14話 忠犬ロイド
夜も更け、マルタンとメルディは屋敷を後にした。
静寂が戻った部屋で、メイドが音もなくポットを傾ける。
「おかわりはいかがですか?」
「ああ、頼む」
受け取った紅茶を一口啜る。
熱すぎず、ぬるすぎず。計算され尽くした完璧な温度だ。
「で、どうするんだ?」
向かいの椅子で、焼き菓子を摘まんでいたノアが問いかけてきた。
「最初から、世界すべてを旅するつもりだ。それに、マルタン師の願いもある」
カップをソーサーに置き、俺は夜空を見上げた。
「まずは──『空』にするか」
「おう」
ノアは短く笑い、翼を広げた。
「俺は、どこでもいいぜ。お前が行く場所が、一番面白い場所だ」
◇
翌朝。
窓から差し込む朝日と共に、庭から活気のある掛け声が聞こえてきた。
外へ出ると、二十人ほどの兵士たちが剣の訓練に励んでいる最中だった。
その中に、一際鋭い動きを見せる男がいる。
──ロイドだ。
端正な顔立ちを汗で濡らし、真剣な表情で木剣を振るっている。
俺は訓練の区切りを見計らい、声をかけた。
「おはよう、ロイド。精が出るな」
「あ、カイ様。おはようございます」
ロイドは俺に気づくと、慌てて姿勢を正し、汗を拭った。
「朝の運動がてら、一本付き合ってくれないか?」
俺は近くの籠から、短めの木製ナイフを拾い上げる。
すると、横から老齢の男が割って入った。指揮を取っていたところを見ると兵士長だろう。
「……カイ様。お戯れを。ロイドは王都の武闘大会で入賞経験もある、当家随一の使い手ですぞ」
「カイ様に怪我をさせてしまっては、お嬢様に叱られます」
ロイドも困ったように苦笑する。
「手加減してくれればいいさ」
俺が笑って構えると、やれやれとロイドも兵士の顔に戻った。
周囲の兵士たちが、興味津々といった様子で円を作る。
「では──参ります」
合図と共に、ロイドが踏み込んだ。
速い。無駄のない上段斬り。
風切り音と共に木剣が迫るが──その軌道は、すでに「計測」済みだ。
角度、速度、筋肉の収縮。全てが解る。
俺は剣を受け止めるのではなく、半歩だけズレる。
切っ先が鼻先を掠めるギリギリの距離──死角となる懐へ。
「なっ……!?」
ロイドが目を見開く。
長剣の弱点は、その長さゆえの至近距離だ。
俺は流れるような動作で彼の腕を絡め取り、体勢を崩させると、木製ナイフの切っ先を喉元へ突きつけた。
「──そこまで!」
兵士長の裏返った声が響く。
シン、と庭が静まり返る。
ロイドの木剣は、虚しく空を切った体勢で止まっていた。
「……参りました」
ロイドは驚きと、どこか清々しい表情で息を吐いた。
「速さでも力でもなく、『間合い』だけで封じられるとは。……やはりカイ様は、只者ではありませんね」
「計測の能力がないと、測図師は務まらないからな」
俺は笑いながらナイフを籠に戻し、肩を鳴らした。
「それで、今日もギルドに行く予定なんだが……」
「ええ! 喜んでお供します!」
ロイドは背景に花が咲きそうな、満面の笑みを浮かべた。
(……いや、待て)
俺は言葉を飲み込む。
たった今、俺の方が強いと証明したばかりだ。「だから護衛はいらない」と断る流れだったのだが。
それに、お前は屋敷の仕事をしなくていいのか?
だが、その無駄にキラキラした純粋な笑顔と、尻尾を振る犬のようなオーラを前にすると──どうにも、断れそうになかった。
◇
訓練場を後にし、食堂へ向かう。
「スラム流の交渉術は、失敗だな」
ノアがクククと喉を鳴らして笑う。
一番強いやつを、ガツンとやる。
それから、こちらの要求を通す──単純で、わかりやすい方法だ。
実際、ロイドの実力は頭ひとつ抜けていた。
彼を倒せば、「護衛など不要」と理解してもらえると思っていたのだが。
「……まあ、まだ街には不慣れだ」
肩をすくめて、続ける。
「護衛じゃなくて、案内役としてついてきてもらおう」
ノアは苦笑混じりに頷いた。
食堂の扉を開ける。
朝日が差し込む優雅なテーブルで、リシェルが新聞を広げていた。
だが、その顔色は優雅とは程遠い。
「……おはよう。大丈夫か?」
声をかけると、彼女は緩慢な動作で顔を上げた。
目の下には、うっすらとクマができている。
「お……はよう。ええ、問題ないわ」
気丈に振る舞っているが、新聞を持つ手が微妙に震えている。
どうやら昨晩は、セバスに相当絞られたようだ。
◇
「あ、そうそう。今夜、お父様とお母様が帰ってくるそうよ」
リシェルが、給仕に取り分けさせたフルーツを銀のフォークで突きながら、何気ないことのように言った。
「……そうか」
喉を通る紅茶が、少しだけ重く感じた。
レグルス・フォン・アストリア侯爵。この国の重鎮であり、リシェルの父親。
ウミビト上がりの俺が会っていい相手なのか、流石に少し緊張する。
「ふふ、そんなに硬くならなくていいわよ」
俺の心中を察したのか、リシェルは悪戯っぽく笑った。
「お父様が何と言おうと、カイは必ず私が『お抱え』にするから。決定事項よ」
「……そいつは頼もしいな」
お嬢様がそう言うなら、まな板の上の鯉でいるしかないか。
俺は気持ちを切り替え、今日の予定を告げた。
「俺は今日、またギルドに顔を出してくるつもりだ」
その瞬間──部屋の隅に控えていたセバスの眼鏡が、キラリと光った気がした。
無言の圧力
「……疑わないでよ、セバス。もう勝手に抜け出したりしないわ」
リシェルはげんなりとした顔で、大袈裟に首を振ってみせた。
「あんな長説教は、もうこりごりよ。……骨の髄まで反省したわ」




