ショートストーリー 話を聞かせて
「――え、本当にいいのかい? じゃあ、ご馳走になるね……変わってるね、君。こんなオッサンの話に興味あるの?」
マスターに氷入りのグラスをふたつ出して貰い、一つずつにゆっくりとキープボトルの「ジェムソン・スタウトエディション」を注ぐ。丸く削られた氷を琥珀に染める甘い香りのアイリッシュウイスキーは、このところの私の気に入りなのだ。
カウンターの隅に陣取った私と男の前に、すかさずコースターが置かれた。ちらりとマスターを見ると、何事も無かったようにグラスを磨き始めている。
男のコースターに重厚なグラスを置く。
目の前に置かれたグラスを男が興味深げに眺める。バカラのロックグラスが、極限まで落とされた店内の微かな明かりに煌めく。
隣りに座る中年男の顔は以前から知っていた。何度かこのバーで見掛けたことがあったから――会話を交わすのは、これが初めてだが。
男は私がカウンターに滑らせた名刺に目を落とし、
「へー、オカルトライターさんなんだ。ああ、それで……僕のことはマスターにでも聞いたの?」
すまし顔でグラスを磨くマスターに苦笑すると、「別にいいけどさ、そんな尺を稼げる話でもないよ?」と、自身が体験した奇妙な話を語りだした。
この店の前の道を左にずっと行くと、ちょっと広い道路にぶち当たるでしょ?
僕の家ってあそこを渡った先なんだけど、あの辺りって、歩道橋が無いんだよね。横断歩道のある交差点も中途半端に遠いしさあ。
あ、君も知ってる?
へえ、そうなんだ。うん、たまに通りかかる位ならいいだろうけど、毎日ってなると、まー不便でさ。一週間くらい前だったかな、此処で飲んだ帰りにあの道路まで出たら、目の前に押しボタン式信号の横断歩道が出来てて、「やった!」って思ったもん。そりゃもう、勢いよくボタンを押したよ。出来れば夜中の内に工事を終わらせて、朝から使わせてほしかったけど……やっぱ夜中に工事すると、騒音で苦情が来るとかあるのかねえ? なんて考えながらさ。
まあ、それはいいんだけど、兎に角待たされんだよ、その信号。デカい道路だから車がバンバン通るし、他の信号との兼ね合いもあるだろうから、そうすぐに変えられないんだろうね。ボタン押してから、多分、二分近く待たされたよ。
でしょ? 流石に待たせ過ぎだよねえ。けど、あそこは飛ばす車が多いし、交通事故が怖いから、苛々しながらもちゃんと信号が変わるまで待ってたのよ。
で、やっと信号が変わって、一歩を踏み出したら、ものすごい勢いで車が突っ込んで来るのが見えたの! 大袈裟じゃなく、人生で一番飛び上がったよ!
いやホント、酔いなんて一瞬で醒めたね。
音か……確かに、なんで気付かなかったんだろう。信号待ちで苛々してたし、そこそこ酔ってたからかなあ。けど、思ったよ。信号の確認だけじゃなくて、やっぱり左右も見なきゃ駄目なんだなって。
まあね。僕も、「おい、信号無視してんじゃねーよ!」って怒鳴りたかったんだけどさ。
耳のすぐ上で「やーい、引っかかった、引っかかった」って聞こえて……「えっ、何が?」て、声のした方に目を向けたんだけど誰も居ないんだよ。意に反して身体が震えちゃって、もう動けなかった。
その時、ちょっと離れた交差点の信号が目の端に入ってさ、車道側が丁度赤に変わる所だったの。
……おかしいだろ? だって、渋滞を引き起こさない為に、ああいう大きい道路は前後の信号の変わるタイミングが連動してる筈なんだよ。なら、ついさっき目の前の信号が変わったって事は、向こうに見えた信号だってもう変わってるべきじゃない?
で、慌ててすぐ目の前の道路に目を戻したら、そもそも、横断歩道も、手押し式信号も無かったんだ。勿論、車用の信号だってなかった。いつも通りの広い車線が、向こうとこっちを隔ててた。ただ、歩道のすぐそこに、誰が供えたのか小さな花束が置かれてたのに気が付いたよ。
あー、呼ばれたんだ、って思った。この花って、そう言う事だろうなって。
上から聞こえてきた声といい、あそこには「なにか」が居るのかもね。花を手向けられた存在がヤバいのか、それとも、元からいたヤバいのが原因で花を供える様な事が起きたのかは、僕には判らないけど……。
……そう話を締めくくると、男が大きく伸びをした。
「いやー、実はあの道通るのがちょっと怖かったんだけど、話を聞いて貰ったらなんか気が楽になったし、そろそろ帰るわ。どう? こんなつまんない話だけど、いい記事に出来そう?」
と、不安げに問う男に頷いた。
「つまらないなんて、とんでもない。貴重な体験談を聞かせていただけて助かります」
「そう? ならよかった。あ、記事にするなら、僕の実名は伏せてよー? 有名人になっちゃうのは困るもん」
男がおどけたように言った。それから、ぽつりと。
「ああそうだ、これだけはちゃんと書いて欲しいんだけど」
「? なんでしょう?」
「道路を渡る際には、信号、左右確認、それから歩道になにか供えられてないかも確認してね、ってさ」
「――お約束します」
私の言葉を聞き、
「ウイスキー、ご馳走様。もう会うことは無いと思うけど、もしまた会えたら次はジンで乾杯しよう。今度は僕が奢るよ」
軽く手を振り、笑顔で店を出て行った。
私はグラスを空にすると、再びジェムソンを注いだ。先程まで男が居た席では、手付かずのグラスが汗をかいている。
「――随分氷が解けちゃいましたね、取り替えましょうか?」
マスターが誰も居ないない席に声を掛ける。私は小さく首を振り、「もう居ないよ」と教えてやった。
「話が終わったら気が済んだのか、楽しそうに帰ってったよ。あの口ぶりだと、もう来ないんじゃないかな」
「そうですか、Оさん、話し好きでしたから……。ありがとうございます、きっと、満足されたんでしょう」
この店の常連客のОが交通事故で無くなったのは、一週間ほど前の事だった。それ以来だ。彼の気に入りだったカウンター席に座った客の具合が悪くなるようになったのは。
昨夜はとうとう、「ああ、身体中が痛い……」と呟く男の声が聞こえたって、客が言い出した。
マスターは察した。
もしかしたら、亡くなったОさんがウチに通ってるんじゃないか。週の四日はここに通ってくれていたОさんは、まだあっちに行く気が無いんじゃないか。
このままじゃ、店に幽霊が出ると噂が立つのは時間の問題だった。なにより、上客だったOさんが成仏できていないようで胸が痛む――。
そして、私に連絡を寄越したのだ。死者を視て、話せる、私に。
「前も言ったけど、私、お祓いとか出来る訳じゃないんだけどね」
「でも、彼等と話すことは出来る」
「そこらに居る普通の相手ならね」
溜息まじりの私の言葉に、
「どんな話だったのか分かりませんけど、Оさんから聞いた話を記事にするんですか」
「本人がいいって言ってくれたし。けど、ちょっと悩んでる」
「何をです?」
「Оさんの体験を書くか、Оさんの話を聞いた私の体験を書くか、って」
「はは。どっちにしろ、記事が掲載されたらじっくり読ませていただきますよ」
マスターの言葉に頷き、ジェムソンを飲み干す。
空になったグラスが下げられ、新しいグラスと、大好物の牡蠣のオイル漬けが置かれた。注文した覚えの無い牡蠣を指差し首を傾げると、マスターがゆったりと微笑む。
「奢りです。今日の御礼に……ごゆっくり」
貸し切りの静かな店内で、グラスの氷が、カラン、と小さな音を立てた。