第五章:正義とは 5-4
・・・冷たい排気音が鳴り続けている。三度目の死闘だ。
この場所にもようやく慣れてきた。この場所で何度目の殺し合いが行われるのか、俺には知る由もない。ただ、修羅場の数を教えるように、血のりや飛び回るハエが増えている。俺たちのようなただの獣にはお似合いの舞台だ。無意識に乾いた笑いが出た。
俺の対戦相手は、すでにリングに立っていた。 破壊者。外ではそう呼ばれているらしい。過去五連勝。その肉体は、俺のような薬物中毒の残骸とは違い、彫刻のように鍛え抜かれている。奴は、殺し合うことへの恐怖も、躊躇も、一切持っていない。ただの「プロ」の殺し屋だ。
だが、俺も以前とは違う。
一戦目を終えたあの日から、俺はもう「死にたくない」という本能で動いていない。 俺の目の前には、数百万という補償金の重みが見えている。俺の命は、もう俺のものではない。俺が生き延びて血を流すこと。それが、あの事件の遺族への、そして、俺の人生を狂わせたかもしれない、あの日の女への、唯一可能な贖罪なのだ。
どこからともなく、これまでと変わらない機械的な音声でルールが読み上げられた。
「勝敗は、相手の死亡をもって決する」
俺は、一歩を踏み出した。 恐怖はない。あるのは、「仕事」を遂行する冷たい意志だけだ。
すべては、俺の拳と命にかかっている。
相手が動いた。一瞬の隙も、躊躇もない、完璧な殺意。
俺は、その殺意を真正面から受け止めた。 これは、贖罪だ。
勢いの乗った右ストレート。ガードをしたはずだった。しかし、初老の細腕など無いかのごとく、その拳はガードを突き破り、俺を撃ち抜いた。凄まじい重さだ。
強者の余裕か、はたまた侮りか。
殴り飛ばされた俺が立ち上がるのを、奴はじっと待っていた。
お前も撃ってこい。そう言わんばかりに奴は動かずにこちらを見ている。
そうだ。これは興行だ。俺たち死刑囚にとっては、命を懸けた大一番だ。だが、これを見ている奴らがいる。そいつらにとってこの闘いはエンタメなんだ。
ならばと、俺は突進し、体重を乗せた拳を奴に叩き込んだ。
固い。
殴ったボディは、まるでタイヤの様に分厚く、振りぬくことが出来なかった。
ニッと笑った奴が拳を振りかぶり、俺との打ち合いが始まった。
俺も負けじと応戦するが、さすが5戦無敗の男。一撃が重く徐々に押されていく。このままだとジリ貧は明白だった。
一閃。拳に合わせて前に踏み込んだ。渾身の頭突きが奴の鼻をへし折った。鼻血が噴き出す。
しかしよろめきながらも奴は俺の頭をしっかり掴んでいた。そして返ってくるのは強烈な頭突き。何とか額で受けたが、頭が割れて視界が赤に染まる。
この光景……真っ赤な世界があの日の光景と重なった。倒れる人々、鳴り響く泣き声、そして叫び声。
俺は、あの日人生を狂わせてしまった人たちのために闘っている。
俺は、死ぬことではなく生きることでせめてもの償いをしている。
一瞬飛んでいた意識が激痛と共に返ってきた。まだ、死ねない。
俺は決死の覚悟で飛び掛かった。掴みかかった指で偶然奴の片目を潰した。
怯んだ奴が後ろに倒れ、俺はそのままマウントを取った。そしてひたすら、拳を振り下ろし続けた。
このまま勝てる!そう思った。
しかし、現実は甘くなかった。
振り下ろした両手首を捕らえられる。刹那、視界が回った。そのままリングサイドまで投げられたのだ。
起き上がった時、既に奴は目の前にいた。全力のタックル。まるで交通事故だ。檻に叩きつけられた俺の頭を鷲掴みにする大きな力。
俺はその力のなすがまま、支柱に頭を打ち付けられた。耳の奥で、骨の折れる鈍い音、肉のはじける音、そして何かが飛び散る音が響く。今度は明確にわかる。これは、俺の命が尽きる音だ。
意識が遠のく。真っ赤だった視界に白い光が差し込んできた。
光の中に現れたのは、あの日会社に行く俺を見送る笑顔の妻だった……。
「行ってらっしゃい」
「いってきます」
俺は、白い光の中で、生涯で最も幸せだった一瞬の記憶を抱きしめたまま、意識を失った。
意識を失った俺を、奴は容赦なく支柱から引き剥がし、その血塗られた体をリングに投げ捨てた。鈍い着地音が、鉄で囲まれた地獄に冷たく響く。
加藤 幸雄、絶命。
アナウンスが、無感情に勝敗を告げる。
それは、視聴者にとって「チャリティーの終わり」を意味し、
遺族にとって「生活の終わり」を意味し、
そして、裁判員にとって「贖罪の最後の糸が切れた音」となった。




