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3話 巡る善意と温かい湯

「……何度も人を遣わして、探させていたのです」


 リシェルは、白磁のような指先を組み、少しだけ視線を落としたまま言った。


「ですが……海上民の方々の行方を掴むのは、至難の業で」


 長い睫毛が震えている。

 その声には、八年間の悔しさと、今ここにある安堵がない交ぜになっていた。


「まあ、仕方ないさ」


 俺は軽く肩をすくめた。

 慰めではなく、事実として。


 ウミビトの船団は、常に流動的だ。風と潮任せに移動するし、決まった住所なんてない。地上人ツチビトが俺たちを探すなんて、雲を掴むようなものだよう。


 特に俺が育った船団は小規模で、海図にないルートばかり通っていた。


「……それでも」


 リシェルが顔を上げる。

 濡れた瞳が、真っ直ぐに俺を射抜いた。


「生きていてくださって……こうして会いに来てくださって、本当によかった」


 ずしり、と。

 言葉に込められた感情の質量が、重い。

 再会の喜びというよりは、執念に近い祈りを感じる。


「……ああ」


 返す言葉が見つからず、俺は視線を逸らして曖昧に頷くしかなかった。

 こういう空気は、どうにも苦手だ。


「ノアも、久しぶりね」


 不意にリシェルが涙を拭い、俺の肩へ視線を向けた。


「よう、お嬢様。ずいぶんべっぴんさんになったな」


 ノアが片翼を上げ、器用に挨拶を返す。

 こいつもこいつだ。相手は大貴族だぞ。

 リシェルが破顔し、ふふっと笑った。


「ここで立ち話もなんですし──カイ様、この後はお急ぎですか?」


 助け船を出すように、執事のセバスが声をかけてきた。

 ナイスタイミングだ、セバスさん。


「いや、まったく。今日の予定はここに来ることだけだったから」


 俺が即答すると、リシェルはぱっと花が咲いたように微笑んだ。

 さっきまでの湿っぽい空気が嘘のようだ。


「それでは、じきに正午です。すぐに食事の支度をさせますね。積もる話もありますし!」


 リシェルが嬉しそうに、セバスに目配せする。

 心得たように、老執事が一礼した。


「かしこまりました。──では、お食事の支度が整うまでの間、湯浴みはいかがでしょうか」


「……湯浴み?」


「はい。旅の汗を流された方が、お寛ぎいただけるかと」


 風呂、か。

 そう言われてみれば、最後に真水で体を洗ったのがいつだったか、もう思い出せない。

 一週間前か、あるいはもっと前か。海に飛び込んで水浴び、なんてのはしょっちゅうだが、温かい湯に浸かるなんて贅沢は、船上生活には存在しない。


 自分の服の袖を嗅いでみる。

 ……うん、潮風と魚の匂いが染み付いている。

 ピカピカの屋敷に招かれるには、いささか野性味ワイルドが過ぎる香りだ。


「……助かる」


「滅相もございません。では、すぐに湯の用意を」


 セバスが指を鳴らすと、扉の外で控えていた使用人たちが音もなく動き出した。

 連携が見事すぎる。


「……至れり尽くせりだな」


 俺が小さく呟くと、肩の上で大人しくしていたノアが、くすりと笑った。


「これが地上の貴族様のおもてなしってやつか。お前には過ぎた待遇だな」


「黙ってろ。お前も洗うぞ」


 軽口を叩きながら、案内された廊下を進む。


 ふかふかの絨毯。壁に飾られた絵画。漂う良い香り。

 ここは地上の一等地。

 俺は漂流するウミビトで、彼女は大貴族の令嬢。本来なら、言葉を交わすことさえ許されない身分差がある。


 それでも──


 アストリア家の屋敷に吹く風は、街で感じたような刺すような敵意を、まったく含んでいなかった。


        ◇


 湯気の向こうで、水音が静かに揺れている。

 案内された浴室に入って、俺は思わず息を呑んだ。


 広い。とにかく広い。

 船の狭いシャワー室とは造りがまるで違う。足を伸ばしてもまだ余る大きな浴槽に、惜しげもなく並々と湯が張られているのだ。


 しかも、これ全部「真水」だぞ?


「……贅沢すぎるだろ」


 思わず本音が漏れた。

 海の上じゃ、真水は命の次に重い。それをこんな風に使うなんて、地上の貴族の感覚は理解不能だ。


「お背中、お流しします」


 呆然としていると、背後から柔らかな声が掛かった。

 世話役として付けられたメイドだ。

 年の頃は俺と同じくらい。十六、七といったところか。手には丁寧に畳まれた布と、洒落た木の桶を持っている。

 近づいてくる気配に、俺は慌てて手で制した。


「……待ってくれ」


「はい?」


「体は、自分で洗う。人に洗ってもらう趣味はないんだ」


 一瞬、彼女はきょとんとした顔をしたが、すぐに察したように目を伏せた。


「……申し訳ありません。気が利きませんでした」


「いや、俺の方こそ悪かった。……その、慣れてないんだ」


 気まずさを誤魔化すように、俺は湯をすくって肩にかける。

 ふと、彼女の手元を見て、あることに気づいた。


 肌の質感が、地上の人間とは少し違う。潮風に長く当たっていた者特有の、健康的な強さがある。


「……あんた、もしかしてウミビトか?」


 何気なく聞くと、彼女は少し驚いたように顔を上げ、それから小さく頷いた。


「はい。生まれは海上民です」


 隠す様子もなく、はっきりと答える。


「アストリア家に雇っていただいてから、三年になります」


「三年……」


 俺は体を洗いながら、彼女の話に耳を傾ける。


「私たちは、何度もカイ様のお話を聞いております。八年前に、リシェルお嬢様の命を救ってくださった海上民の方がいる、と」


 へえ、それはまた。

 本人がいないところで伝説みたいに語られるのは、なんだか背中がむず痒いな。


「そのご縁があって、当主様やリシェル様は、海を追われた民を積極的に雇ってくださっているのです」


 俺の手が止まった。

 胸の奥が、じんわりと熱くなる。

 俺は、そんな高尚なつもりで助けたわけじゃない。


 ただ、目の前で子供が波に飲まれかけていた。だから手を伸ばした。それだけだ。

 だけど、その「それだけ」が、こうして誰かの生活を支えている。


「おかげで、私たちはここで働けています」


 彼女は噛み締めるように言った。


「雨風をしのげる屋根があって、温かい食事があって……こうして、誰にも怯えずに暮らせています」


 彼女の視線が、湯船へと向けられる。


「感謝しています。本当に」


 その言葉の重みに、俺はどう返せばいいのか分からず、黙って湯船に身を沈めた。

 温かい湯が全身を包み込み、凝り固まっていた疲れを溶かしていく。


「……そうか」


 それだけ言うのが、精一杯だった。

 湯気の向こうで、彼女が静かに、深く一礼する気配がした。


 正直、地上のことはまだ好きになれない。

 街で向けられる視線、差別、見えない壁。何もかもが残っている。


 それでも。

 こうして生きている人間がいるのなら──

 この世界は、全部が全部、敵というわけでもないのかもしれない。


「……ぷはっ」


 不意に、湯面から何かが顔を出した。

 俺と一緒に湯に浸かっていた(と言うより浮いていた)ノアだ。


「……いい湯だな」


「お前、のぼせるぞ。つか、身体洗えよ」


「……悪くない気分だ」


 ノアが気持ちよさそうに目を細める。

 俺も短く「ああ」と答え、目を閉じた。


 湯の温もりが、ここ数日の緊張を、静かにほどいていく。

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