32話 雲海を抜けて
ロイドと別れ、屋敷の重厚な扉を開けると、エントランスホールにリシェルの姿があった。
シリウスの見送りのあと、その場を離れず、兄の道中の無事を祈っていたのだろう。
扉越しに遠ざかる気配を想っているような、静かな佇まいだった。
「あら。おかえりなさい、カイ」
俺の姿を認めると、彼女はいつもの静かな微笑みを浮かべる。
「ただいま。シリウス様とは入れ違いで会えたよ」
「そう。……お兄様、いつも忙しそうでしょう?」
「ああ。だが、聡明なお方だ。決断も早い。アストリア家は安泰だな」
「ふふ、そうでしょう」
リシェルは誇らしげに目を細めた。
俺はその穏やかな表情を見つめ、一呼吸置いてから本題を切り出した。
「リシェに伝えておきたいことがある」
小首を傾げる彼女に、俺は告げる。
「俺は明後日から『空』へ行くことにした」
「──空へ?」
彼女は驚きの声を上げることも、動揺を見せることもなかった。
ただ静かに、その大きな瞳で俺を見つめ返し──やがて、納得したように小さな吐息を漏らす。
「そう……行くのね」
「ああ。それと、ロイドも連れていく。あいつの希望だ。シリウス様には話を通した」
「ロイドも……」
リシェルは少しだけ意外そうに瞬きをしたが、すぐに柔らかな笑みを深めた。
「あの子、貴方に感化されたのね。……わかったわ」
彼女は一歩、俺の方へと歩み寄る。
「空はどこまでも風が自由で、不思議が一杯あるわ。……カイの目には、どう映るかしら」
「ああ、しっかりこの目に焼き付けてくるさ」
「ええ、お願い」
リシェルは俺の手を取り、祈るようにぎゅっと握りしめた。
その瞳には、揺るぎない信頼と、ほんの少しの切実な色が混じっていた。
「……必ず、帰ってきてね」
「ああ。約束する。アストリア家の繁栄に貢献しなきゃな」
俺が茶化すようにそう言うと、彼女は少しだけむっとしたように唇を尖らせた。
「そんなこと、どうでも良いわよ。無事で帰ってきてくれれば良いの」
念を押すようなその言葉はありがたいが、居候の身としてはそうも言ってられないのが現実だ。
俺は苦笑い混じりに、力強く頷き返した。
こうして、長い一日が終わった。
明日は一日、出発の準備に追われることになるだろう。
そして明後日──いよいよ、未知なる空への旅が始まるのだ。
◇
翌日、俺たちは死ぬ気で準備に奔走した。
マルタンから渡された指示書に従い、防寒具、酸素飴、保存食に燃料……。
市場と商会を駆けずり回り、必要な物資を確保するだけで一日は瞬く間に過ぎ去った。
そして、出発の朝。
アストリア家の正門前には、当主であるレグルス侯爵にスピカ夫人、そしてリシェル。後ろにはセバス率いる使用人一同が整列している。
たかが居候と一兵卒の出発にしては、いささか大袈裟な見送りだ。
「カイ、ロイド。期待しているぞ」
「ええ。吉報をお待ちください」
レグルス侯爵の激励と、リシェルの静かな微笑みに背中を押され、俺とロイドは深く一礼する。
俺たちはメルディをマルタンの屋敷へと迎えに行き、そのままリシュオンの街を見下ろす郊外の丘陵地帯へと向かった。
朝靄が立ち込める静寂な草原。
そこにはマルタンと数人の使用人、そして──朝日に輝く一隻の船が待っていた。
その巨体は地面から数尺ほど浮遊し、静かな駆動音を立てている。
流線型の美しいフォルムに、純白の装甲。船体は淡く発光していた。一見してわかる。これは、そこらの魔導船とは訳が違う。
「……すごいな」
俺が思わず呟くと、マルタンが愛おしげにその白亜の船を手で示した。
「魔導飛空艇『白鯨』。私がゴールドランクの境界測図師となった記念に、先代当主カノープス様より下賜されたものです」
「そんな大切なものを……」
俺は言葉を詰まらせた。
それは単なる船ではなく、マルタンの功績そのものだ。貰うのは重すぎる。
俺が躊躇していると、心情を察したのか、マルタンは穏やかに笑って首を横に振った。
「使っていただける方が、船も喜びます。主を失って朽ちていくより、空を泳ぐことこそが魔導船の本懐ですからな」
「……ありがとうございます。大切に扱わせてもらいます」
「うむ。ではカイ殿、孫を……よろしく頼みますぞ」
「ええ、任せてください」
俺は力強く頷き、仲間たちを振り返った。
ノアが肩に止まり、ロイドとエルゼがタラップの前に立つ。
老測図師は、孫娘の手を握りしめ、涙ぐみながら別れを惜しんでいる。
「よいかメルディ、決して無理はするなよ。カイ殿の言うことをよく聞くのじゃぞ」
「う、うん……お爺ちゃんも、元気でね」
準備は整った。あとは、行くだけだ。
「準備はいいな? ──さあ、行こうか」
「はいッ!」
「あいよ!」
「は、はいっ!」
三者三様の返事と共に、俺たちはタラップを駆け上がった。
◇
「魔導機関、接続。出力安定……い、いきます!」
ブリッジに入ったメルディが、操縦席で震える指を走らせ、次々と複雑な操作をする。
船体が低く唸りを上げ、ふわりと高度を上げた。
窓の外、見送るマルタンたちの姿が徐々に小さくなっていく。
「メルディ、頼んだぞ!」
「は、はいっ!」
彼女が舵輪を握りしめる。
ドンッ、と背中を蹴られたような加速Gがかかった。
白鯨は矢のように空へと駆け上がり、瞬く間にリシュオンの街並みが豆粒のように遠ざかっていった。
「うおおっ……!」
ロイドが窓に張り付き、声を上げる。
だが、感嘆している暇はない。すぐに視界は真っ白な霧に包まれた。
雲海への突入だ。
「揺れます! 舌を噛まないでください!」
メルディの悲鳴のような警告と共に、ガガガガッ、と船体が激しく振動する。
視界はゼロ。ただ暴風と冷気が窓を叩く音だけが響く。
「くっ、すごい風圧だねぇ! 船がバラバラになりそうだよ!」
手すりに掴まりながら、エルゼが叫ぶ。
「メルディ、これ大丈夫か!?」
「──行きます! 抜けてみせます、絶対!」
メルディは必死に舵を抑え込む。その小さな背中が、今は誰よりも頼もしく見えた。
白い闇の中、俺たちはただひたすらに上へ、上へと突き進む。
永遠にも感じる数分間。
やがて、その瞬間は唐突に訪れた。
フッ、と振動が消える。
直後、差し込んできた強烈な光に、俺は思わず目を細めた。
「──すごい」
誰かが呟いた。
視界を覆っていた白は眼下に広がる雲海となり、頭上にはどこまでも深く、澄み渡る群青の空が広がっていた。
そして、その青の中心に。
巨大な影が浮かんでいる。
岩塊と緑に覆われた、空飛ぶ大地。
いくつもの滝が雲海へと注がれ、虹を架けている幻想的な光景。
「あれが……空中都市、『ゼファー』……」
ロイドが震える声で名を呼ぶ。
ノアが俺の肩で翼を広げ、高らかに鳴いた。
俺は窓ガラスに手を当て、その圧倒的な光景を目に焼き付ける。
「ああ。ここからが本番だ」
こうして俺たちは──空の世界へと足を踏み入れた。
(第一章 完)
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
一章はこれで終わりで、いよいよ空の旅です。
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