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船を降りてからは妻の記憶に従って道を選んだ。言葉もよく判らなかった。だからどこをどう来たのか判らない。港の名もよく覚えていない。
「デモ、海ニ出ラレレバ、泳イデ行ケル」
カワタロは泳ぎが得意だという。淡水だろうが海水だろうが、潜水したまま何日もいられるらしい。やっぱり魚人なのだろうかとルナウが思う。
「魚人、チョト違ウ。河童ネ」
ルナウが問うとそう言ってカワタロは笑った。
「河童、故郷ノ川ヤ海ニハ沢山イタ。コノ大陸デ同族ニ会ッタコトナイ」
カワタロの国は、多くが人族だったという。獣人や鳥人、魚人もいるにはいたが、それぞれの種族ごとに別れて暮らしている。
「人族、時どき、我ラヲ神ト崇メタ」
多くの供物が捧げられ、暮らしに困ることもない。たまに人族を揶揄うこともあったが、おおよそ良好な関係だった。
「奥さまは、ご同族ではなかったということですね?」
この地では同族に会っていないというカワタロの言葉にルナウが問う。少しカワタロが寂しそうな顔をした。
「妻、人族――浜辺デ見ツケタ時、人族ノ里ニ送レバ、アルイハ望郷ノ念ニ苦シムコトモ、旅ノ空デ命、落スコトモ、ナカッタカモ」
そんな後悔に苛まれることもあると、再度カワタロは咽び泣く。そしてルナウが淹れた紅茶を啜り、
「アァ、緑茶ガ飲ミタイ。妻、好ンデ飲ンデイタ。ワタシノ故郷ノ料理、妻、好キダッタ。中デモ菓子、大好キダッタ」
と呟いた。
「緑茶ですか。あいにく扱ってないんです」
「緑茶、ココデハ驚ク程、高価。故郷デ、オ茶ト言エバ緑茶。紅茶ハ、コッチデ初メテ飲ンダ」
そして今度は、あぁ、アズキが食べたい、と呟いた。
「アズキですか?」
「コチラデハ見タコトナイ。小サナ豆。エット……アズキ色、ナニ色?」
カワタロの国ではアズキという紫がかった赤褐色の豆を甘く煮てペーストにしたものを素に、様々な菓子を作るという。
「その時、アズキペーストの作り方を教わったんです」
ルナウが懐かしんで微笑む。
「カワタロさんはその後、ここから一番近い海にはどう行けばいいとお尋ねになりました」
それなら『底なしになれなかった沼の森』を抜けていくのが近道です、とルナウが説明を始めると、カワタロが急き込んでルナウに訊いた。
「底ナシニナレナカッタ? 底ナシ沼モアル?」
カワタロが言うには、底なし沼は地中深くの水脈に届く深さがある。そして水脈は海まで届いているはずだ。
「川も必ず海に届く。だがそこには住む者がいて、自分たちの領域に余所者が入ってくるのを拒む。だから使えない。でも地中の水脈に住む者はない――水脈を抜けて海に行ける、カワタロさんはそう言いました。わたしは意地悪な妖精の森に棲む妖精の意地悪の意味を悟りました。あの森には底なし沼があるのです。そこに出ることがないように迷わせたのでしょう」
底なし沼は意地悪な妖精の森にあるとルナウから聞いたカワタロは、若草色の顔をどす黒くするほど考え込んでしまった。果たしてあの森にもう一度入って、生きて底なし沼に辿り着けるだろうか?
「こうなったら乗り掛かった舟です。意地悪な妖精のご機嫌を損ねるのは、わたしとしても避けたいところです。が、安心なさいと、わたしはカワタロに言いました」
必ず底なし沼に辿り着けるよう、わたしが魔法を使いましょう……そう言ってルナウは庭から一輪の花を摘んできてカワタロに渡した。
「これはイカリソウです。意地悪な妖精の森の中ではこの花を目印に進みなさい。足元に次々とこの花が咲くので、それを追ってお行きなさい。必ず底なし沼に辿り着けます」
イカリソウの花言葉は『旅立ち』、故郷へ旅立つカワタロを必ず守る。そしてもう一つの花言葉『キミを離さない』は、妻に対するカワタロの心そのもの。ルナウはそんなイカリソウをカワタロの守りと道標に選んでいた。
「カワタロさんのお話はこれで終わりです」
ルナウの言葉に、猫族の少年少女がほっと息を吐く。
「カワタロは無事に故郷に着いたのかしら?」
ナッシシムの問いにルナウが微笑む。
「それは判りません。でも、底なし沼には辿り着きましたよ」
「まぁ、ルナウ。底なし沼まで見に行ったの?」
ヴェリスウェアが目を丸くする。
「まさか! 翌日、意地悪な妖精の森に棲む意地悪な妖精が、嫌がらせをしてきたから間違いないと思います――それに、花を使った魔法を失敗するはずがありません」
「自信があるんだね」
ローリアウェアがニッコリする。それにルナウもニッコリ答える。
「はい、月、そして花の魔法を仕損るわたしではありません」
さて、とルナウがカウンターから出る。
「皆さん、お寛ぎのところ申し訳ありません。階段下の黒板に書いたとおり、今日はそろそろ閉店です――」
もうすぐ日が暮れる……ナッシシムが自宅に帰り着くころには薄暗く、どうしようかと迷う。
ローリアウェアとヴェリスウェアが一緒だったから、他のお客と同じようにルナウの店を後にした。いつもはルナウの閉店作業を手伝って、ご褒美に残ったお菓子とテーブルに飾った花を貰って帰るナッシシムだ。戻ってお菓子とお花を貰おうかしら?
お菓子はともかくお花は欲しい。お花ってだけでも嬉しいけれど、その上ルナウが涼しくなる魔法を掛けている。真夏の今、夜でも気温は下がらない。
自宅の前で踵を返し、双子がとっくに行ってしまったことを確認してから、ナッシシムは村はずれのルナウの店に向かって駆けだした。
フルムーンに着くと、店の灯りは消えていた。日も暮れて夜の闇に包まれている。でも、寝てしまうには早い時間だ。店の階段をのぼり、ドアをノックした。暫く待つが応えはない。
(出かけない言っていたのに、気が変わって出かけたのかしら?)
がっかりして帰ろうとしたナッシシムだが、『そう言えば井戸ってどこにあるんだろう?』と、ルナウから聞いた話を思い出す。ウッドデッキの端のほうから庭を覗けば見えるかもしれない。
(あれ? ここから下に降りられるんだわ)
店の中からテラスに出て、そこから庭に出られることは知っている。だけど、ウッドデッキの端が木戸になっているのには気が付かなかった。そっと押して庭を覗き込むと、すぐそこに井戸がある。
(この井戸からカワタロは水を汲んで浴びたのね)
ついナッシシムの顔に笑みが浮かび、なんとなく庭の奥を見た。すると何かが光っているのか、ぼんやりと明るい。それになんだかいい香りがする。何も考えずナッシシムは木戸を開けて、庭へと降りた。
勝手に入り込んだ後ろめたさに恐る恐る庭のほうへと近づくと、ぼそぼそ話す声が聞こえる。ルナウの声? でもどこか悲しそう――
ようやく光源が見えた。ルナウだ。ハーフエルフのルナウの身体はいつも微かな光を放っているけれど、夜の闇の中だとこんなに明るく見えるんだ。それに……もう一つ、もっと強く輝いている、あれは何?
幅広の太い茎が連なって聳える先に大きくて真っ白な花が今、まさに蕾を開こうとしている。その蕾から、湧きだすように光の粒が次から次へと零れ落ちる。それを見上げ、囁いているのはルナウだ。でも、なんて言っている? 声が小さすぎて聞こえない。
ますます蕾が膨らんで、ルナウが腕を伸ばす。花を摘んでしまうんだろうか? ナッシシムが見ていると……
「……!」
ナッシシムが息を飲む。開いた蕾から手が伸びてくる。その手がルナウを求め、ルナウがその手を求めている。やがて腕が出、サラサラと流れる美しい髪の頭が出て肩が出て、ルナウの腕に抱きとめられていく。足の先まで出切ってしまうとルナウが抱き取って、そっとその足を地につけた。
(女の人だ――)
口を押えて声を出さないようにしながらナッシシムが思う。花の妖精? それにしてもなんて綺麗なの?
女はやはり輝きを放っている。でもそれはルナウとは違い、身体が光っているのではなく、宙に舞い散る光の粒の煌めきだ。
抱きしめあい、見つめあい、やがて二人は唇を重ねた。ルナウが女の頬を包み込むように撫で、瞳の奥を覗き込む。ルナウの肩に置いた女の手が滑るように落ち、ルナウの肩から服も一緒に滑って落ちる。ルナウの光る肌の見える範囲が広くなり、女が放つ光の粒は花火のように華やいでいく。そして二人はゆっくりと、蕩けるように横たわっていく。
(いけない! これ以上見てちゃいけない!)
逃げるように、ナッシシムはその場を離れた。




