第二章:血の雨 2-1
・・・天井の染みが、人の顔に見えた。いや、顔じゃない。顔の形をした黒い影だ。 薬が切れて三日。全身の血管を蟻が這い回るような不快感と、骨の髄を掻き回されるような激痛が、頭の奥で警鐘のように鳴り響く。日雇いの賃金は、まだ手元にない。汚いアパートの薄暗い六畳間に閉じこもっていても、この地獄は終わらない。
「無駄だ。逃げても無駄だ。お前はもう、俺たちのものだ」
影が嘲笑うように声を発した。 幻聴だと、理性の一片がささやく。だが、全身の皮膚が粟立ち、冷や汗が背中を流れるのを止めることはできない。壁際に追いやられ、もはや息をするのも苦しい。 あの痴漢冤罪から全てを失い、日々の苦痛から逃れるためだけに手を出したこの悪魔の粉は、今や俺の命の源泉であり、同時に、俺を追いつめる拷問官でもあった。禁忌に手を出した後悔はある。だがそれ以上に、この荒み切った心を保つのに必要だったんだ。
どこまで逃げてもついてくる。どこに隠れても、必ずいる。 いっそ、こいつを倒せば。 そうすれば、この途方もない苦しみから、永遠に解放されるんじゃないか。
そう閃いた瞬間、冷たい安堵が脳髄を駆け抜け、理性のタガが音を立てて弾け飛んだ。 軋む床を踏みしめ、台所へ。錆びついた棚の奥から、一本の包丁を取り出す。鈍く光る刃先が、今の俺には、たった一つの救済に見えた。
「殺す。殺してやる、お前を……!」
影に向かって叫び、そのまま玄関のドアを乱暴に開け放つ。真昼の太陽が差し込む大通りへ、俺は包丁を握りしめたまま、獣のように飛び出した。 黒い影は、確かに俺の背中に張り付き、すぐ後ろを追ってきている。その気配に焦らされ、俺はただ、人通りの多い大通りを目指して走った。 影を倒す。その一事だけが、廃人のように転落した俺の、最後の本能だった。
果たして、大通りに出た俺の目に映ったのは、さっきまで後ろにいたはずの黒い影。それも膨大な数だ。
「俺を追い込むために増えやがった。ならば片っ端から殺してやるよ」
俺は一番近い影に向かって突進し、振り下ろした。鈍く光る銀色の運命を。
そして壊したんだ。多くの日常と、俺の未来さえも。
その後のことはよく覚えていない。悲鳴に似た声を聴いた。だがそれが、他人のものなのか影のものなのか、当時の俺には判断できなかったんだ。ただ、俺は影を斬ったはずなのに、妙に手ごたえがあったことは体が覚えている。
次の記憶は警官に取り押さえられ、鉄の匂いがするアスファルトに組み伏せられたところだ。一面に広がる赤。そして倒れている人々。これは、俺がやったのか?
黒い影は、いつの間にか消えていた。




