第一章:あの日 1-1
・・・鉄格子の向こうで、冷たい排気音が鳴り続けている。もうすぐ、二度目の死闘だ。
金網に囲まれたこのリングで、生き残る。それが、俺に唯一残された贖罪の方法だと言い聞かせている。だが、ここでどれだけ血を流し、誰かの命を奪ったところで、失ったものの重さが変わることはない。あの日の朝。全ての歯車が狂った、あの瞬間から逃れることはできない。
満員電車の中で、ふと、背中に何かが触れた。その感覚が何であったのか、今となってはどうでもいい。ただ、女の甲高い叫び声が、一瞬にして日常を地獄へと変えたのだ。
「この人、痴漢です!」
周囲の視線が、刃物のように突き刺さる。違う、俺じゃない、そんな事していない。俺は否定した。必死に首を振った。だが、言葉は音にならず、ただ震える息となって喉から漏れただけだった。そして、腕を掴まれ、電車から引きずり下ろされる。群衆の渦に飲み込まれていく中で、俺はただ無力だった。
あの時一瞬見えた女の顔、俺は一生忘れることはないだろう。そして、彼女から見た俺の目も、生涯忘れ得ぬものだっただろうと思う。
結果的に不起訴になったところで、もはやそれには何の意味もなかった。
一度貼られたレッテルは、セメントのように肌に張り付き、二度と剥がれない。妻は冷たい目をしたまま、何も言わずに家を出て行った。会社では居場所を失い、自ら退職を選んだ。あの日から、この世界に俺の居場所は無くなった。それでもその運命に抗うしかない。
たった一度の、一瞬の過ち。否、過ちですらなかったかもしれない。だが、その後の俺の人生は、痴漢という汚点によって全て塗り潰された。俺は、まるで、壊れた人形のように、日々の生活から感情と目的を奪われた。そして、その虚無が、後の血塗られた惨劇へと繋がる。
後悔は、もう空気だ。吸っても吐いても、俺の肺を満たすのは、ただの重く澱んだ罪悪感だけだ。
なぜ、あの時、もっと強く抵抗できなかったのか。なぜ、あの日、あの電車に乗ってしまったのか。今となっては全てが虚無。今の俺には、ただ生き残る事しか許されていないのだから。




