第一章:あの日 1-2
・・・二十年前の朝。それは、とっくの昔に風化してしまった記憶の断片だ。
電車の中で、不意に何かが太ももに触れた。一瞬の硬直。そして、あの、堪えきれない叫び。反射的な行動だった。恐怖と嫌悪感から、反射的に「痴漢です」と声を上げた。自分でも驚くほど、声は甲高く、そして力強かった。男はすぐに取り押さえられ、駅のホームで警察官に連行されていった。
その後のことは、よく覚えていない。警察での事情聴取、被害届。だが、最終的に男は不起訴になったと聞いた。カメラに映る角度や、人混みの状況から、彼が犯人である可能性が低いと判断されたらしい。
「ああ、そう」と、理子はあの時の自分を思い出す。正義が勝った、という感覚はなかった。ただ、日常の澱のようなものが、一瞬で取り除かれた安堵だけがあった。すぐに、日々の忙しさに紛れ、事件のことは忘れていった。けれど、一瞬見えたあの男の絶望感に満ち溢れた目だけは、今も記憶の奥にこびりついて離れない。
何の気なしに過ごした二十年。それが、今の自分の生活を支える確固たる土台を築いていた。まさか、その土台が、数年後に自分が「裁判員」として向き合うことになる、あの薬物通り魔事件の「きっかけ」であったとは、その時の理子は知る由もなかった。




