07
翌朝、目が覚めた瞬間から、首筋に妙な重さを感じた。もちろん物理的な重さじゃない。昨日、如月真昼にはめられた、見えない首輪の感触だ。
『神谷くんが延滞してた“本当の理由”も、黙っててあげる』
存在しない「本当の理由」を盾にした、一方的な脅迫。相互確証破壊なんて、ただの建前だった。僕は彼女の掌の上で踊らされる、ただの駒。その事実が、胃の中に冷たい石みたいに沈んでいる。
教室のドアを開ける。昨日と変わらない、生温かい空気。自分の席に向かう途中、視界の端に彼女の姿を捉えた。如月真昼。今日も完璧な擬態。地味でおとなしい図書委員。僕に向けられる視線は一瞬で、すぐに手元の教科書へと落ちていく。昨日の「会議」など、まるで存在しなかったかのように。
授業中も、彼女の存在が妙に意識に引っかかる。ノートを取る指先。時折伏せられる長い睫毛。そのすべてが、計算された演技に見えてくる。僕だけが知っている、あの仮面の下の歪み。そして、僕を縛る冷たい鎖。面倒だ。本当に、面倒くさい。
昼休み。教室の喧騒が耳障りで、僕は無意識に廊下へ逃れていた。自販機で買った缶コーヒーを一口飲んだ時、ふと視界の隅に人影を捉えた。少し先の、窓際の目立たない場所。如月真昼が、壁に背を預けるようにして携帯電話を耳に当てていた。
珍しい、と思った。いつも図書室か教室の隅で静かにしている彼女が、廊下で電話をしている。しかも、その様子は普段の彼女とはまるで違っていた。
好奇心じゃない。ただ、無視できなかった。昨日、僕に冷たい首輪をはめた少女の、普段は見せない姿。僕は缶コーヒーを持ったまま足を止め、柱の影から、無遠慮に彼女を観察した。
距離があって声はほとんど聞き取れない。だが、普段の抑揚のない平坦な声とは明らかに違う、か細く、切羽詰まったような響きが断片的に耳に届く。
「……はい」「……でも、それは」「……すみません」そんな単語が、途切れ途切れに聞こえる気がした。
それ以上に雄弁だったのは、彼女の全身から滲み出る緊張感だった。電話を握る指は白く、微かに震えている。もう片方の手は、制服のスカートを皺になるほど強く握りしめていた。普段は整然と切り揃えられている前髪が、俯く彼女の額に乱れて張り付いている。
表情は、普段の能面のような無表情とは程遠かった。眉間には深い皺が刻まれ、唇は何かを必死に堪えるように固く結ばれている。時折、反論しようとするのか、わずかに顔を上げ、唇を開きかけるが、すぐにまた力なく閉じてしまう。まるで、見えない壁に言葉を叩きつけては、跳ね返されているみたいだ。窓の外に向いていたその瞳が、不意に潤んだように見えたのは、光の加減だろうか。いや、違う。あれは、涙を必死に押しとどめている目だ。
地味で、真面目で、いつも感情を見せない図書委員。その仮面が、今にも砕け散りそうに軋んでいる。電話の向こうにいるのは、一体誰なんだ。彼女をここまで追い詰める存在とは。
やがて、彼女はこくりと小さく頷き、通話を終えた。携帯電話を制服のポケットにしまい込む指先が、まだ震えている。壁に背を預けたまま、しばらく動かなかった。深い、深い溜息が、その小さな肩を揺らす。まるで全身の力が抜けてしまったかのように、ぐったりと項垂れていた。そこにいたのは、完璧な図書委員ではなく、ただ疲弊し、傷ついた、年相応の少女の姿だった。
その時、不意に彼女が顔を上げた。そして、僕と目が合った。
彼女の瞳が、驚きに見開かれる。次いで、見られたことへの羞恥か、あるいは恐怖か、顔からさっと血の気が引いていくのが分かった。慌てて背筋を伸ばし、乱れた前髪を払い、いつもの無表情を顔面に貼り付ける。その一連の動作は、あまりにもぎこちなく、痛々しかった。
彼女は僕に軽く会釈にも満たないような、ぎこちない動きで頭を下げると、逃げるように足早にその場を立ち去った。僕から目を逸らし、俯いたまま、小走りに近い速度で教室の方へ消えていく。
僕はその場に立ち尽くしたまま、彼女が消えた廊下の先を見つめていた。
あの怯えたような、それでいて何かを必死に堪えているような目。あれは、一体誰からの電話だったのか。ただ事ではない雰囲気だった。親からの電話なのだろうか。
だとしたら、彼女は家で一体どんな扱いを受けているんだ? あの怯え方は尋常じゃない。何か強いプレッシャーに晒されているのか……? 彼女の仮面の下にある苦悩が、現実味を帯びて脳裏に焼き付いた。
昼間の彼女が見せた、ほんの一瞬のヒビ。それは、夜の堕天使よりも、ずっと生々しく、僕の心をざわつかせた。面倒だ、という感情とは別に、何か別の、名前のつけられない感情が胸の奥で燻り始めていた。
* * *
放課後。僕は習慣のように図書室へ向かった。あの脅迫めいた貸し出しを受けた後では、行かないという選択肢は取りにくい。
彼女はカウンターにいた。僕の姿を認めると、小さく頷く。周囲に他の生徒がいないのを確認してから、カウンターに近づいた。
「……これ」
僕は昨日貸し出された『退屈の正しい飼いならし方』を差し出した。
「もう読んだのですか?」
「まあ、一通り」
嘘だ。読む気になどなれなかった。
「感想は……退屈だった、でいいか?」
「そうですか」
彼女は淡々と受け取り、返却処理をする。その時、ふと彼女の右手の甲に、小さな赤紫色の痣があるのに気がついた。昨日まではなかったはずだ。どこかにぶつけたのか? それとも……。昼間の電話の光景がフラッシュバックする。
僕の視線に気づいたのか、彼女はさっと手を引っ込め、袖口で隠すようにした。
「……何か?」
「いや、別に」
僕はすぐに目を逸らした。見間違いかもしれない。それに、たとえ痣があったとしても、僕が口を挟むことじゃない。首輪をはめられた僕には、彼女のプライベートに踏み込む資格なんてない。
重い沈黙。僕らは共犯者のはずなのに、互いの内面に触れることを極端に恐れている。薄氷の上で、互いの腹を探り合うような、奇妙な均衡。
「……じゃあ」
僕は逃げるように図書室を出た。背中に彼女の視線を感じたが、振り返らなかった。
帰り道。いつものルートを避け、少しだけ遠回りをする。気分転換、というわけでもない。ただ、まっすぐ家に帰る気になれなかった。昼間の彼女の姿が、妙に焼き付いて離れない。
昼間の電話での尋常ではない怯え方。そして、この痣。僕の中で、点と点が繋がり、嫌な線を結び始める。彼女が抱えている問題は、僕が想像していたよりもずっと根深く、暗いものなのかもしれない。そして、その暗闇は、僕の日常をも静かに侵食し始めていた。
繁華街に差し掛かる手前の、古い商店街。シャッターが下りたままの店舗が多い、寂れた通り。その一つ、埃をかぶったクリーニング店のシャッターに、それはあった。
白いスプレー文字。
《嘘つき》
《壊れろ》
以前にも見た言葉。だが、明らかに違う。文字の勢い。歪み。叩きつけるような怒り。あるいは、悲鳴のような切実さ。シャッターにぶつけられた感情の質量が、以前とは比較にならないほど重い。
これは、昨夜までの落書きとは違う。何かが変わった。いや、壊れ始めている? 昼間に見た彼女の涙目の残像と、このシャッターの傷跡が、嫌な具合に重なって見える。
僕はその場に立ち尽くした。シャッターに描かれた白い傷跡が、まるで彼女自身の心の叫びのように見えてくる。
胸騒ぎがした。
嫌な予感が、じっとりと背中に張り付く。
僕らの歪んだ共犯関係は、次のステージへ進もうとしているのかもしれない。
それはきっと、今よりもずっと危険で、そして救いのない場所へ。