食える。
「……気を使わせたな。ありがとう」
「ふふ、どういたしまして」
俺たちは食事を始めた。
懐かしい味だ。地上の高級調味料を使っているせいか、船で食べるより数段美味いが、本質は変わらない。
「そういえば、ウミビトを積極的に雇ってくれているらしいな。……礼を言うよ」
「いいえ、そんな。私がそうしたかっただけですわ」
リシェルの口調は控えめだが、その瞳には強い意志が宿っていた。
「あの、リシェル様は……」
「カイ。昔のように、『リシェ』と呼んでくださいな」
「……」
少し困って視線を逸らすと、彼女は楽しげに笑った。
「それを言うなら、リシェの方も普通に話してくれないか? その、敬語だと背中がむず痒い」
「そうね、そうするわ。……でも、お父様の前では内緒よ?」
ふふっ、と笑い合う。
八年という時間は長いが、こうして話していると、あの頃の距離感が戻ってくるような気がした。
食事が終わり、デザートの果物が運ばれてきた頃だった。
控えていたセバスが、うやうやしく盆を持って歩み寄ってきた。
盆の上に置かれていたのは、青い宝石があしらわれた、アストリア家の家紋入り髪飾り。
俺の心臓が、ドクリと嫌な音を立てた。
「あ……それは」
見覚えがあるなんてもんじゃない。
八年前、別れ際にリシェルが渡してくれたものだ。『私だと思って、忘れないで』と言って。
だが、俺の手元にはない。なぜなら──。
「半年ほど前、闇市のオークションに出品されていたのを当家が買い戻しました」
セバスの声は静かだが、目は笑っていない。
貴族の家紋が入った装飾品だ。それを下賜された庶民が売るなんて真似は、不敬も不敬。
家名を泥で汚すに等しい、最大級の侮辱行為と言っていい。
本来なら、この場で手打ちにされても文句は言えない状況だ。
「てっきりカイが死んで、遺品として流れたのかと思ったわ」
リシェルも笑顔だが、目が据わっている。
これはまずい。非常にまずい空気だ。
ノアが「うわぁ」と呟いて、俺の視界からフェードアウトした。薄情な鳥め。
俺は観念して、息を吐いた。
「……すまない。俺が売った」
「…………」
室内の温度が三度くらい下がった気がする。
だが、嘘をついても仕方ない。
「どうしても、金が必要だったんだ」
「お金……?」
「ああ。この街までの旅費と、そして何より──『これ』を手に入れるための受験料が」
俺は懐から、一枚の金属プレートを取り出し、テーブルの上に置いた。
ゴトリ、と重い音が響く。
世界政府公認、境界測図師ライセンス。
「……え?」
リシェルが目を丸くした。
セバスも、冷静な仮面を崩して目を見開いている。
「本物、なの……?」
「今週、取ったばかりだ」
俺は髪飾りへと視線を移した。
「あいつを売った金で、俺は船を買い、機材を揃え、試験を受けた。……そうしなけりゃ、この屋敷の門をくぐる資格すら得られなかったからな」
ただのウミビトのままでは、貴族の娘には会えない。
思い出の品を抱えて一生を終えるより、それを売ってでも、対等に会える未来を選んだ。
……まあ、かなりバクチではあったけど。
リシェルが、震える手でライセンスに触れた。
「……カイ。貴方、まさか私に会うために……?」
「勘違いするなよ。俺は世界が見たかっただけだ」
俺はそっぽを向いて、コーヒーを啜った。
嘘ではない。
けれど、一番最初の目的地がここだったことも、また事実だ。
「……馬鹿」
リシェルが涙声で呟き、それから愛おしそうにライセンスを胸に抱いた。
どうやら、断罪は免れたらしい。
俺は安堵の息を、コーヒーの香りと共に飲み込んだ。




