第三章:裁判 3-1
・・・郵便受けに入っていた封筒の「重要」という赤字を見た時、胸の奥がざらりとしたのを覚えている。 中に入っていたのは、裁判員候補者の通知だった。 対象となる事件は、世間を震撼させたあの「薬物中毒者通り魔事件」。 正直、迷惑だと思った。パートのシフトも調整しなければならないし、何より、あんな凄惨な事件の記録になんて触れたくなかった。
夫は「国民の義務だから仕方ないよ」と他人事のように言い、息子は「へえ、母さんがあの事件を?」と興味本位な目を向けてきた。
選任手続きの日、私は辞退が認められることを期待して裁判所へ向かった。しかし、くじ運の悪さというべきか、運命の悪戯というべきか。私は選ばれてしまった。 人の命を奪った人間を、法という物差しで測り、刑を決める。その責任の重さに、胃がキリキリと痛んだ。
そして、事件の資料に目を通し始めた時、私の心臓は早鐘を打ち始めた。
被告人、加藤 幸雄。52歳。 犯行の動機、経緯、精神鑑定の結果。淡々とした記述の中に、ある一行を見つけた時、私の指先が震えた。
『被告人は20年前、痴漢冤罪事件により職と家族を失い、その後、現実逃避のため薬物に手を出し……』
20年前。痴漢冤罪。 記憶の奥底に沈殿していた泥が、一気に巻き上げられたような感覚。 まさか。嘘でしょう。 嘘だと言って。
私は慌てて、当時の被告人の写真や、経歴の詳細を確認した。見覚えのある顔。今はやつれて、生気のない目をしていても、骨格や雰囲気はあの時の男そのものだった。
些細な事と切り分けて、記憶からは消していた。私にとってはその程度のこと。けれども、目の前の事実はあの些細な記憶を「運命の岐路」に残酷にも書き換えてしまった。
あの朝、私の太腿に触れた手。恐怖に駆られて上げた叫び声。「違います!」と必死に首を振っていた男。 警察署で「不起訴になった」と聞かされた時の、あの割り切れない思いと、安堵。
あの日、私が声を上げなければ。 私が勘違いをしていなければ、あるいは、もっと慎重であれば。 この男は、今も普通の会社員として、家族と夕食を囲んでいたのだろうか。 そして、あの日大通りで殺された3人の被害者も、今頃笑って過ごしていたのだろうか。
3人の命を奪ったのは、この男だ。それは間違いない。 けれど、この男の手に凶器を握らせたのは、もしかして……。
「高橋さん? どうかされましたか?」
隣に座る裁判員の男性に声をかけられ、私はハッと顔を上げた。
「いえ……なんでも、ありません」
嘘だ。なんでもなくなんてない。 私は今、自分が人生を狂わせたかもしれない男を、死刑にするかどうかを決める席に座っているのだ。 これは裁判ではない。これは、私自身への審判だ。
死刑判決が告げられても、被告の男は虚ろな目を見開くわけでもなく、ただそこに「居た」。反省も、後悔も、焦りも、うかがい知ることは出来ない。
その男がふと、こちらを見た気がした。本当に見たかは分からない。けれども私は確かに、目が合った。
そうだ。私はこの目を知っている。
その目は、かつて駅のホームで見た時と同じ、底なしの絶望に満ちていた。
私は息を呑み、膝の上で握りしめた拳に爪を立てた。 目を背けてはいけない。これは、私が生み出した怪物なのだから。




