18話 王国の獅子は頭を垂れる
その他いくつか必要な物資のリストをエドモンドに渡す。
クランハウスを出て、ロイドと共にアストリア家の屋敷へと戻る。
日は既に傾き、空は茜色に染まっていた。
「……本当に、牛なんて何に使うのですか?」
帰り道、堪えきれなくなったロイドが問いかけてくる。
「ま、見てのお楽しみだ」
俺は言葉を濁し、屋敷の重厚な正門を見上げた。
門番が敬礼し、扉が開かれる。
ロイドと別れ、屋敷に入る。
玄関ホールにはセバスが待ち構えていた。
「お帰りなさいませ、カイ様。……まもなく旦那様が王城での会議よりお戻りになられます」
「レグルス侯爵か」
俺が短く返すと、セバスは静かに頷いた。
「はい、お戻りになり次第、お呼び致しますので……それまで自室にてお待ちください」
「わかった。着替えて待機しておく」
俺が頷くと、セバスは恭しく一礼した。
相手はこの国の大貴族だ。自分にできる限りの最大級の礼を尽くすべきだろう。
◇
一時間後。
呼び出しを受けて案内されたのは、屋敷の最奥にある執務室だった。
重厚な扉が開かれると、壁一面の本棚と、天球儀などの観測機器、そして部屋の中央に鎮座する巨大なマホガニーの執務机が目に入る。
その奥で、一人の男が書類にペンを走らせていた。
「──お連れしました」
セバスの声に、男が顔を上げる。
ライオンのたてがみを思わせるロマンスグレーの髪。刻まれた皺は老いではなく威厳を感じさせ、その瞳はすべてを見通すかのように鋭く輝いている。
この国の大貴族の一人にして、国の運命を占う最高位の星見。さらに、王国の獅子と呼ばれるほどの勇猛果敢な将でもある。
リシェルの父、レグルス・フォン・アストリア侯爵だ。
「……ふむ」
レグルス侯爵はペンを置き、ゆっくりと俺を値踏みするように見つめた。
その視線だけで、凡人なら震え上がりそうな圧力がある。
だが、俺はあくまで自然体を崩さない。
ここで縮み上がるようなら、海でも空でも生きてはいけないからな。
「境界測図師のカイ・セラです」
俺が頭を下げると、侯爵は重々しく口を開いた。声そのものが、腹の底に響くような重低音だ。
「娘のリシェルが世話になったそうだな。……君に、ずっと会いたかったんだ」
その言葉には、貴族としての社交辞令ではない、父親としての熱が籠もっていた。
「光栄です」
俺が短く返すと、侯爵は何かを言いかけたが──
コンコン、と軽やかなノックの音が響き、返事を待たずに扉が開いた。
入ってきたのは、一人の美しい女性だった。
「あら、あなたがカイくんね。リシェから聞いてるわ」
青白いドレスに身を包んだ彼女は、花が咲くような笑みを浮かべて俺を見た。
リシェルによく似ているが、より成熟した妖艶さと、人を惹きつける引力がある。
「妻のスピカだ」
レグルス侯爵が紹介する。
(……妻? リシェルの母親ってことか?)
俺は目を丸くした。
若すぎる。姉と言われても違和感がないほどだ。だが、その瞳の奥にある聡明な光は、ただの深窓の令嬢ではないことを物語っている。
「あの強情な娘が、あそこまで懐くなんてね」
それまで椅子に座っていたレグルス侯爵が、おもむろに立ち上がった。スピカ夫人も夫の隣に立った。
場の空気が、スッと引き締まる。
「カイ・セラ殿」
俺の正面に立つと──そのまま、深く頭を下げた。
「娘の命を助けてくれて、ありがとう」
「なっ……!?」
悲鳴のような声を上げたのは、俺ではなくセバスだった。
大貴族が、どこの馬の骨とも知れぬウミビトに頭を下げる。それは、あってはならない光景だったからだ。
「旦那様!? そのような……!」
「良い、セバス。これはアストリア家当主としてではなく、一人の親としての礼だ」
レグルス侯爵は顔を上げ、真摯な眼差しで俺を見据えた。
「8年前……あの日、君がいなければ今のリシェルは存在しなかった。……ずっと、君にこの言葉を伝えたかった」
その言葉の重みに、俺は居住まいを正した。
社交辞令ではない。これは、一人の父親としての魂の言葉だ。
「……いえ。正直に言えば、俺もリシェルお嬢様と出会って、世界が広がりました」
俺は飾らない言葉で、本心を伝えた。
「俺が測図師になれたのも、リシェが知識をくれたおかげです。俺の方こそ、お礼を言いたくてこの街に来たんです」
リシェルがいなければ、俺はただのウミビトで終わっていただろう。
今の俺があるのは、間違いなく彼女のおかげだ。
「……そう言ってもらえると、救われるよ」
侯爵は安堵したように微笑んだ。
だが次の瞬間、その表情から「親の顔」が消え、再び厳格な「当主の顔」が戻る。
「だが、いくら娘が懐いているとはいえ、君の危険な旅について行かせるわけにはいかん。……それは、わかってくれるね?」
「ええ、それはそうでしょうね」
俺は苦笑して頷いた。
大事な娘を、サーベイヤーの旅に同行させるわけがない。当然だ。
つまり、「リシェルが着いて行くと言い出したらお前が止めろ」と言いたいんだろう。
「ただ、君の才能は貴重だ。当家の測図師として、全面的にバックアップすることは約束しよう」
「……!」
「資金、機材、情報。必要なものは提供する」
「ありがとうございます。……必ず新天地を見つけ、アストリア家の益となることを誓います」
俺が即答すると、侯爵は満足げに頷いた。
「ふふ、心強いな。詳しい話は後ほど詰めよう。……良ければ、夕食の席に同席してくれたまえ」
「ありがとうございます。喜んで」
話はまとまった。
俺が一礼して退室しようとした、その時だった。
「──それと」
不意に、侯爵が低い声で呼び止める。
振り返ると、彼はどこか恨めしそうな、それでいて羨ましそうな複雑な目で俺を見ていた。
「……普段は、娘のことを『リシェ』と呼んでいるのかね?」
「あ……」
しまった。
先ほど会話の流れで、つい気が緩んで愛称で呼んでしまっていた。
冷や汗を流す俺の横で、スピカ夫人がクスクスと笑う。
「ふふ。この人がそう呼ぶと、あの子怒るのよ。『お父様はリシェルと呼んでください』って」
「むぅ……」
国の重鎮である侯爵が、拗ねた子供のように唇を尖らせる。
どうやらこの「獅子」は、娘のこととなると少々形無しになるらしい。
(……今後は気をつけよう)
俺は心の中で固く誓い、逃げるように部屋を後にするのだった。
その背中に、セバスの呆れたような溜息が聞こえた気がした。




