36話 空賊女帝ドロテア
残りの二周を走り、俺たちは宿へと戻った。
重りを背負い、昨日以上の負荷があったはずだが、所要時間はそこまで変わっていない。体がこの薄い空気に順応し始めている証拠だろう。
ちょうど昼時、メルディも『白鯨』の調整を一時中断して戻ってきていた。
今日の昼食は、宿の女将自慢の飛魚の香草焼きのようだ。空で獲れる魚は意外なほど歯ごたえが良く、香草の香りが空腹を刺激する。
「いただきます」
四人で声を揃え、食事を始める。
「どうですか? 身体の方は」
メルディが、眼鏡の奥の瞳を細めて聞いてくる。
「昨日よりはだいぶマシになったな。この空気にも慣れてきた」
俺が答えると、あれほど不満たらたらだったエルゼも頷いた。
「それにしても、空に上がってすぐにマザー・ドロテアの名を聞くとはね」
エルゼが何気なく漏らした言葉に、メルディが首を傾げる。
「何か……あったんですか?」
「ああ、少しロイドが揉めてな」
その瞬間、スープを飲んでいたメルディが「ぶっ!」と派手にならした。
「えっ!? な、なんで……あの、あのマザーと!?」
「──目に余る不正を放置できなかったもので」
ロイドは相変わらず爽やかな顔で、行儀よくナイフを動かしている。その隣で、ノアが面白そうに羽根を震わせた。
「ククク、心配すんなメルディ。相手の腕をひねり上げて地面に叩きつけて、『西の恥』だって言っただけだ」
「ひ、ひ、ひぇっ……!? なんでぇ? なんでそんなことするのぉ……!」
メルディが頭を抱えてテーブルに突っ伏した。
「ところで誰なんだ、そのマザー・ドロテアって」
俺が問いかけると、三人同時に「えっ」という顔をした。そんなに有名人なのか。
「そ、蒼穹のドロテア様ですよ!?」
メルディが裏返った声で叫ぶ。
「空賊女帝、ミグルーの首切り女。そんな言い方もあるけどね。西の大陸じゃ、赤ん坊でも知ってる名前よ」
エルゼが肩をすくめて補足した。
「初耳だな」
「ククク。俺たちはこの大陸に来てまだ半月だぞ。知らんな」
俺はノアと顔を見合わせる。
「あんたは、不思議なことを沢山知ってるのに、知識が偏ってるね」
エルゼが呆れたように溜息を吐く。
確かに、俺の知識はノアから聞いたことや書物で得た、昔から続く不変の情報ばかりだ。物理法則や遺跡の構造には詳しくても、最近の政治情勢や、誰が幅を利かせているかといった流動的な話には疎い。
「ドロテア様は、西の海でミテネ諸島を発見、ガイロ鉱石群の採掘法を確立、さらには数多の未踏域を平定……その功績は挙げればキリがないほどのゴールドランクサーベイヤーです」
ロイドが姿勢を正し、淀みなくその経歴を口にする。
「元々は王国の正規軍人でした。彼女はかつての戦時中、ミグルーという砦の投降兵を、規律違反を理由に一人残らず処刑したと言われています。──それゆえの『首切り』。潔癖にして冷酷。西の大陸では、言うことを聞かない悪い子の所には空からドロテア様が来るぞ、と言って躾けられるのが一般的です」
「投降兵を皆殺しか。軍人としての冷徹さが、そのまま恐怖の象徴になってるわけだな」
俺が他人事のようにそう言うと、メルディは一層顔を引きつらせた。
「とはいえ、アイツらもただの小銭稼ぎだろう。お互い水に流せたと思うが」
俺は、さっきの広場でのやり取りの詳細をメルディに話した。アストリア家の名と、マルタン師の船を譲り受けたことを出した瞬間に、彼らが掌を返したことも含めて。
「う、うーん……。確かにそれなら、向こうに非がある気もしますけれど……」
「ああ、バズズ達は勝手に看板の名前を使って悪事を働いていたんだろうからな。これでドロテアが出てくるとは思えん。むしろ大事になったら困るのはアイツらの方だろう」
俺はそう言って、冷めかけたトビウオを口に運んだ。
そして一息つくと、まだどこか高揚感の残る顔をしているロイドへ、視線を向ける。
「だけど、ロイド。一つ言っておく」
俺の声に、ロイドは箸を止め、居住まいを正した。
「今回の件、お前の行動自体は間違っていない。アストリア家の名を背負うものとして、当然の振る舞いだ。リシェやシリウス様でもそうしただろう……」
意外そうな顔をしたロイドに対し、俺は言葉を続ける。
「だが、今後は一つだけ頭に入れておけ。今回はたまたま相手がこっちより格下のチンピラだったから良いがな。向こうみずに突っかかるな。……周りに迷惑をかける。俺ならともかく、アストリア家にまで迷惑をかけるのは、お前の本意じゃないだろう?」
ロイドは深く、噛みしめるように頷いた。
「──カイ様のおっしゃる通りです。己の正義に酔い、周囲への配慮が欠けておりました」
「……ま、相手がドロテアの名を盾にしたように、俺も自分の名前一つで相手を黙らせられるようになればいいだけなんだがな。そうすれば、お前の正義感をもっと自由にさせてやれるだろうし」
俺が冗談めかして言うと、肩の上でノアがニヤニヤと笑った。
「そうだな。カイ、お前がもっと頑張れ。アストリア家の威光じゃなく、『カイ』の名を聞いただけでハイエナどもが逃げ出すくらいにな」
「わかってるよ」
俺が苦笑すると、それにつられて皆が笑った。
食卓の空気が、ようやく和やかなものへと変わっていった。




