09
『いっそ……もう、全部、壊れちゃえばいいのに』
図書室の静寂に溶けたはずの彼女の呟きが、昨夜からずっと僕の鼓膜の内側でリフレインしている。それは諦めであり、願望であり、そして破滅への序曲だったのかもしれない。如月真昼は、もう限界なのだ。薄氷みたいに張り詰めていた何かが、音を立ててひび割れ始めている。
翌日の教室は、その予感を裏付けるように、昨日までとは明らかに違う空気が流れていた。いや、空気は同じだ。違うのは、如月真昼、その人自身。
彼女は遅刻ギリギリに教室に滑り込んできた。いつも寸分の狂いなく整えられているおかっぱ頭は、今日は少し乱れていて、櫛を通した形跡すらない。制服のブラウスも、よく見れば皺が寄っている。そして、顔色。昨日までの比ではない。青白い、というよりは土気色に近い。目の下のクマは化粧では隠しきれないほど濃く、瞳は焦点が定まらず、虚ろに宙を彷徨っていた。
授業中、彼女はほとんどの時間、机に突っ伏していた。教師に注意されても、気だるげに顔を上げるだけで、ノートを取る様子もない。時折、何かに怯えるようにびくりと肩を震わせたり、神経質に爪を噛んだりしている。完璧な図書委員の仮面は、もう完全に剥がれ落ちていた。そこにいるのは、ただ精神的に消耗しきった、痛々しい少女の姿だ。
周囲のクラスメイトも、さすがに彼女の異変に気づき始めている。ヒソヒソと交わされる囁き声。心配そうな視線。あるいは、好奇の目。だが、誰も彼女に声をかけようとはしない。腫物のように扱われている。それが、この進学校の歪んだ優しさ(あるいは冷たさ)の形なのかもしれない。
僕も、声をかけられなかった。何を言えばいい? 「大丈夫か?」なんて、分かりきった質問は無意味だ。「昨日の言葉、どういう意味だ?」などと問い詰める権利も、勇気もない。僕はただ、遠くから彼女の壊れゆく姿を、無力感と共に眺めているしかなかった。共犯者なんて肩書は、こういう時、何の役にも立たない。
放課後。HRが終わると同時に、真昼はふらつく足取りで教室を出ていった。図書室へ向かうのだろうか。僕は迷った。追いかけるべきか。いや、やめた方がいい。今の彼女に、僕が何を言っても逆効果な気がした。
しかし、結局、僕の足は無意識に図書室へと向かっていた。義務感か、同情か、それとも単なる野次馬根性か。自分でも分からない。ただ、放っておけない、という漠然とした感情だけがあった。
図書室は、閉館間際でほとんど人がいなかった。カウンターに彼女の姿はない。いつもの最奥の席にもいない。どこへ行ったんだ?
ふと、書架の陰、普段は使われていない資料準備室のドアが、わずかに開いていることに気づいた。明かりはついていない。暗い室内から、押し殺したような嗚咽が漏れ聞こえてくる気がした。
まさか。
僕は息を飲み、そっとドアに近づいた。隙間から中を覗く。
いた。
床に蹲り、膝を抱えて、彼女は泣いていた。声を殺し、肩を震わせながら。昼間の教室で見せた虚ろな姿とは違う、剥き出しの感情。苦痛と、絶望と、深い孤独。
「如月……」
僕の声に、彼女の肩がびくりと跳ねた。ゆっくりと顔を上げる。涙で濡れた頬。赤く腫れた目。その瞳が僕を捉えた瞬間、彼女の表情が一変した。怯えと、驚きと、そして――憎悪に近いような、激しい拒絶の色。
「……来ないで」
掠れた声が、僕を拒んだ。
「いや、でも……」
「見ないで!」
金切り声に近い叫び。彼女は慌てて立ち上がり、後ずさる。その拍子に、ポケットから何かが滑り落ちた。
小さなタブレットケース。以前、僕が見たものと同じ。床に転がり、中身が散らばる。白い錠剤。
彼女は一瞬、それを見て、はっと息を呑んだ。そして次の瞬間、まるで何かに憑かれたように、床に散らばった錠剤をかき集め始めた。
「おい、よせ!」
僕は咄嗟に止めようとした。だが、彼女の動きの方が早かった。集めた錠剤を、震える手で、一気に口の中へと放り込んだのだ。数えきれないほどの量を。水もなしに。
「なっ……!?」
僕は言葉を失った。これが、彼女が「眠気覚まし」と言っていたもののはずがない。これは、明らかに――自棄になった、破滅的な行為だ。
「……っ——!」
錠剤を無理やり飲み込んだ彼女が、苦しげに呻いた。喉を押さえ、激しく咳き込む。顔色はみるみるうちに悪化していく。
「おい! しっかりしろ! 吐き出せ!」
僕はパニックになりながら叫んだ。駆け寄り、背中をさする。だが、彼女は僕の手を振り払った。
「……はな……して……」
彼女の言葉は、もはや懇願ではなく、ただの空気の震えに近い。
「馬鹿野郎! 死ぬ気か!」
「……もう……いいの……」
呟きは、ほとんど聞き取れないほど弱々しい。
彼女の瞳から、急速に光が失われていく。虚無。どこにも焦点が結ばれない、ガラス玉のような瞳が虚空を見つめている。呼吸が喉の奥でひきつるような音を立て始めた。「ヒュッ……」と短く、苦しげな息遣いが、静かな準備室に不気味に響く。全身が、意思とは無関係に小刻みに震え、痙攣している。指先が不自然にこわばるのが、薄暗がりの中でも分かった。
何か言おうとしているのか、唇がわずかに動いた。だが、声にはならない。ただ、乾いた喉から漏れる、微かな空気の音だけ。それは言葉ですらなかった。壊れかけた機械がきしむような、聞いているこちらの神経まで逆撫でするような、嫌な音。生命がきしみながら停止していくような、そんな音。
そして、まるで張り詰めていた糸がぷつりと切れたように、彼女の体がゆっくりと傾いでいく。抵抗もなく、ただ重力に従って。
僕は咄嗟にその体を支えた。腕の中で、彼女はぐったりと力を失っていく。軽い。あまりにも軽い。
「如月! おい、如月!」
呼びかけても、返事はない。閉じられた瞼はぴくりとも動かない。呼吸も、浅く、不規則になっている。
頭が真っ白になった。目の前の現実が、スローモーションのように引き伸ばされる。床に散らばった白い錠剤。力なく横たわる真昼。腕に伝わる、か細い体温。
どうすればいい? 何をすべきなんだ?
救急車? いや、ダメだ。呼べば全てが明るみに出る。彼女の秘密も、僕らの歪んだ関係も。そうなれば、彼女は今とは違う意味で壊れてしまうかもしれない。僕自身も、どうなるか分からない。
誰かを呼ぶ? 先生か? 図書室の他の誰か? 無理だ。この状況をどう説明する? 「クラスメイトが薬を飲んで倒れた」? それだけで済むはずがない。僕も疑われる。共犯者として、見殺しにしたと思われるかもしれない。いや、現に僕は止められなかった。見ていることしかできなかったじゃないか。
思考が、粘性の高い泥の中で空転する。冷や汗が背中を伝い、心臓が肋骨を内側から叩くようにうるさい。ドクドクという音が、自分の耳にもはっきり聞こえる。呼吸が浅く、速くなる。指先が震えて、彼女の体をしっかりと支えることすら覚束ない。
腕の中の彼女の顔は、驚くほど穏やかだった。苦悶は消え、ただ深く眠っているように見える。だが、その頬はあまりにも白く、唇からは血の気が失せている。触れた手が、ぞっとするほど冷たい。
まさか。
このまま、消えてしまうのか? 僕の目の前で?
あの夜、堕天使の姿を見た時から、心のどこかで予感していたのかもしれない。彼女の危うさ。脆さ。自ら破滅へと向かうような、痛々しい輝き。僕はそれを、遠巻きに眺めていただけだ。傍観者として。共犯者という名の、安全な距離から。止められたんじゃないか? もっと早く、何かできたんじゃないか? あの時、図書室で彼女が漏らした絶望の言葉に、もっと真剣に向き合っていたら? 後悔が、鈍い痛みとなって胸を抉る。
冗談じゃない。
こんな結末は、間違っている。こんな終わり方は、絶対に認めない。
「如月! おい、聞こえるか! 如月!」
僕は、ほとんど意味もなく彼女の肩を揺さぶり、名前を叫んだ。声が震える。腕の中のか細い存在が、このまま闇に溶けてしまいそうな恐怖に駆られて。
傍観者? 共犯者? 面倒事? そんな理屈や損得勘定は、もう思考の片隅にも残っていない。ただ、目の前のこの温もりが、完全に失われてしまうことが耐えられない。
ただ、消えてほしくない。
ここで、終わらせるわけにはいかないんだ。
閉館時間を告げるチャイムが、やけに大きく、頭の中に直接鳴り響いているようだった。図書館の冷たい床の上で、僕はただ、意識のない彼女を抱きしめることしかできなかった。