08
シャッターに刻まれた白い傷跡が、瞼の裏に焼き付いて離れない。あの歪んだ文字。《嘘つき》《壊れろ》。それは単なる落書きではなく、もっと切実な、悲鳴に近い何かだった。
翌朝、教室のドアを開ける前から、重い空気が肺に流れ込んでくるような錯覚があった。気のせいだ。いつもと同じ、退屈で生温かい空気のはずだ。それでも、僕の気分は昨日よりもさらに低空飛行を続けている。
視線は自然と、教室の隅、如月真昼の席へと向かう。彼女はもう席に着いて、教科書を開いていた。姿勢は正しい。表情も、いつも通りの無表情。昨日、廊下で見せた動揺や、僕に向けた脅迫の冷たさなど、まるでリセットされたかのように。
だが、よく見ると、完璧な仮面の下に、隠しきれないノイズが走っているのが分かった。目の下に、昨日よりも濃くなったクマ。教科書を見つめる瞳は、どこか焦点が合っていない。時折、小さくこくりと揺れる頭。睡眠不足か、あるいは……。昨夜も彼女は、あの白い翼を背負って、夜の街を飛んでいたのだろうか。あのシャッターに、叫びを刻みつけていたのだろうか。
授業中、教師の声は遠く、僕は無意識に彼女の後ろ姿を観察していた。ノートを取る指の動きが、時々止まる。窓の外へ向けられる視線は、空虚に見えた。彼女を閉じ込める「昼の檻」——この進学校の教室、親からのプレッシャー、そして彼女自身が作り上げた完璧な仮面。その檻の窮屈さが、後ろ姿からも滲み出ているように感じられた。
一方で、想像してしまう。夜の彼女。〈堕天使〉として街を破壊する姿。それは危険で、愚かで、破滅的な行為だ。わかっている。けれど、心のどこかで、その剥き出しの衝動に、歪んだ羨望を抱いている自分も否定できない。僕には決してできないやり方で、彼女は檻に抵抗している。たとえそれが、自らを傷つけるだけの、空虚な「夜間飛行」だとしても。
危うさへの懸念と、禁じられた自由への羨望。二つの感情が、僕の中でシーソーのように揺れ動く。面倒だ、という初期設定は、もうとっくに上書きされてしまっていた。
* * *
昼休み。僕は義務感から図書室へ足を向けた。カウンターには真昼がいるはずだ。何か変化はないか。共犯者としての、最低限の情報収集。
図書室は静かだった。カウンターに彼女の姿はあったが、本を整理するでもなく、ただ一点を見つめて椅子に座っていた。近づくと、僕の気配に気づいて顔を上げた。
「……神谷くん」
「……よう」
彼女の声は、いつもよりさらに低く、掠れていた。
「何か、用ですか?」
「いや……別に」
何を話せばいい? アリバイ工作の確認? 次の「活動」の予定? そんな言葉は、喉の奥で凍り付いた。今の彼女に、そんな事務連絡をする気にはなれなかった。
「……顔色、悪いな」
思わず、口から滑り出た言葉。しまった、と思った。踏み込みすぎた。
彼女は少し驚いたように目を瞬かせ、それからふい、と顔を背けた。
「……気のせいです」
「……そうか」
それ以上、会話は続かなかった。重い沈黙。彼女は再び視線を落とし、指先でカウンターの表面をなぞり始めた。その指が、微かに震えているように見えた。
僕はこの場にいるべきではない。そう感じて、踵を返そうとした時だった。
「……ねえ、神谷くん」
彼女がぽつりと言った。僕を呼び止める声は、弱々しく、それでいて妙に切羽詰まっている。
「なんだ」
振り返ると、彼女は俯いたまま、唇を噛みしめていた。何かを言おうとして、ためらっている。
「もし……」
彼女の声は、息のように小さい。
「——もし、全部……めちゃくちゃになったら、どうなるのかな」
僕は言葉を失った。全部、とは何を指すのか。彼女の二重生活か。親との関係か。それとも、もっと大きな何かか。
彼女は顔を上げない。ただ、続けた。
「いっそ……もう、全部、壊れちゃえばいいのに」
それは、誰に言うでもない呟きだった。絶望の色を煮詰めたような、暗く、重い言葉。図書室の静寂の中に、それはゆっくりと溶けて、消えた。
けれど、僕の耳には、いつまでもその響きが残った。
彼女は、限界なのかもしれない。
昼の檻と、夜間飛行。その両極端な世界を行き来するうちに、彼女の心はもう、張り詰めた糸のように、切れかかっているのではないか。
僕に何ができる? 何もできない。僕はただの共犯者。首輪をはめられた、都合のいいパートナー。
それでも。
彼女のあの呟きが、まるで助けを求める声のように聞こえてしまったのは、僕の感傷だろうか。
図書室の窓から差し込む午後の光は、やけに明るく、そして残酷だった。