34話 幸せな息苦しさ
暖かい宿の門を叩き、ようやく安息が得られると思ったのも束の間。宿帳に名を記し、荷物を置くや否や、俺たちは再びゼファーの刺すような冷気の中へと連れ出された。
トレーニングの場は島の外周──断崖絶壁に沿って設えられた、この島の住人たちの生活道路だ。道幅は三メートルほど。落下防止の柵なんて親切なものは存在しない。一歩踏み外せば、そこは雲海の底へと直行する片道切符の奈落だ。
「よし、それじゃあ、スタート、です」
メルディがパチンと手を叩いた。
その瞬間、金髪をなびかせたロイドが眩いばかりの笑顔で地を蹴った。
「了解です! 自分、ランニングは訓練で毎日やってますから余裕ですよ!」
「あ、ちょっと待ちなさいよ! なんでそんなに元気なのよあんたは!」
呆気にとられるエルゼを置き去りにして、ロイドが風のように遠ざかっていく。俺も深く息を吸い込み、その背を追った。
──だが、異変はすぐに訪れた。
「……っ、ぐ……」
胸が痛い。肺の奥に、熱した鉄を流し込まれたような熱さが広がる。
地上と同じペースで走っているつもりなのに、心臓は全力疾走の後のように激しい警鐘を鳴らしていた。
「カイ、呼吸を整えろ。吸う息の量と吐く息の量の比率を一定に保つんだ」
肩の上で、ノアが平然とした声でアドバイスを投げかけてくる。羽ばたきもせず、俺の肩を止まり木にしているこいつだけは余裕そうだ。
「……わかってる。空気が、薄いな」
「そうだな」
一周、十キロ。
景色を楽しむ余裕なんて微塵もない。
ふと前方に目をやると、あれだけ勢いよく飛び出したロイドが、早くも千鳥足でフラついているのが見えた。
「カイ様……! おかしい、です……こんな……すぐにッ! ……息、がッ!!」
「……喋らなくていい。ペースももっと落とせ」
こいつ、メルディの説明をこれっぽっちも理解していなかったのか。
ロイドは顔を真っ赤にし、滝のような汗を流しながらも、引きつった笑みを浮かべてこちらを振り返った。
「いえ! 自分はアストリア家筆頭兵士! この 程度……ッ! 見ていてください、カイ様ッ!」
筆頭と言われたのが余程嬉しかったのか、それとも初めての旅という開放感が彼を突き動かしているのか。
空回り気味のテンションだが、未知の土地へ足を踏み入れた時の高揚感だけは、俺にもよく理解できた。
空中都市──。子供の頃、リシェから聞かされていた憧れの地の一つ。一部の人間しか足を踏み入れることの叶わないその場所に、今、俺は立っている。肺を焼くような苦しい呼吸の合間に、その事実がじわじわと実感として湧き上がってきた。
二周、三周と回るうちに、流石のロイドも口数が減っていく。
だが、四周目を回る頃、俺の感覚に変化が訪れた。
限界まで追い込まれた肺が、強引に酸素を求めて拡張される。脳が、希薄な酸素環境を「異常」ではなく「基準」として上書きし始める感覚──。
視界がクリアになっていく。
ゼファーを流れる風の向き。気圧の微細な変化。
海の上で潮の流れを読み取るように、少しずつ、だが確実に「空」という領域を捉え始めていた。
「どうした、ご機嫌だな相棒」
どうやら、知らずに頬が緩んでいたらしい。肩に乗るノアが、からかうように突っ込んできた。
「いや、なんか幸せな気分なんだ。こんな遠くまで来られるなんてさ。南の海にいるときは、思いもしなかった」
眼下を覗けば、雲海の切れ間に沈みゆく太陽が、幾重にも重なる雲の層を黄金や紫、緋色へと染め上げている。海よりも深い紺碧の影が、ゆっくりと街を飲み込んでいく光景は、息を呑むほどに美しかった。
「ククク、ランナーズハイってやつだな。でもさ、お前はもっと遠くまで行けるよ」
「そうかもな。……ノア、ありがとうな」
「なんだよ、気持ち悪いな」
「いや、お前と出会わなかったら、俺はここには来られなかったと思う」
「……お互い様だ」
汗が冷え、夜の冷気が薄いシャツを通り抜けて肌を刺す。だが、その冷たささえもが、自分が今、世界の屋根の上に立っている証のように思えて誇らしかった。
──そうして、夕闇が島を包み始める頃。俺たちはボロ雑巾のように、宿の前へと辿り着いた。
「あ……お疲れ様、です。皆さん、ちゃんと完走したんですね……えへへ」
メルディが宿の入り口で、相変わらず、悪気の一切ない無垢な笑顔で俺たちを出迎えた。
ロイドは膝をつき、肩で激しく息をしながらも、親指を立てていた。
「……メルディ。一つ、聞いていいか」
「は、はい……何ですか、カイさん?」
「これ、明日もやるんだよな?」
「もちろんです。……明日からは、皆さんのリュックに『重石』を詰めてもらいますね。その方が、効率がいいですから」
眼鏡の奥で、彼女の瞳がキラリと光った。無自覚な鬼軍曹の誕生である。
「嘘でしょ……。私はもう一歩も動けないわ……」
「ははっ、自分は……望むところ、です! もっと、追い込んでください……!」
地面に座り込むエルゼと、なぜか充足感に満ち溢れた顔のロイド。
俺は肩のノアを揺らしながら、これからの二日間が、文字通りの地獄になることを確信した。
◇
トレーニング二日目。
俺たちの背中には、メルディによって厳選された、ずっしりと重い石が詰められたリュックがあった。
「今日は負けませんよ、カイ様!」
「……ロイド、お前、その元気はどこから湧いてくるんだ」
俺は吐き出した息が瞬時に白く凍るのを見つめ、この環境下で何故それほど元気なのかと問いかけた。
「自分、この旅を思いっきり楽しむことに決めたんです!」
ふむ、確かにそれは大事なことかもしれない。
これから未知の領域を測量し、世界を広げる。
ならば、その道中は楽しむべきだろう。
ロイドは、キラキラとした笑顔を向けてくるが、額からは滝のような汗が流れている。無理をしているのではない。こいつは本気で、この極限状態を楽しんでいるようだ。
「……信じらんない。あんたたち、怪物か何かなの?」
数メートル後ろで、エルゼが呪詛のように呟く。彼女の自慢の赤髪は汗で肌に張り付き、Aランク冒険者としてのプライドも、今は酸素不足と重力の前に防戦一方のようだった。
三周目。港に近い広場に差し掛かった時、その「異変」に気づいた。
さっきまで、きびきびと動いていたハーフリンクたちが、一箇所に集まって何やら騒がしくしている。
「……何だ?」
俺たちは自然と足を止めた。




