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ナッシシムの問いに答えることなくルナウが立ち上がる。
「お客さまとの約束の時間です」
と、店の外に出て行ってしまった。トーストの残りを慌てて口に放り込んでアイスティーで流し込むと、ナッシシムは後を追った。
店の外にルナウの姿がない。どこに行ったのかしら、と思っていると、ウッドデッキの木戸からバケツを持って姿を現した。バケツは水で満たされている。
「それが氷になるの?」
「そうですよ」
階段の降り口にバケツを置くと、ルナウはまた木戸から庭に降り、水を入れたバケツを提げては戻ってくる。十杯ほど並べられたところに八百屋のシャンティグがやってきた。ロバに荷台を牽かせている。荷台には数枚の革袋と花束が乗せられていた。
「おはよう、ルナウ」
「おはようございます、シャンティグさん。いつも通り、氷の塊を五個でよろしいですね?」
「うん、頼むよ」
シャンティグが荷台から革袋を取り出して、階段下で口を広げた。ルナウがバケツを持って革袋の口で傾けると、寸前まで水だった中身が氷の塊となって袋の中に滑り落ちていく。
「すごい! 一瞬で氷になっちゃうのね!」
「よぉ、ナッシシム。随分早くから来てるんだね」
「えぇ、氷を作る魔法が見たいと仰って。頑張って早起きしたそうです」
ナッシシムがなんと答えようか迷っているうちにルナウが先にシャンティグに答えている。
「なるほどねぇ――アッリリユやジョロバンに心配かけちゃいけないよ」
シャンティグの言葉の真意も、少し嫌な顔をしたルナウにも気付かないナッシシムは『もちろんよ』と答え、シャンティグが微笑んだ。
革袋に氷を一つずつ入れて荷台に戻す。五枚の革袋を満たしたあと、持参した花束に涼しい風が吹く魔法をかけて貰って、シャンティグは帰っていった。それからしばらくは、入れ替わり立ち替わり氷と花束への魔法を求めてお客が訪れた。ルナウが井戸から水を汲んだのは最初だけで、空いたバケツはいつの間にか水が満たされている。
魔法を使っているのだろうけれど、なんで最初からそうしなかったのか不思議に思うナッシシムだ。重い思いをして、なんで十杯もルナウは水を運んだのだろう?
「花は持ってきてもらうのね」
「はい、こちらで用意していたら、家の庭の花では足りません。それに皆さん、それぞれ好みもあるでしょうから」
最後のお客はレストラン『ごちそう』のレーンバスだった。
「今日も暑くなりそうだねぇ」
額の汗をタオルで拭きながらレーンバスが愚痴を零す。
「ルナウさんのところは今日も大盛況なんじゃ?」
「そうなるといいのですけれど」
「なるとも! 午後のお茶に、俺も利用させてもらう。まったく、自分の店より居心地がいいときてる――たまにはうちにも来てくれよ」
レーンバスが帰るとバケツを片付けながら、ナッシシムにも帰れとルナウが言う。
「それから――もう、お店が開いてない時間に来てはいけません」
いつも通りの優しい口調、でもルナウは怒っている、ナッシシムがそう感じる。
(昨夜、覗き見したことに気が付いてる?)
「あのね、ルナウ――」
謝ろう、そして正直に話せば、なにがあったのかルナウも話してくれるかもしれない。
「おかえりくださいと言いましたよ」
「聞いて欲しい話があるの」
ルナウが静かな視線をナッシシムに向けた。そして溜息を吐く。
「昨日の夜、家の庭を覗きましたか?」
先に言われてナッシシムが何も言えなくなる。
「まったく、あなたときたら、本当に困った人ですね――見てしまったのなら仕方ありません。見られて困るものではないけれど、見られたくはありませんでした」
「ごめんなさい」
縮こまるナッシシム、ルナウが呆れて苦笑する。
「もういいからお帰りください。今日のお菓子を作るんで――あぁ、でも、他言無用でお願いしますよ」
「うん、誰にも言えない」
だって覗き見したなんて、恥ずかしくって言えるもんじゃない。それに、何を見たかは口にすることさえできない。
「ねぇ、ルナウ。あの人は誰なの?」
「それは――お答えすることはできませんが、そうですね、あとでお店にいらしてください。替わりに異国の旅人の話をもう一つお聞かせしましょう」
納得できず、もやもやしたままのナッシシムだが、粘っても無意味だと帰ることにする。すると蹄の音が近づいてくるのが聞こえた。
(誰かまた、氷を買いに来たのかしら)
そう思いながらサンザシの生け垣から出たナッシシムは思わず足を止める。向かってきたのはケンタウレ、いつか『底なしになれなかった沼の森』で出会ったポティニラマスだ。
ポティニラマスはナッシシムには一瞥もくれず、サンザシの生け垣を回り込んでフルムーンの敷地に入っていく。いけないと思いながら、生垣の茂みに隠れて覗き見をするナッシシムだ。ルナウ贔屓のサンザシが、トゲトゲでわざと引っ搔いて邪魔をする。それを無視し痛みに耐えるナッシシム、どうしても気になって、何が起こるのか見たかった。
「ポティニラマスさん……どうかされましたか?」
ウッドデッキの上でルナウが驚いている。
「賢者ルナウ、月に守られ花に愛された魔法使い――風がわたしに告げた」
ルナウがウッドデッキから降りてきて、ポティニラマスの傍らに立つ。背の高いルナウでも、肩がポティニラマスの馬体から少し上に出るだけだ。
「風はなんと?」
「実は結ばない――流せない涙、濡れることのない頬」
「それで心配して様子を見に来てくださった?」
「心配――気掛かりに思う心……受け止める者のいない嘆き」
ルナウが息を飲み、ポティニラマスの馬体の背にそっと手を置く。
「前足の背」
ポティニラマスの言葉に、ルナウが言われた場所に顔を埋めた。どうやら、声を殺して泣いているようだ――
その日もフルムーンは大盛況で、ルナウはナッシシムに構っている暇がない。来いと言ったから来たのに、と思いながら、立ち働くルナウがいつも通りなことにナッシシムは安心している。
『本日のメニューは紅茶・カモミール・ハイビスカス・ジャスミン。お好みで各種ジャムとハチミツ・ミルク。サービスのお菓子はオレンジケーキ』
階段下の黒板は少し手抜きだわ、と思ったナッシシムだ。ジャムの種類が書かれていない。それにレモンをきっと忘れている。
ポティニラマスに縋ってルナウが泣いていた。なぜルナウは泣いていたの? 泣くなんてルナウらしくない。昨日の夜から、どこかルナウはヘンだ。
ポティニラマスのことは気にならなかった。何しろケンタウレだ。森の賢者だ。不思議な力で物事を読み取る。きっとなにか感じて来ただけだ。それにルナウが甘えただけだ。
ルナウがポティニラマスに顔を埋めていたのはほんの少しの間だけだった。ルナウが顔をあげたら、ポティニラマスはいったん空を見上げ、何も言わずに帰った。生垣に隠れていたナッシシムは慌てて家路についたから、そのあとルナウがどうしたかまでは判らない。きっと何事もなかったかのように、お菓子を焼きに店に入ったのだろう。
「ナッシシム!」
声をかけてきたのはヴェリスウェアだ。後ろにローリアウェアもいる。ここにいると思ったわ、とナッシシムの隣に腰かけた。
「ローリアウェアったら、ナッシシムに会いに行こうって――」
「よせよ!」
ヴェリスウェアの向こうに腰かけたローリアウェアが顔を赤くして、小さな怒鳴り声で妹を止める。怒るようなことじゃないのに、と思いながら、それどころじゃないナッシシムだ。この二人がいたんじゃ、ルナウにあれこれ訊けないわ。
ルナウがカウンターに戻ってきて、双子の兄妹の注文を取る。
「ルナウ、今日のお菓子はなぁに?」
ヴェリスウェアの問いにルナウが苦笑する。
「黒板をご覧にならなかったのですね? 今日はオレンジケーキですよ。マーマレードを練り込んで焼きました」
「お茶は何があるの?」
「紅茶にカモミール、ジャスミンと、あれ? なんでしたっけ?」
「ハイビスカスだよ」
そう言ったのはローリアウェアだ。どことなく不機嫌そうだ。
「自分のところのメニューくらい頭に入れておいたら?」
「これは失礼いたしました。ローリアウェアさんは記憶力がいいのですね」
微笑むルナウ、嬉しそうな顔をして、すぐ不機嫌そうな顔に戻るローリアウェア、実はルナウがわざと忘れたふりをしたなんて、ローリアウェアも二人の女の子も気が付かない。
しばらく注文したお茶とお菓子で談笑していた三人だが、ルナウがカウンターに戻ると、ローリアウェアが昨日と同じようにルナウに話を強請った。注文の時、ルナウに冷たい態度を取ったことに気が引けていたのもある。二人の女の子がルナウのいない間に、『また話が聞きたいね』と言っていたのもある。案の定、ナッシシムが瞳を輝かせ、ローリアウェアを満足させた。
「そうですね――今日は遠い北の国の旅人のお話をしましょう」
ルナウが静かに語り始めた。




