31話 空から落ちてきた少女
一拍置いて、俺は懐かしむように目を細める。
「……だが、その嵐が出会わせたのは、俺とノアだけじゃなかった」
「ん? 他にも何かが?」
「ああ。俺が打ち上げられた海岸の反対側に──空中都市から、魔導船が一隻墜落していたんだ」
「それに乗っていたのが、幼い頃のリシェルとセバスだな」
ノアが補足するように口を挟む。
「俺が岩場で食料を探していたら、ノアが騒ぎ出したんだ。『おい、海で誰か溺れてるぞ!』ってな」
「溺れてる……まさか、リシェル様ですか?」
ロイドが息を呑む。
「ああ。生まれて初めて見る海に興奮して、船から飛び出したはいいが……そのまま溺れてたのを、俺が引っ張り上げたんだ。──ちなみに、セバスは船の中で失神してた」
あまりの無鉄砲さに、ロイドが顔を引きつらせる。
「幸い、墜落した魔導船には食料や物資がかなり残っていた。俺たちはそれを分け合って食いつなぎ、狼煙を上げて救助を待ったんだ」
「それで、うまくいったのかい?」
「ああ。狼煙に気づいた親父が駆けつけてくれた。……あの時の親父の顔は、今でも忘れられないな」
死んだと思っていた息子が生きていて、しかも西の大陸の貴族と執事、喋るカモメまで連れていたのだ。腰を抜かさんばかりに驚いていた。
「それから一月くらいかな。リシェとセバスは俺たちと船団で過ごしたんだが……」
俺は記憶を手繰り寄せるように、言葉を継ぐ。
「俺たちで西の大陸の近くまで送ってやって、そこで大勢の冒険者が迎えに来て、リシェは帰っていった」
俺はグラスに残ったワインを飲み干し、静かに告げた。
「それが、だいたい八年くらい前の話だ」
「なるほど、カイ様とアストリア家には、そんな経緯があったのですね」
ロイドが納得したように深く頷く。
「そのあとは、こいつの出番だ。リシェが帰ったあと、俺を他の遺物の場所へ案内し始めたんだ」
俺はやれやれと肩をすくめ、話題を切り上げた。
「さて、昔話はこれくらいにしておこう。明日は忙しくなるぞ」
感傷に浸るのはここまでだ。重要なのは過去の思い出ではなく、これからの未来──そして、目の前の仕事だ。
パン、と軽く手を叩き、場の空気を変える。
「マルタンに教わった通り、空への旅は海とは勝手が違うようだ。防寒装備、それに長期間の保存食……買い揃えるものは山ほどあるからな」
「了解。アタシはどこへだってついていくよ」
エルゼは気楽に手を挙げたが、ロイドは深く押し黙ったまま、視線をテーブルへと落としていた。
眉間に皺を寄せ、自身の剣の柄を強く握りしめている。
──測図師の旅についていく。それは常識的に考えれば、命知らずの無謀な挑戦だ。
兵士として、あるいは一人の人間として、この狂った旅路に同行すべきか、まだ葛藤しているのだろう。
俺はあえて彼には声をかけず、話をまとめた。
「よし──じゃあ、今日は解散だ。明日の朝、市場で落ち合おう」
その言葉に、ノアが慌てて残ったチーズを器用に放り込む。
俺は席を立ち、勘定を済ませるために出口へと向かった。
店を出て、夜道を歩く。
酒場の喧騒が遠ざかり、静寂が訪れる中、ずっと黙り込んでいたロイドが足を止めた。
「……カイ様」
その声には、迷いが消えていた。
俺の背中に向かって、彼ははっきりと告げる。
「私も、空へ参ります。貴方と出会ってから……私の世界はずっと、広がり続けています」
ロイドは真っ直ぐに俺を見つめ、言葉を継いだ。
「貴方と共に、もっと世界を見たい。それに──それが、もっとアストリア家の役に立つことにもなると信じています」
俺は振り返り、その真剣な瞳を受け止める。
そこにはもう、雇われ兵士としての義務感だけではない、一個人の意思が宿っていた。
「ああ、行こう」
短く答えると、ロイドは嬉しそうに、けれど深く力強く頷いた。
見上げる空には、薄い雲の切れ間から、微かに星が瞬いていた。
目指す『ゼファー』は、あの遥か彼方にある。
「……待ってろよ、空」
俺は新しい冒険への予感に、静かに拳を握った。
◇
屋敷の正門前には、豪奢な馬車が停まり、慌ただしく使用人たちが荷物を積み込んでいた。
どうやら、シリウスが王都へと発つところらしい。
「あ……」
俺の隣で、ロイドが気まずそうに足を止める。
護衛任務とはいえ恩人の旅立ちの時に外出して外食していたのだ。バツが悪いのは当然だろう。
いや、気まずさで言えば俺も負けていない。
居候の身分でありながら見送りもせず、酒場の匂いをプンプンさせて帰宅してしまったのだから。
(……そう言えばロイドは一滴も飲んでなかったな。職務に忠実なことだ)
俺はこっそりと自分の息を確認しつつ、平静を装って歩み寄った。
「出立ですか、シリウス様」
「カイか。……ああ、本当はもう少しゆっくりしたいのだがな」
シリウスは外套を翻し、苦笑交じりに肩をすくめた。
その視線が、俺と──その背後に控えるロイドに向けられる。
「シリウス様」
ロイドが一歩前へ出て、深々と頭を下げた。
その表情は硬いが、迷いはない。
「ご出立の直前に、申し訳ありません。……お願いがございます」
「なんだ? 改まって」
「私は明日より、カイ様と共に『空』へ向かいたいと考えております」
「……空だと?」
シリウスが怪訝そうに眉をひそめる。
ロイドは顔を上げ、真剣な眼差しで訴えた。
「はい。この数日、カイ様と行動を共にし……確信いたしました。カイ様の探求をお支えすることこそが、結果としてアストリア家に最も大きな益をもたらす道であると」
シリウスは少しの間、沈黙を守り──やがて、フッと口元を緩めた。
「……かまわんぞ。お前を見つけたのは私だが、お前の人生はお前のものだ」
「では!」
「ただし、成果は期待しているぞ。ただの物見遊山で終わらせるなよ」
「はっ! 必ずや、吉報を持ち帰ります!」
ロイドが背筋を伸ばし、鮮やかな敬礼を見せる。
シリウスは満足げに頷くと、最後に俺の方を向いた。
「カイ、私のとっておきを貸すのだ。せいぜいこき使ってやってくれ」
「ええ。ご期待ください」
「セバス、ロイドの件、父上に伝えておいてくれ」
「承知いたしました、シリウス様」
シリウスは短く手を上げ、馬車へと乗り込んでいった。
遠ざかる馬車の車輪の音を聞きながら、ロイドが大きく息を吐き出す。
「……緊張しました」
「上手い言い訳だったな、"アストリア家に最も大きな益をもたらす道"か」
「言い訳ではありません。本心ですよ」
ロイドは真面目な顔で答え、それから少しだけ口元を緩めた。
「さあ、行きましょうカイ様。明日の準備があります」
俺は小さく頷いて歩き出す。
ふと見上げた夜空には、雲の切れ間から幾千の星が──まるで俺たちを導くように瞬いていた。




