38話 岩窟の酒場『地底灯《アンダー・ランタン》』
ドックに戻り、買い込んだ食料を降ろす。明日には『ミストラル』へ向けて出航だ。
愛船『白鯨』の前で始まったのは、メルディ総監督による『極上の保存食作り』と、一週間分の物資の搬入。
壮絶かつ、地味極まりない数時間の重労働。
だがそれは、過酷な旅で生き残るために欠かせない、命を繋ぐための準備だ。
「まずは、キャベツの瓶詰め。『航海酸菜』作りですね! 対策しないと『壊血病』になりますから」
「スカーヴィ?」
エルゼが首を傾げる。
「ああ、大陸人は知らんのか。船なんかの閉鎖空間で暮らしてると野菜不足になってな。皮膚に紫の斑点が浮き出る。その後、歯茎がブヨブヨしたスポンジみたいに腐って、歯がポロポロ抜け落ちる病気だ。俺たちは『海腐れ病』と言ってるが」
エルゼが露骨に顔をしかめる。だが、俺はさらに追い打ちをかけた。
「そして、一番恐ろしいのは『古傷が開く』ことだ。何年も前に治ったはずの切り傷や骨折が、突然、治療する前に戻ったみたいにパックリ口を開けて、血を噴き出すんだよ」
その言葉に、エルゼとロイドが自身の体をさすった。
戦いに生きる彼らの体には、数えきれないほどの古傷がある。それが全て開くなど、想像するだけで致命傷だ。
「……わかった。キャベツね。キャベツを詰めましょう。死ぬ気で詰めましょう」
「ええ、これを食べれば大丈夫です!」
メルディは樽の中に、山盛りのキャベツの千切りと大量の岩塩を放り込むと、自身の体重をかけてギュッギュッと力一杯押し込み始めた。
「こうして塩で揉んで、野菜自身の水分を出し切るんです。空気に触れないようにギチギチに詰め込めば、腐りません。壺に移して密閉すれば、常温でも半年はシャキシャキのまま持ちますよ!」
続いて、木箱から取り出したのは大量の緑色の果実、『サザン・ライム』だ。
南の大陸特産の、ゴルフボールほどの大きさの柑橘類で、船旅には欠かせない貴重な酸味である。
「絞った果汁はすぐに腐ってしまいます。というわけで、エルゼさん。『蒸留酒』を少しカンパしてください」
「えっ!? 酒を!?」
「腐敗防止です! アルコール漬けにすれば、常温でも鮮度が保てますから!」
渋るエルゼから酒瓶を奪い取り、メルディは果汁にドボドボと酒を注ぎ込む。
さらに、三枚におろしたトビウオは、塩と南の香辛料をふんだんに使った特製のタレに漬け込まれ、樽へと収められていく。
こちらは時間が経つほど味が馴染んで、美味くなる寸法だ。
仕上げに、船底へ重り代わりのエルゼの酒が積み込まれる。
「……ふぅ。これで全部か」
作業が終わる頃には、空は茜色に染まっていた。
船内は完璧に整頓され、トビウオの脂とスパイスの香り、爽やかな柑橘、そして微かな酒の匂いが漂っている。
「完璧です! これなら一週間、最高の食事が楽しめます!」
メルディが完成した食材の樽を抱きしめ、満足げに鼻を鳴らした。
先人の知恵と、俺たちの労働力の結晶。
これで、どんな空の旅になろうとも食い扶持だけは安泰だ。
◇
「今日でゼファーともおさらばだ。どこかに繰り出すか?」
「賛成ッ!」
エルゼが景気よく声を上げ、ロイドも静かに首肯する。
「そ、それじゃあ、祖父の行きつけだった店があるんです。そこに行きませんか?」
メルディの案内で向かったのは、街の喧騒から外れた、巨大な岩盤の裂け目だった。
岩をくり抜いた入口に、古びた木の扉が埋まっている。
看板には『地底灯』の文字。
(空に浮かぶ島で、わざわざ地面を掘って、暗い地底に潜り込むとはな……)
人間というのはどこまで行っても「大地」や「穴蔵」が恋しい生き物らしい。
そんな呆れを含んだ感想は──重い扉を開けた瞬間、消え去った。
「うわぁ……! 綺麗!」
エルゼが感嘆の声を上げる。
そこは、巨大な岩盤をくり抜いたドーム状の大空間だった。天井を埋め尽くすのは、まるで星空をそのまま切り取ってきたかのような、無数のランタンの群れだ。
揺らめく暖かなオレンジ色の光が、湿った岩肌の凹凸に乱反射し、地底湖の底から見上げる水面のような、幻想的な陰影を作り出していた。
視線を下に巡らせれば、そこは混沌の坩堝だ。
ジョッキを掲げて歌う荒くれ者の集団、怪しげな航空海図を広げて密談する商人たち、腕相撲でテーブルを揺らす巨漢の戦士。給仕の女性が、曲芸のように料理の皿を積み上げて人波を縫っていく。
冒険者たちの熱気あるざわめきと、鼻を突くスパイスと酒の匂い。それらが洞窟特有の反響音となって渦巻き、俺たちの鼓膜を心地よく震わせた。
「祖父はよく、ここで空の地図を広げていました。『空は広すぎるから、たまには天井がある場所で酒を飲まないと、魂が飛んでいく』って」
「……なるほどな。一理ある」
俺は苦笑しながら、天井を見上げた。
明日からは、逃げ場のない無限の大空へ飛び出すのだ。
その前に、この少し窮屈で、どこか母親の胎内のような温かさに浸るのも悪くない。
「いい店だ。マルタン師は案外ロマンチストなんだな」
俺たちはランタンの灯りに導かれるように、奥のテーブル席へと足を踏み入れた。




