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「すみませーん、この本、買えますか?」
クラスメイトの女子生徒——確か、あまり話したことのない、大人しいタイプの子だったはずだ——が、僕らの間に割って入るようにして尋ねてきた。
彼女が指差しているのは、今まさに僕と真昼の間で、複雑な過去の清算が行われたばかりの、あの忌々しくも、そしてどこか感傷的な記憶を呼び起こす本。
——『退屈の正しい飼いならし方』。
僕と真昼は、顔を見合わせた。
さっきまでの、シリアスで、けれどどこか温かい空気は霧散し、代わりに一瞬の緊張が走る。どうする? 売るのか? この、僕らにとって特別な意味を持ってしまった本を。
真昼は、僕の目を見て、そして——静かに頷いた。その瞳には、もう迷いはなかった。過去は過去だ、と。そう言っているようだった。
「……はい、どうぞ」
彼女は、先ほどまでの感傷を微塵も感じさせない、穏やかな図書委員の声で応じた。そして、僕の手から(いつの間にか僕が受け取っていたらしい)その本を自然に受け取ると、女子生徒に手渡した。
「ありがとうございます!」
女子生徒は嬉しそうに本を受け取り、僕のいるレジへと持ってきた。
僕は黙って会計処理をする。ピッ、という電子音。数百円の、ありふれた取引。
けれど、僕らの間では、もっと大きな何かが、今、確かに終わったのだ。過去の象徴は、僕らの手から離れ、新しい持ち主の元へと去っていく。
「——毎度どうも」
僕は努めて無感情に言い、レシートを渡した。
女子生徒が去っていく。真昼が、その背中を静かに見送っていた。
僕らは、もう一度だけ顔を見合わせた。そして、どちらからともなく、小さく息をついた。これで、本当に終わりだ。
* * *
文化祭の喧騒は、夕暮れと共に急速に終わりへと向かっていった。閉会のアナウンスが流れ、生徒たちが疲れと満足感を滲ませながら、あるいは祭りの後の独特の寂しさを感じながら、それぞれの持ち場を片付け始める。
僕らの「古本カフェ」も、閉店作業だ。残った本を段ボールに詰め、飾り付けを剥がし、机や椅子を元の位置に戻す。
僕と真昼は、他のクラスメイトたちと一緒に、黙々と作業を進めた。さっきまでの特別な空気はもうない。けれど、共有した秘密と、それを乗り越えたという確かな感覚が、僕らの間に、以前とは違う種類の静かな連帯感を生んでいた。
作業中、真昼が僕の隣に来て、段ボールを一緒に運びながら、ぽつりと言った。
「……おすすめコーナー、やってよかったかも」
「——ふうん。押し付けがましい推薦じゃなかったか?」
「……もう。でも、何人か、すごく真剣に話を聞いてくれて……。自分の言葉で何かを伝えるのって、少し怖かったけど、嬉しかった」
彼女は、はにかむように笑った。その笑顔には、確かな達成感が滲んでいる。
「——まあ、君の選書センスは、悪くなかったからな。……意外と」
「……意外と、は余計だよ」
軽く睨まれるが、その表情もどこか楽しそうだ。
やがて、片付けは終わり、教室には僕と真昼だけが残った。
他の生徒たちは、もう打ち上げにでも行ったのだろう。夕日が差し込む、がらんとした教室。埃っぽさと、コーヒーの残り香と、そして祭りの後の静寂が漂っている。
「……疲れたな」
僕が言うと、彼女も「……うん、疲れたね」と頷いた。
僕らは、窓の外を眺めた。グラウンドでは、まだ片付けをしている運動部の声が響いている。空は、オレンジ色と紫色が混じり合った、複雑な色合いに染まっていた。
「……さて、帰るか」
「……うん」
僕らは、ほとんど同時に立ち上がり、教室の出口へと向かった。
廊下を歩き、昇降口を抜け、校門へ。夕暮れの風が、火照った頬に心地よい。
並んで歩く。
言葉は、少なかった。けれど、沈黙は少しも気まずくなかった。むしろ、この静寂が、今日の特別な一日を締めくくるのにふさわしいように感じられた。
共有した過去。乗り越えた瞬間。そして、これから始まるであろう、まだ名前のない関係。
校門を出て、家路へと向かう道すがら。
僕は、ふと足を止めた。隣を歩いていた真昼も、不思議そうに僕を見て立ち止まる。
「……どうしたの?」
「——いや……」
僕らは、互いの目を見た。
夕暮れの光の中で、彼女の瞳が揺れている。そこには、期待と、不安と、そして——僕と同じ種類の、何かを確かめたいような光が宿っていた。
まるで、どちらが先に動くか、試しているような。
あるいは、互いの覚悟を、問うているような。
沈黙。
風の音だけが、やけに大きく聞こえる。
——やるか。
それは、言葉にならない、けれど確かな合図だった。
僕と真昼は、ほとんど同時に、相手に向かって、そっと手を差し出した。
ためらいも、照れも、もうなかった。
互いの指が触れ合い、そして——少しだけ乱暴に、しかし力強く、指が絡み合う。
ぎゅっと、強く握りしめ合う。
まるで、これが今の僕らの答えだ、とでも言うように。
繋がれた手のひらから、彼女の体温が伝わってくる。僕の体温も、彼女に伝わっているだろうか。
僕らは、どちらともなく顔を上げ、前を向いた。
そして、繋いだ手を離さないまま、再び歩き始めた。
(馬鹿みたいだ、と思った。けれど、悪くない。いや、これが、俺たちのやり方なんだろう。不器用で、意地っ張りで、けれど、もう一人じゃない。隣には、こいつがいる)
夕暮れの道は、まだ少しだけ明るい。
僕らの未来がどうなるかなんて、まだ分からない。
それでも、この繋いだ手の確かな温もりだけは、信じられる気がした。




